ざわざわ、ざわざわ。何時もよりも賑やかな話し声が教室の後ろの扉を開けた途端流れ出してきた。黒板の上に掛けられた時計を確認して安堵の溜息を吐く。今年になって何回目かも分からない遅刻からはどうやら逃れられたらしい。なるほど、どの教室からも賑やかな声が漏れていた訳だ。一番後ろの窓から数えて2番目の自分の席へ乱れた呼吸を整えながらゆっくりと歩く。あと2分もあるなんて坂で走らなくても間に合ったなあ。どすん、と重たい鞄を机に乗せて肩と首を回す。置きべんをしない勤勉な学生と思ったひともいると思うけど、この肩を外す勢いの鞄の中には私の物なんて筆箱と財布と定期以外ひとつも詰まっちゃいない。まだ変な感触の右肩を押さえつつ私は筆箱を取り出す為に鞄のジッパーを引いた。鞄から引き出した筆箱と共に袋に入ったゼッケンが鞄からその姿を現す。嗚呼、朝練に間に合わなかったこと真田に何て言い訳しよう。一限の始まりを告げるチャイムがスピーカーから流れ出る。かんかんになって私を叱る真田の腕組み姿を思い浮かべてゆるりと溜息を吐きだしながら私はその袋を鞄の底に押し込んだ。どっこいしょ、とオジサンの如く声を発しながら重たい鞄を机の横に掛け、ガラガラと音を立てつつ椅子を引いてそれに座った。ざわざわ、ざわざわ。チャイムが鳴っても変わらないざわざわとした空気に少し違和感を覚えて視線を教室中にぐるりと巡らせれば、皆の唇の動きがよく見えた。同じフレーズが巡る。今日、幸村くんが登校するらしいよ。右手から、するりと筆箱が滑り落ちた。



ガラリと開けたその先の光景は自分の教室と変わらなかった。ざわざわとした空気と巡る同じ言葉がドアを開けた私に纏わり付く。少しだけ息を吐いて教室に足を踏み入れ、真ん中のちょっと窓側に自分の席を持つ彼に足取り重く近づいていく。本当は怒られるのが分かってるのに行きたくない。でも今日絶対部活があるから放課後に顔を合わせるのにそれまで謝りに行かなかったなんてことになったら私明日から落ち武者女子中学生を名乗らなければならなくなる。確実に。それだけは避けたい。

「真田」

中学生離れしたしっかりとした背中に向かって声をおずおずと掛ける。少しだけこちらに顔を向けた真田の眉間に皺を寄せた表情に思わず頭を片腕で保護。落ち武者は本当に勘弁してほんとまじで。

「朝練出れなくてすみませんでした」
「………何だその恰好は」
「私の未来を護ってるの」
「意味が分からん」

はあ、とあからさまな溜息を吐きだし机の上の教科書やらノートやらを鞄に片付ける真田。真田は思った通り置きべんはしない主義のようだ。ああそうね、真面目な真田は鞄もきっと日々の訓練とか思ってらっしゃるんでしょうよ!ハッ!私なんて自分の物詰まってないし訓練じゃないし拷問だしむしろ皆ゼッケン汗く「すまない」

「……へ?」
「その、すまない」

ゼッケンのことではない、わよね。私口に出してないよね。……うん出してない。真田も色々その、読める人ならば話は別だけれど。でも私が思うに真田は鈍感だ。硬派そうな雰囲気を出していそうだが実はニブいだけなのよみたいなね。まあこれは完全に私の考えだけだけれど。それより気になるのはあの真田がばつが悪そうに2限で使うらしい数学の教科書の端っこを指でとんとんしていること。これってちょっと貴重映像じゃない?立海ふしぎ発見。なんてね。

「……………」
「……何故、黙る」
「いや、何のことか分からなくて」

嘘だ。いや、半分本当で半分嘘。確かに真田が何を謝ったのかは分からなかったけれど、半分は真田の貴重なとんとんをもう少し見たいななんて好奇心。だが私がそう口にすれば真田は図らずもその数学の教科書をぱたりと机の上に置いて私を見た。

「悪かった」
「いやだから、何のこと」
「幸村の、ことだ」

なあんだそのこと。なんて、何でも無いように言えたなら良かった。不規則に揺れ始めた胸の奥のそれを必死に隠そうとして零れたのは微かな溜息。嗚呼ほんとうなんだ。帰って来るんだ。幸村が。

「そ、っか皆が言ってるの、ほんとだったんだ」
「すまない」
「だから、なんで真田が謝るの」
「………お前に伝えなかった」
「……………」
「もっと早く幸村のことを知らせることは出来た」
「……………」

もう一度口を開いて謝ろうとする真田をいいよ、という言葉で遮る。嗚呼、真田に分かられていたんだ。柳には見抜かれているだろうと思っていたけど、まさか真田にも見抜かれていたなんて。そういうことには鈍いんだろうとばかり思い込んでいたけれど、そういう訳でもないってことなのかな。まじまじと真田を見つめる。真田は私の視線を避けるように何も書かれていない綺麗に消された黒板を見つめていた。

「お前、…全国が始まった頃からだったか、様子がおかしかった」
「………うん」
「……何かあったのか」
「……………」
「……幸村と、何かあったのか」
「それは、違うよ」

真田は驚いたように少し目を見開いてこちらを見た。話し声に満たされた教室に意味も無く視線をさ迷わせて息を吐く。

「……幸村と何かあったとかそういう訳じゃない」
「幸村のことじゃないのか」
「………ううん、幸村のことだよ」

意味が良く分からないといったように眉間に皺を寄せる真田に、自分に対する溜息に似た何かを吐きながら言葉を紡ぐ。

「幸村と直接何かあったとかそうじゃなくて、最近のそれは私の問題だから」

だから真田は気にしないで、と口角を引き上げれば真田はさらにその皺を深めた。タイミング良く鳴り出したチャイムを理由にそこから逃げるようにぺたぺたと上履きを鳴らして立ち去る。響く話し声を背中に感じながら教室を出た。廊下を歩く足の運びが緩やかに加速して、あてもない息苦しさが胸を塞いだ。


-

日差しはゆっくりと緩み始め、校舎の端から赤紫の光がゆるりと姿を現していた。背中の方向からはボールとラケットがぶつかるあの音が聞こえる。それと共に響く誰かの怒鳴り声が私の体を震わせた。そろりそろりと振り向けば赤也が、また何かやらかしたのだろう、真田にガミガミと怒られているのが目に入って私は大きな溜息を吐き出した。真田め。声大きすぎて私が怒鳴られたかと思ったじゃんよ。大体朝練に遅刻(というより欠席)したぐらいでレディにこんなおっもいゼッケンの山とジャージの山とボールのカゴを一気に持たせるってちょっとデリカシー足りないと思うんですけど!腕に岩のようにのしかかる重みにわたしは真田に見えないように顔をしかめた。大体遅刻したのだってゼッケンの番号が剥がれないように手洗いしろっていうから全部手洗いした結果寝不足なんだからな!現代の洗濯機はハイテクだから手洗いモードがあるって散々真田に言ったのにそんなもの邪道だとかいいやがってコノヤロウ。マネージャー過労死したって知らないんだかんね!………そう口に出したら真田は絶対、殺してもお前は死にそうにないとか真面目に言うわね間違いない。腕の重みも相まって苛々は一気に風船のごとく膨れ上がった。よし、たった今真田のジャージは『偶然』落下することが決定しました。拍手。パチパチ。そうと決まれば。直ぐに山盛りのジャージの中からそろりと真田と書かれたものを探す。これは赤也、仁王、……ああもう量が多過ぎる!……ん?あ、これかも、

ひらりと真田のものらしきジャージを引き抜いて口角を片方だけ吊り上げる。引き抜いた拍子にぐらりと揺れたゼッケンとジャージの山を抱え直して片手で支えた。我ながらナイスなバランス感覚。右手の指先で摘んだ真田のジャージをゆらゆらと揺らして離そうとした、その時。

「さっさと運ばんかあ!!」

キーンと鼓膜が許容オーバーを告げる。両手はゼッケンとジャージとカゴに塞がれているので耳を塞ぐことは無念にも叶わず、私はもろに真田の遠距離大音量ステレオをお見舞いされ、私の唯一の目論みは果敢無く散ったのだった。


-

カゴとゼッケンと部員ほぼ全員のジャージ(勿論真田のジャージも)を抱えて私はふらふらと部室のドアノブに手を伸ばした。日差しと重力と真田の怒鳴り声でもう限界な私はドアに寄り掛かるようにして部室になだれ込む。電気を付けていないと相変わらずこの部室は薄暗い。よいしょ、と体をずらして完全に部室に入ろうとした途中、部室のドアにぶつかってガチャガチャとカゴが音を立てて揺れ、零れ落ちたボールが1個2個と綺麗に掃除された部室の床に跳ね返って転がっていく。ああ、と間抜けな声を出した私は重力をまざまざと思い知らせるゼッケンとジャージを傍らのベンチに取り敢えず置いてボールの行方を追う。落ちてきた髪の毛を掻き上げてしゃがみ込めば、ボールと共にシューズを履いた細い足首が薄闇の中ですっと見えた。

「きみは、相変わらずだね」

薄暗い陰から現れた凛とした声が、懐かしい響きで鼓膜を揺らした。急いで手探りで壁に右手を這わせ、指先に感じたプラスチックのボタンを押せばパチ、という音と共に蛍光灯がチカチカと瞬く。蛍光灯の白い光に照らされて、そのひとは静かにそこにいた。




「こんなに沢山持たせるなんて、きみ真田になんか悪いことでもしたの?」

苦笑混じりに幸村はその体を屈めて足元に転がるボールを拾い上げた。

「まあ多分朝練に間に合わなかったとかそんなことだろうと思うけど」

手の平の中でボールを少し転がしながら、懐かしむようなそんな声で幸村は言葉を発して私の方に向き直る。

「久しぶりだね」

そう言って微笑む彼を私は息を止めたまま見つめた。まさか部室に居たなんて思いもよらなくて、部活に彼は出てこなかったから嗚呼今日帰ってくるというのは出まかせに違いないとこころの中でそう帰結させて終わらせていたから、頭が上手く状況を飲み込めていない。意味が分からない。私の混乱した頭の中をするりと見通したらしい彼は、ああ、とまたその唇を開いた。

「電気も付けないでいたから吃驚させたね、ごめん」
「え、あ、うん、大丈夫」

ごまかすようにぱたぱたと手を動かす私に彼は少し微笑んで続ける。懐かしくて部室の中を見て回って何だかぼうっとしていたらいつの間にか日が傾いていたらしい。ぼうっとする幸村なんて何だか変な感じがするなあなんて頭を巡らせながら、取り敢えず一番最初に確かめるべきことを私は固まった唇をこじ開けて問うた。

「………本当に本物の幸村、なの?」

私の発言に幸村は一瞬ぽかんとした表情を見せて、そして直ぐに面白そうな顔をして微笑む。

「実は真田だよなんて言ったらどうする?」
「うっそまじですか」
「嘘だよ」

ハハ、と声を出して笑う彼の頬はまだ微かに青白さはあるけれど、確かに血の通った人間がそこにはいて、ゆるりと纏ったオーラは間違いなく幸村精市のものだった。儚くて、でも強い。矛盾を背負って矛盾を感じさせないそのひとは、間違いなく神の子と呼ぶに相応しいと誰もが言った。私もそう思った。そしてそうでなければ良かったのにと思った。弱くて強い幸村。それが皆を此処まで縛り付けていたんだ。

「……幸村」
「何だい」
「………もし、私が立海負けちゃえなんて今までずっと思ってたんだとしたら、どう思う?」
「……………」
「……驚く?」
「………驚きはしない」
「…どうして、」
「だってきみは俺の事が好きだろ」

彼はさも明々白々な事実であるかのようにさらりとそう告げた。

「きみは俺だし、俺はきみだ。俺がいらないと言われるのは、きみがいらないと言われるのと同じ事だろう?」

彼は言葉を言い終わると少しだけ首を傾けた。ふわりと群青色の髪が部室の生暖かい空気に揺れる。その青の深さに私は感嘆とも言えない溜息を漏らした。嗚呼、どうして皆簡単に私のこころを見透かして行くんだろう。ひとの気持ちはそのひとにしか分からないなんて誰が言ったのか。そう、私は幸村が好きだった。好きで、どうしようも無いくらい好きだった。だから、真田が幸村抜きでも3連覇を成し遂げてみせると言ったとき、私は幸村の顔を見ることが出来なかった。私は真田に申し訳なくて、だけど、幸村がいなくても平気だなんてそんなことが成り立って普通になっていくのは堪えられなかったんだ。突然ふっと幸村の匂いに包まれて、群青が目の前で煌めく。嗚呼目の前に、此処に、幸村がいる。本当に、かえってきたんだ。私を包む幸村の体から伝わる緩い温かさが胸を満たしていく。これは私の勝手な思いだけだけれど、やっぱり俺達には幸村がいなくちゃ駄目だって、ぽつりとでもいいから誰かに言って欲しかった。幸村は必要な存在であるんだって、私の好きなひとは居なきゃ駄目なんだって、死んだら駄目だって、そう言って欲しかった。そう言いたかった。だけど、立海の皆は弱音を人前で吐いたりはしない意地っ張りなひとばかりだったから、私が、負けちゃえばいいだとか、そんなこと言っていい筈無いじゃないか。でも、

「淋しかった?」
「………べつにそんな」
「じゃあ離していいよね」
「………っ、ほんとにちょっと、だけ」
「淋しかったんだ?」

言葉は返さずに幸村の肩に額を当てて俯く。クスリという笑いが上から降って来て私は思わず顔を上げた。私の背中に回った左手に掴んでいるテニスボールを微笑んだまま指先でそっとなぞって、かみさまみたいに幸村は笑った。やっとまた逢えたね、微かにそう聞こえた。




だれかに依存するなんておかしなはなしだ

でもかみさまもきっとわらってる



10/09/12
エディに追憶さまに提出

きっと立海の皆は部室のドアにへばり付いてる

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