わたしは、戸口の屋根があるところに入り込んで傘を閉じた。ぱしゃんと傘から滑り落ちた雨の雫が床を叩く音が、ざあざあと降る雨音に吸い込まれて消える。長袖の上着の上から入り込んでくる寒さに、ぶるりと身体を震わせた。つい先日まで暑い暑い言っていたのに、急に変わる天気にまだついていけていないなあ。傘の留め具をぱちんと留めて石造りの傘立てに差し込むと、わたしは目の前の引き戸をガラララと開けた。少し持ち上げるようにするのも忘れずに。


「いらっしゃいませ」
「…こんにちは、あの、まだ、」
「大丈夫ですよ、こちらにどうぞ」


カウンターの中に立ったひとが、1番奥の席を手で示した。何か焼いているのか、じゅ、という音といい匂いがこちらに微かに届く。夜遅く、営業時間ぎりぎりだからか、店の中にはわたしの他にサラリーマン風の男の人がひとりだけだった。ゆっくりと示された席に近づいて、わたしは静かに席につく。


「すみません、戸をまだ直してなくて」
「大丈夫です!もうばっちり技を身につけましたから」
「すごいですね、僕も時々がたがた言わせちゃうのに!ここの戸のスペシャリストですね」
「なんですか戸のスペシャリストって」


わたしはカウンター内に立つシェフ(小料理屋だから、料理人っていったほうがいいのかな)と目を見合わせて笑った。ここを見つけて、定期的に通うようになってから随分経ったから、こんなふうに冗談を少し言い合うぐらいにシェフとは親睦を深めている。仕事があるから、ここに来るのはいつも閉店ぎりぎりでひとがあまりいないこともあるのだろうけれど。わたしは目の前のシェフ……アレンさんからおしぼりを受け取りながら、ご注文は、と尋ねたアレンさんに返事を返した。


「えっと、いまのお勧めと、」
「いかの塩辛、ですか?」
「……はい」
「承りました」


ふっと穏やかな微笑みを浮かべてアレンさんは料理のほうに取り掛かった。わたしのすきなものを覚えてくれていることに嬉しさを感じながら、わたしは渡されたおしぼりで手を拭う。不躾だとは思いながらそっと店内を見回すと、落ち着いた照明や装飾、変わらない木の自然な香りに思わず笑みが零れた。やっぱり、ここに来ると溜まっていた疲れがすっと無くなって、落ち着くんだよなあ。お店の雰囲気や料理だけじゃなくて、目の前で仕度をしている彼の存在が、また大きいのだけれど。じっとカウンターの中の彼を見つめていると、ふっと彼がこちらに向き直った。手には料理の乗せられた味のある焼き物のお皿が握られている。


「お待たせしました。こちらお勧めの秋刀魚の塩焼きと、いかの塩辛です」
「……わ、びっくりしました!すっごく速いですね、今日」
「そういえばいつもこの日のこの時間だなあと思ったので、準備してましたから」
「………あ、ありがとうございます」


ことりと目の前に置かれた秋刀魚と塩辛と、シェフの顔を交互に見て、わたしはなんとかお礼をどもりながらも口にした。自分が来ているときを覚えてくれていたこと、わたしを待っていてくれたんだということがすごくすごく嬉しくて、心臓がどきどきと五月蝿い。少し赤くなった頬に気づかれないように少し俯いて、わたしはすっと箸を手に取った。


「…いただきます」
「はい」
「……うわあ、おいし、」


一口、秋刀魚の塩焼きを頂いたら、いまさっき俯いたのも忘れて思わず言葉が出た。ありがとうございます、とアレンさんは微笑んでこちらを見つめている。美味しいご飯ってすごいと思う。一瞬でそのひとの気持ちを幸せにできるんだもの。そして、そんなご飯を作ることができるアレンさんって、やっぱりすごいんだなあ。しみじみとそう感じながら、いかの塩辛をひとくち。わたしの大好物のいかの塩辛。やっぱり美味しいんだなあ。アレンさんが仕込んだ塩辛は特に。うーん、幸せだ。


「……アレンさんと結婚するひとは幸せですね、こんな美味しいご飯を毎日食べられるんだもん」
「そんなことないですよ、それに奥さんにご飯作ってもらいますもん」
「え!ど、どうしてですか」
「それはもうバリバリ亭主関白でいきますから」
「こんなまずい飯食えるかああガラララガッシャンみたいな」
「ちゃぶ台3回転半みたいな」


わたしはアレンさんと顔を見合わせて吹き出した。亭主関白のアレンさん、なかなか見応えがありそうである。奥さんにも敬語で話し掛けたりするのかな。○○さん、ご飯作ってください、みたいな。お風呂はもう沸いてますか沸いてますよねニッコリ、みたいな。それはそれでなんか怖いかも。って、わたし、アレンさんのこと考えすぎだよね。


「……何か美味しくないものがありましたか?」
「え?」
「ものすごく頭振ってたので」
「あ、いっいいえ!滅相もない!です!」


ぶんぶんと右手を振ると、目の前に立ったアレンさんはまた吹き出して、今度は声を出して笑った。はは、と笑った顔は少年のようで、またわたしの心臓がきゅんとなる。なんだわたしの心臓。こんな、こんなことでどきどきしてたらわたしもうここにご飯食べに来られないよ、もう。月に一回、お給料が出た日に来るって決めてたのに。ご飯がすっごく美味しくて、頑張った自分にご褒美だって思って来てたのに。まいにちでも来たいなんて、そんな風に思っちゃだめ。絶対だめ。


「……やっぱり何かおかしいものがありましたか?」
「へ?」
「ものすごく頭振ってたので」
「あ、いや、えっとほんとうに滅相もございませんです!」


慌てふためいてぶんぶんとまた右手を振ると、アレンさんは今度はお腹を抱えて笑いはじめた。あくまでここは料亭なので声はもちろん抑えられているけれど。それはそうだがいくらなんでも笑いすぎじゃないかしら。


「…もうアレンさん、笑いすぎです」
「…ふ、っく、ご、ごめんなさい」


アレンさんは謝罪の言葉を口にしながら、人差し指で目元を拭った。どうやら笑いすぎて涙まで登場していたらしい。少し心外だけれど、アレンさんの笑った顔はなんだかわたしまで笑いたくなるから、許してあげよう。口元が緩むのを感じながら、わたしは箸を手にとって、また秋刀魚をぱくりと口にした。ん、やっぱり美味しい。何だかとっても、安心する。


「…やっぱりすごく美味しいです」
「ありがとうございます」
「なんだかほっとします、ほんと」
「よかったです、気に入っていただけて」
「もう、わたしもこんなに美味しいご飯が作れる才能があったらよかったのにって思います」
「才能だなんて、そんな」
「わたしがアレンさんだったら、まいにち美味しいご飯食べ放題じゃないですか。いいなあ…」
「……でも、自分で作ったご飯を自分だけ食べるのって、たとえ美味しくても結構さみしいんですよ?」
「それはもうほんと身に染みてわかります」
「美味しいって言って楽しそうに食べてくれるひとがいるからこそ、僕も料理作るのが楽しいなあって思えるんです」


ね、とさっきとは違う穏やかな笑みをわたしに向けるアレンさん。その笑顔と言葉にわたしはまた不覚にもどきりと胸を鳴らしてしまった。だめだ、わたしってなんて単純なんだろう。アレンさんは、別にわたしのことだけ言ったんじゃないのに。わたしのばか。ちらりと目の前のアレンさんを見遣ると、優しく微笑むアレンさんとばちりと視線がぶつかった。ああ、かみさま、あなたってほんとうに意地悪ですね。もうわたしの心臓は、これ以上もちそうにありません。わたしは、切実な願いを姿も見えない誰かさんにのせて、最後の秋刀魚をごくりとのみこんだ。



正直者は心臓と貴方ただふたり

11/09/27
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