やっぱり、居た。新しく芽吹き始めた黄緑色からちらりと覗く黒は、彼の髪か制服か。自分の緩んだ口元に気づいて気を取り直し唇を引き結ぶ。風に靡いた髪を手櫛で整えて自分の制服に視線をぐるりと巡らせた。よし、問題無し。ふわふわと吹く風の中でわたしは一歩足を踏み出して、木陰で若草に埋もれた黒い彼の名前を呼んだ。

「……髪、それうちでは校則違反だよ」
「ケチヒバリ五月蝿い」

ひょっこりと木陰から叢を覗き込めば、こちらをちらりと一瞥した彼はそう呟いて、眠たげに欠伸をひとつついて瞼を閉じた。その傍らにわたしもこの日の為に綺麗にアイロンのかけられたスカートを押さえながら腰を下ろす。スカートを通して伝わる若草の感触は何時も通りの筈なのに何故か少しだけ冷たかった。胸まで伸びた髪を人差し指と親指でつまみ上げてじっと眺めれば、独りでに溜息が漏れてくる。こんなに暗い色にしてきたのにほんとこいつはけちだと思う。この一日の為にお金をかけて染め直して来たわたしの努力と意気込みを褒めて欲しい。大体一回染めたらね、あんたみたいな真っ黒には黒染めしたって完全に戻りはしないんだっつの。まあそんな主張はするだけ無駄だから素直にはいはいと空返事をするのだけれど。

「はあ、てか校長の挨拶ほんと長かったなあ。なんであんなつまんないこと30分も話し続けられるんだろ」
「保健医とか立ったまま絶対寝てたし」
「校長の挨拶ほんとつまんないし」
「………ねえちょっと聞いてる」
「聞いてない」
「うそ聞いてるじゃん」
「…………」
「出ただんまりヒバリ」
「…………」
「ねえねえ、わたし今日で卒業なんだからさ、何か餞別のひとつやふたつ頂戴よ」
「……別に餞別をあげる程の義理も無いし意味も無いよ」
「またまたあ、そんなこと言っちゃってさあ」

でもこうして待って見送ってくれてるじゃない。唇からそう本当に零れたかは分からないけれど、ひゅうう、と私たちの間を吹き抜けた風はもう冷たくは無かった。冬はもう終わる。こうして私たちはどうしようもなく押し出されて世界に吐き出されていく。別にわたしはそれに抗おうだとか、そんな大それたことなんて出来やしないし考えもしないけれど、例えばバンジージャンプの前みたいに、そうしなきゃ飛び降りなきゃいけないってそう分かっていたってちょっとの間だけ、数秒の間だけ、こわいと躊躇したって、それが当たり前でもわたしはそれでいいと思うのだ。現にわたしの前には知らない世界があって知らない何かに背中を押されていて、わたしはそれをこわいとそう思っている。目の前の世界ではなくて、知らない何かに背中を押される自分がこわい。だから、だから知らない何かにではなくて、否応なしにわたしを世界に押しやる確かなものが欲しくて、わたしは自分勝手にも貴方にその役目を押し付けようとしている。ひとを突き放すことに関しては彼以上の適任者はいない。でも何よりも彼に、雲雀恭弥に、わたしにとってこのどうしようもなく温くて仕方ない世界の真ん中に、突き放されることは何よりも今のわたしに必要なことだった。

「じゃあ物は要らないからさ、さよならとかそう言うだけでもいいから、ね、お願い」
「やだ」

なんだこいつこんなにケチだったっけ。わたしの為に声帯を震わせることすら億劫なのかと思うと少しだけ、いいや嘘だ、とても、胸の奥がじくじくと何かを生み出し始める。でももしかしたら彼は、わたしが彼の行為を、声を、これから数多積み重なる記憶の付箋にしようとしていることに気づいているのかもしれなかった。その前提に、わたしが彼を忘れようとしているということを仮定、いや確信して。

「じゃあいいよ、うん、まあ、あんまり期待はしてなかったし」
「…………」

沈黙とあたたかい日差しを遮る木陰がわたし達を包む。澄んだ、という形容詞とは少し違う、様々なちいさなものが散りばめられた空気は、別離とは掛け離れた雰囲気をこちらに寄越した。黙ったまま視線を地面に走らせる彼に少し溜息を吐き出して、すう、と息を吸って、わたしは口角を引き上げて彼に向かって笑った。

「わたし、すっごくこの並盛がすきだった」
「………」
「多分ね、」

貴方が居たからだと思う、雲雀。胸の奥に溶けた声は今もわたしを揺らす。わたしがゆく世界に貴方は存在しないけれど、ただこの並盛という町に在ったわたしをわたしは連れていくから。分かっていることは、わたしのなかに貴方は居ても、でも、貴方はわたしを此処に繋いではくれないのだろうということ。だからわたしも、貴方を此処で切り離して行きたくて仕方ないのだ。

「僕は、きみに何も渡さないよ。最後の思い出だとか、餞別だとか、そんなものきみにはやらない」
「でしょうねー」

まあ分かってたことだけど、そう呟けば笑いが込み上げてきて少しだけ声に出して笑った。なんにもない別れ。らしくていいとそう思った。だって現にわたしたちには確かなものなどなんにも無かったのだから。

「だから、」

だから、?思いがけない接続詞に地面に走らせていた視線が彼を向く。

「だから、勝手にすればいいよ」
「そ、う」
「勝手に会いに来ればいい」

すう、とわたしが立てる呼吸音だけがわたしの鼓膜を震わせた。緩やかに頬をなぜる風の音は、聞こえない。嗚呼こうして彼は何故かわたしの頭の中のごちゃごちゃを読んで、それを一瞬で消す方法をいとも簡単にやってのけるんだ。いつだってそうすれば良いのに、こうしてわたしが意図しない場所で唐突にそうするから憎たらしい。そしてまたわたしは彼に侵食されるんだ。悔しいけれど。

「……雲雀は会いに来てはくれない訳?」
「ハッ、冗談」

僕は並盛から一歩も出る気はないからね。彼はあたたかい風に黒い髪を揺らしながらいけしゃあしゃあと言葉を重ねた。その生意気な口調と生意気な表情が何故かとても胸をくすぐって、じゃあわたしから雲雀に餞別をあげるよ、そう口にしながらわたしよりまだ少しだけ低い肩に肘を掛けた。ひとがくれるという物は有り難く受け取るというわたし的基本スタンスを理解しているらしい彼は、何も言わずに大人しく待っている。まあ興味が無いと言われればそれまでだけれど、わたしは彼の少しだけ緩められた口元を見逃しはしなかった。少しだけ春めいた風が黒髪を揺らす。頬に寄せた唇は微かな熱を持って離れた。



卒業 おめでとう


11/02/27
涙墜さまに提出

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