片腕で誰かを抱きしめるということは可能なのだろうか。例えば、片腕を背中に回したとする。それで『抱きしめ』たって、酷く頼りないと思うのは僕だけだろうか。何か足りない。実際物体的には片腕が足りないのだが、腕一本だけではない何かが空白を生み出しているような気がしてならなかった。空白?何の?身体ならまだしもこころにそれが生まれていくような、そんな予感がして何時も僕にはそれが躊躇われた。だから、僕は一度も彼女を抱きしめたことが無い。その少し短めな髪を手で梳いて、頬に手を滑らせたことは有る。その唇にキスを降らせたこともある。けれど、彼女の背中に手を回して、腕の中に彼女を収めたことは一度だって無い。流れ出してしまうような気がして。言葉にならない隙間を作り出してしまう気がして。それが怖かった。僕には、僕の左手は、僕のものではなかった。



「それが、理由?」

彼女は酷く難しい顔をして言った。眉間に深い皺を刻んで、しかめ面をする彼女を僕は生まれて初めて見た。彼女は何時もくるくると表情を変えるけれど、誰かに対してこんな風にあからさまに苛ついた表情を見せたことは僕の知る限り無い。初めて見た表情に戸惑いを少し、感じながら頷けば彼女はその瞼を伏せてはあ、と溜息のようなものを吐き出した。

「分かった」

そうあっさりと僕の言葉を飲み込んだ彼女の声を聞いて、ばらばらになりそうになったこころを抑えて僕は瞼を閉じた。一瞬なのか、こんなにも。壊れる時というものは。ぐるぐると頭の中を彼女の声が廻って、脳に酸素が届かなくて、じわりと何かが瞼を満たす。

「アレンって、ばか」
「……へ」
「ばか、世界一ばか」
「…………」
「なあにが、僕の左手は僕のものじゃない、よ」

ゆらゆらと僕の団服の胸の辺りに視線を置いて、ばかじゃないの、と彼女はもう一度呟いた。静かな談話室に声が吸い込まれていく。視界に入った壁に掛かった時計の針はとっくに日の境目を越えて、1時間以上経とうとしていた。ふっと時計から視線を彼女に戻せば、彼女はこつこつとブーツの音を響かせながら僕に近づいて、呼吸音が聞こえるぐらいの距離で止まった。そして僕の背中に両手を回した。

「……どうし、」
「……………」

ぎゅ、ときつく僕を抱きしめる彼女の腕はとても華奢で、でも強い。下手をすると身体が悲鳴を上げそうな力で彼女は僕を抱きしめていた。顔を動かしても俯いた彼女の表情は見えなくて、背中に感じる腕の強さだけが脳に伝わる。痛いくらいに。さっき僕に馬鹿だ馬鹿だと言っていたけれど、君だって馬鹿力じゃないか。嗚呼そういえば前にどつかれた時も厭に力強かったっけ。脳が記憶を辿り始めた時、彼女はそっと腕を解いて僕を離した。目の前で僕を見上げて、その瞳は僕のそれを真っ直ぐに見つめる。

「どう思った?」
「……へ?ど、どう、って、」
「痛かった?」
「…はい」
「強かった?」
「はい」

そこは即答するんだ、なんて言って彼女は小さく笑った。少し上がった口角を引き戻してでも、と続ける。

「私ね、いまラビのこと考えてたの」
「…ラビ?」
「そう、アレンのこと抱きしめてたとき、私ラビのこと考えながらそうしてた」
「…………」


彼女の言葉と行動の真意がわからなくて彼女を見つめたまま口をつぐむ。問い掛けるように首を少し傾けた僕に向かって彼女はすう、と息を吐いて一瞬唇を引き結んだ。そして、僕の目を見据えてその唇を開く。

「どんなに強く抱きしめようと、甘い言葉を吐こうと」

こころが無くちゃ、意味が無い。自分に言い聞かせるように、含ませるように言葉を紡ぐ。例え一時一瞬こころが満たされようとも、もう次の瞬間にはこころを埋め尽くすのは空虚だから。

「抱きしめる強さで愛の重さは量れないよ、アレン」

そもそも、愛の重さ自体を天秤にかけること自体無意味だと謂うのに。彼女は子供をあやすようなそんな響きで言葉を発した。そっと伸ばされた彼女の手が僕の左手に触れる。指先は思っていたよりひんやりと冷たくて、でも少しずつじんわりと温かくなるのを感じた。そっと彼女の瞳を見つめれば、彼女のそれと視線が絡まって自然に笑みが零れる。と思えば、すっと彼女のもう片方の手が伸びて来て、空いた僕の額に指一本分の衝撃がやって来た。

「あだっ」
「簡単に別れるとか言うな、ばかもやし」

そう言って彼女はにっと笑った。じんじんする額を押さえながら文句を言おうとして開いた唇は何故かごめん、と呟いていた。彼女の唇から零れた言葉とは裏腹に、笑って細められた目は何かを湛えているようにも見えて。嗚呼彼女も留まってはくれない時を感じているのだと、この未来に待つ悪夢のような瞬間からは逃れられないのだと肌で感じて、こわくて、でもそれでも僕は今が愛おしい。

「ごめん、ありがとう」

彼女の背中に廻した右手でそっと彼女を抱きしめれば、少しかすれた大丈夫、という声が鼓膜を揺らした。今はまだ甘い響きで。




抱きしめる強さで、愛の重さは量れない


10/09/25
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