排水溝に流れ落ちていく泡立った水はこぽこぽと断続的に音を立てた。スポンジを手に数秒ぼうっと意識を飛ばしていた僕は、それが途切れた時にはっと我に返る。スポンジを握り直して泡の付いたプレートを手に取った。きゅ、きゅ、と音を立ててプレートを擦るけれど、もう真っ白なプレートに汚れなど付いていないことは頭の片隅では分かっていた。でも、今は向こうに戻れそうにない。スポンジを動かす手を休めるとともにはあ、と有り難くない溜息が漏れた。やはり何度考えても理由が思い付かない。『結婚とか、それほど本気で付き合ってない』以外は。僕等はもう結婚するには早過ぎる、というような年齢ではないし、生活に困るような収入な訳でもない。要するに気持ちの問題ということになる。何だ、気持ちの問題って。分からない。僕は確かに、直球ど真ん中ストレートに投げるなんて事はまずない。世の中で言えば変化球を投げている部類だろう。恋愛に関して言えば。でも僕はストレートの変化球を投げていると自負している。昔そんなことをラビに言ったら鼻で笑われた記憶が有るような無いような気がするが。とにかく、僕は所謂『愛が足りない』的な不満は無いとそう信じている。むしろそんなこと言われたらそれはこっちの台詞だと言ってやりたい。大体何だくそもやしって神田かこのやろ、…………じゃなくて、やっぱり僕には分からない。泡だらけになったシンクと自分の手を見つめて考えても、何一つまともな理由が思い浮かばなかった。手を止めたまま考え込んでいると、ぺた、と控え目な足音が微かにシンクの水の音とともに響いた。ふっと視線を流し場の入口に向ければ、お皿を両手で持って立つ彼女が視界に入る。何か言いたげな、困ったような、言葉が見つからないとでも言うような、そんな顔をしてそこに立つ彼女に、僕は口角を無理矢理引き上げる。

「そこ、置いといて下さい。僕洗いますから」

顎でキッチンの空いたスペースを指してまた僕はスポンジを持った手を動かし始める。目線をシンクに戻したけれど、きゅ、きゅ、と響く音に混じって聞こえるぺた、という足音に注意を向けずにはいられなかった。直ぐにスポンジの用は無くなり泡の付いた手で蛇口を捻る。サアア、と流れ出した音とともに止んだ足音に僕は右へ顔を向けた。

「置いといていいですよ」

食器を手に持ったまま僕の傍らに立つ彼女にそう声をかける。俯いた彼女の顔を覗き込むようにして顔を傾ければ、唇を噛んで瞼を伏せるのが見えた。

「………どうしたんですか」

明らかに様子がおかしい彼女の姿に、僕は泡の付いた手を洗って蛇口を止めた。濡れた手をキッチンのタオルで拭って彼女に向き直る。俯いたまま言葉を発しない彼女からそっとその両手に握られた食器を離して空いているスペースに置いた。そうすれば、彼女が空いた両手を下ろしてきゅ、と白いルームウエアのズボンを握りしめるのが視界の端にちらりと見えた。

「どうかしましたか…?」
「…………………」
「さっき僕が言ったことなら、気にしなくていいですよ。困らせてしまって、すみません」

首を傾けて俯いた彼女の顔を覗き込む。彼女が噛み締めるその唇に手を伸ばして親指でそっと触れた。

「傷、ついてしまいますよ」

僕の言葉に彼女は首をふるふると横に振る。違う、違うの。微かに空気を揺らした言葉。唇に触れていた僕の右手を彼女はその手でそっと下ろした。

「違うの、アレン」

声が、震えていた。





私を残して席を立ったアレンの足音が遠くなるのを待って、私ははあ、と息を吐いた。朝ご飯を食べる事がこんなにも辛かったことは今まで何回あっただろうか。たとえあったとしても、こんなにも苦しかったことは、情けなかったことは、きっと無かった。どんな顔をしていたのだろう。目を合わせる勇気が無くて、貴方の表情さえ見ることが出来なかった。情けない。不甲斐無い。込み上げてきたものをお皿に残ったサラダとともに押し込んで、私は席を立った。テーブルに残った食器を手早くまとめ、キッチンに向かう廊下のドアをゆっくりと開けた。

廊下を出来るだけ静かにキッチンへと歩を進める。何時もの癖でスリッパを履いていなかった為に、それでもぺたり、と床に足を着ける度に小さな音が響いた。スリッパぐらい履いて下さいとぶつくさ小言を言うアレンの姿が思い出されて心臓が小さく音を立てる。最初は何よ潔癖症かこいつは、なんて思っていたけれど、本当は私の足が冷えないようにと気遣って言った言葉だったのだと私はもう気づいている。彼は、スリッパを履けと冬にしか五月蝿く言わなかった。気づいている、といってもそれはごく最近のことで、その上数ヶ月前に一度茶化した時に、思い切り僕は潔癖症なんですとばっさり切り捨てられた。そして彼が私のちいさな頭では計り知れない程優しいのだと思い知る。ほんとうにやさしいひとは、それをみとめようとはしないんだよ。昔、誰かにそう言われた。そしてそれは真実なのだと私は身を持って知っていた。ユウは、神田ユウは、間違いなくそれそのものだった。


キッチンの入り口からそっと中を覗き込めば、シンクの前に立つ彼の姿が見えた。そして、彼のその表情に心臓がずぐり、と酷く音を鳴らす。嗚呼。思わず唇を噛み締める。そんな顔をして私を見ていたの、アレン。視界が少し歪んで、私は一歩後ろに下がった。案の定ぺたり、と床が音を立てて、アレンはこちらに顔を向けた。困ったように、無理矢理口角を引き上げて彼は笑った。言葉を言い終わると直ぐに視線をシンクに戻して手を動かす彼に、何か言いたいのに何の音も私から生まれては来なくて、どうしようもなく私はキッチンへ入った。彼の傍らに、もう直ぐ傍まで来たのに、言いたいことは何ひとつ音にならなくて、酸素が足りない。優しい言葉が降って来るのに何も私は言えない。どうして音に出来ないの。情けない。不甲斐無い。思わず唇を噛み締めた。僕が言ったことなら気にしなくていいですよ。どうしてそうやって私を甘やかすの。違うのに。私がいけないのに。身の程知らずの私がいけないのに。傷ついてしまいますよ。私なんか傷ついたっていいのに。アレンは、アレンは、私の何倍も、何十倍も、傷を刻んで来たのに。自分で望んだことではないのに、彼は、それをまるで自分が罪であるかのように思って生きて来たのに。違うのに。違うの。違うの、アレン。
ただ私は、貴方に自由であって欲しかったの。



違う、とそれだけ呟いた私に彼はその瞳を揺らした。その瞳は何処まで優しいの?その優しさは何時だって貴方自身に向かわないのに。あの戦争のときからそう。少しずつ、少しずつ変わっていくことはあったけれど、彼は何時だってそれを自分に使ってはくれなかった。彼は、彼にとってセカイは、彼の瞳から見えるものだったのだと思った。彼自身の足元に線引きをして、この線から向こうが、僕にとってのセカイ。じゃあ貴方にとって貴方は何だったの?私にとって、貴方が、貴方の居る場所こそが私にとってのセカイだったのに。何時だって貴方は自分を数え上げるのを忘れているんだ。そしてその上、彼のものだった未来は、いつの間にか知りもしないひとに縛られて浸蝕されていた。過去だって。そして今、彼が彼自身の為に命を燃やす時がやっと訪れたというのに、やっと自由になれたのに、それを私が壊していい訳無い。結婚だなんて、彼を縛り付けるのに十分な、いや、それ以上のものが無いといっていいほどの強さで彼をがんじからめにするに違いなかった。それを私が望んでいいものか。いい訳無い。だから。けれど。

夏にも関わらず震える唇から言葉をぽつりぽつりと吐き出して、そっと彼の瞳を見れば私を見つめる彼の瞳と視線が絡まった。それだけで胸の奥がきゅう、と鳴って、無意識に目を逸らした。だから、けれど。嗚呼、彼を縛り付けたくないと思う私は、それでも彼に縛られることを望んでる。彼の目に映るセカイの中に居たい。彼に私の目に映る全てになって欲しい。自由であって欲しいけれど、私を彼のセカイに閉じ込めて欲しい。一方的な依存など在りはしないというのに。それでも私は彼の傍に居たいんだ。歪んだ願いは何処へ辿り着くの?それとも、辿り着く前に沈むの?

「ごめん、アレン、ごめ、わた、し、」

ごめん、私、こんなにも矛盾してる。
貴方を縛り付けたくない。だけど。
それでも、あなたといたいの。


零れ落ちる。零れ落ちた、筈なのに、私の目から落ちたそれが床を叩く音はしなかった。ゆっくりと黒い布地に吸い込まれていくそれは、私の肌をしっとりと濡らす。顔を上げずとも分かる彼の匂い。私を引き寄せた手から、背中に回った腕から感じる彼の優しさに満たされると同時に、哀しみが胸の奥を揺らした。額を彼の肩に寄せる。彼の黒いTシャツに広がっていく染みが頬に触れた。視線をずらせば、襟刳りの大きく開いたシャツから身体に走る傷痕が覗いた。

「ねえ、」

「ねえ、よく聞いて」

私の肩に手を置いて頭の上から彼は言葉を降らせる。

「僕の目を見て」

頭の上から降って来る言葉に私は微かに頭を横に振る。私はただ自分の爪先と白い床をじっと見つめ続けた。彼は数秒黙った後ゆっくりとしゃがんで私を見上げた。彼の銀灰の瞳と視線が絡まる。もう、彼の瞳は揺れていなかった。声は、静かだった。

「自由であることが、幸せだとは限らないよ」

でも、と言おうとして開いた唇は用を無くす。

「自由なんて、酷く淋しいよ」

彼は語りかけるような、子供をあやすような、そんな口調で私にそう言った。




自由は酷く淋しい。そう言えば彼女はその瞳を瞼の中でゆらゆらと揺らした。もう一度彼女の瞳を見つめて言う。自由は、淋しいよ。僕の言葉に彼女は困ったように眉を下げた。自由を手に入れるなんて至極簡単なことだ。自由なんて、それ相応の代償を払えば簡単に手に入る。ただ、その代償が酷く難しい。僕はとても、怖い。

「僕は自由が怖いんです」

揺れる彼女の瞳を見つめる。誰の束縛も受けずに自由であるということは、自分の意のままに生きてゆくことを可能にする代わりに自分の存在価値を失うことを意味する。誰にも依存せずに生きていくことは、自分を代替可能の人間にする。例えば大量生産されたモノのように。自分の運命を呪ったこともあった。何故僕なのかと。何故僕が14番目の宿主なんだと。けれど。戦争の役者に選ばれたことで、分かったことが在る。僕であったって僕でなくたってそんなのどっちでも構わないなんて、そんなの淋しい。誰かを必要とし必要とされ、ただひとりの僕が在ること。その為に僕は生きている。誰かに縛られることで、誰かに依存することで、されることで、僕は唯一になれるんだ。

「貴女が傍に居てくれることで、貴女が僕に依存してくれることで、僕は本当の意味で自在になれる」

彼女の頬を親指でそっとなぞった。

「泣かないで下さい」

頬に遺った一筋を親指で拭う。新たな筋が出来ないように。

「僕を自由にしないで下さい」

お願いですから。喉の奥から零れた言葉は酷くか細くて、思わず唇を噛み締めた。目の前の彼女の顔がくしゃくしゃに歪む。僕に向かって飛び込んで来た彼女の身体を優しく抱きとめた。身体を震わせて嗚咽を漏らす彼女の頭をあやすようにそっと撫でる。包まれる彼女の匂い。

「酷い顔ですね」
「う、る、さい!」
「あほ面」
「うっさい!」
「間抜けにもほどがあります」
「う、る、さ、い!」
「傍に居て下さい」
「う、るさ、」
「結婚して下さい」



ずっと僕を此処に繋ぎとめて。


小指に蝶々結び

10/08/28
一万打 けいさんリク・後編

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -