だから嫌いだ。



薄暗い空気を四角い窓が淡青色に切り取って、彼の首筋を薄く染めた。夏の午後7時の青い光でさえも、彼の闇色の髪の毛を浸蝕するには余りにも弱く儚い。シャープペンシルを握った右手を動かす度に闇色は揺れて、薄暗い空気を少しだけ動かした。わたしは学校のものとは思えない革張りのソファの上で、暇を持て余してゆらゆらと両足を揺らした。


「ねえ雲雀」
「…………」
「ひま」
「…………」
「ひーまー」
「五月蝿い黙って」
「けち」
「なら帰れば」
「…………」


けち、とこころの中だけで呟いて、わたしはぷい、と雲雀から顔を逸らした。開け放った窓から入り込む蝉の声と、ブーンとその首を懸命に振る扇風機の音が混じって、またぐんと温度が上がってきたような気がする。申し訳ないのだけれど、天井からぶら下がって懸命に首を振る扇風機の効力は皆無に等しい。扇風機の顔がこちらを向くと、ゆるく掻き回された生温い空気が頬を撫でてわたしはまた顔をしかめた。


「暑いよもうほんと。もう日も落ちかけてるのに太陽ってほんとネチネチしてるわ」
「…………」
「雲雀もそう思わない?」
「太陽がどんなやつかなんて僕は知らないよ。そもそも太陽に性格なんてあるのかい?」
「…ものの例えよ、ものの例え」
「ふーん。じゃあきみの言うものの例えで、もし仮に太陽に性格があったとしたら、」


きみよりよっぽど邪魔じゃないと思うよ。聞き捨てならない台詞にじろりと机に座る雲雀を睨む。当の本人は扇風機のゆるい風にその髪を少しだけ揺らしながら、するすると鉛筆を走らせていた。こちらを塵ほども見ていないその様子に唇が自然とへの字を描く。ていうか雲雀、それ性格じゃないじゃん。雲雀の感想じゃん。


「雲雀のばーか」
「………少なくともきみよりは馬鹿じゃないよ」
「全然かまってくれないし」
「大体きみ分かってるの?呼んでもいないのに勝手に此処に忍び込んで仕事の邪魔してるの、きみなんだからね」


鉛筆を走らせる彼に対して悪態をついても、少しもこちらに視線を送ろうとする素振りはない。目の前の書類ばかり食い入るように見つめる彼に、わたしは唇を再びへの字に曲げた。薄暗さが積み重なって行く中でじっとりとした空気は留まったまま、扇風機が意味も無く空気の上辺だけを掻き回して声を上げていた。ああもう苛々してきた。邪魔してやる。

徐に皮張りのソファから立ち上がると、微かにぎしりとソファが鳴いた。ぺたりぺたりと上履きの音を立てながら彼の座る机の方に向かっても、彼はこちらに一瞥もくれやしない。そのことにまた唇を尖らせながら、わたしは彼の座る椅子の後ろに回り込んだ。黒い柔らかそうな髪がまた扇風機の風に揺れる。後ろからそっと腕を彼の首に絡めると、彼は漸く少しだけ視線をこちらに動かした。こちらが離す素振りを見せないのを見て、彼はゆるりと溜息に似た呼吸を漏らした。


「ちょっと邪魔。どいてくれる」
「やだ」
「暑いんだけど」
「ねえ、じゃあキスしてよ」


キスしてくれたら離してあげる。そう呟いて、わたしは彼の首に絡めた両腕をきゅっと少しきつくした。わたしのすこし汗ばんだ頬に彼の髪が触れる。うなじから立つ、鼻腔をくすぐる石鹸と汗の混じった匂いにわたしの奥がきゅんと鳴った。でも彼にとってわたしは、例えば彼がいま目を通している、ただ黒い文字が前ならえをしただけの紙切れみたいなものだ。別にそこに在ろうと無かろうと、例え気づいたのだとしても、彼にとっての世界なんて塵ほども揺れやしない、そんな存在。だからこそわたしはこんなにも必死になってわたしであろうとする。紙切れから、彼が着回すその白いシャツぐらいになりたくて、でもその今彼が着ているシャツだって何時かは擦り切れてくたくたになって捨てられていくんだと、そう分かっていたって紙切れよりはましだとそうこころの中で繰り返してわたしはまた浅はかな馬鹿女に成り下がる。ああそうだ、彼に言わせたら、わたしは生粋の馬鹿女なのだと。馬鹿女上等。だって馬鹿女は馬鹿女でも、雲雀恭弥にキスした馬鹿女はそういないでしょう?だからわたしは、わたしが軽い女だと思われようと後ろ指を指されようと、もうたとえ捨てられたっていいから、それでも嗚呼あいつを捨ててやったとそう記憶の片隅を焦がすくらいの人間でありたかった。自己満足上等。でもきっとそんな物分かりのいい女を演じていたって、キスしたらしたできっとまたわたしは彼の中のわたしの輪郭を更に濃くしたがるのだろう。だからほんとうにこのコイとかいう奴は嫌いだ。消えて無くなれとは思わないけれど。大っ嫌い。でもこの大嫌いな奴は、なかなかわたしのこころの奥から剥がれ堕ちてくれそうにない。彼がまたこうして、わたしみたいなどうしようもない女に妖艶ともいえる微笑を浮かべて、その細い指がわたしの顎を捕らえるその仕草に、堕ちるのは何時だってわたしの方なのだから。


純潔の遺体を抱いた夜


11/07/16
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