馬鹿じゃないの、という言葉が私の口癖だった。否、彼に対する、私の口癖だった。私が何度彼にそう言葉を浴びせても、彼は何時だってにへら、と笑って、はい馬鹿ですと私に言い放った。それ以上反論する気力も根気もない私は、数ヶ月前こそ彼に諭すような言葉を掛けていたがここ最近はそこでひとつ溜息をついて会話が終わっていた。溜息をついた後ちらりとその表情を覗き込めば、まだ少し幼さの残る曲線を描く頬を膨らませてむくれているので、こころの中で可愛くすればいいってもんじゃないの、と言葉を吐くのもまた日常だった。
昨日までの、日常だった。



今私を見下ろす少年の身体は、アレン・ウォーカーのものだった。真っ白な髪の毛と睫毛、額の五芒星、そして傍らに転がる十字架の刻まれた剣。その輪郭は紛れも無いアレン・ウォーカーそのひとである筈なのに、違うのだ。私を見下ろす目も、頬に陰を作る髪のかたちも、唇から発せられる音も。
全てが、私の胸を刺した。
甘い痛みではなく、ずぐり、と音だけを立てて。
ぽっかりと空いた空洞から、流れ出していく、残像。




「貴女の事がすきなんです」
「………は?」
「だから、貴女の事が、」
「いや、そうじゃなくて、聞こえなかった訳じゃなくて、…その、すき、って」
「……へ?………ああ、えっと、女性として、好きって事ですけど」
「……馬鹿じゃないの」

言葉が自然に流れ出て生暖かい空気を揺らめかせた。生暖かい筈の空気は冷たい雰囲気に包まれる。初夏、任務に出ようと教団本部から出る戸口に手を掛けた私に後ろから響いた声は空気の生暖かさとは対照的に少年の爽やかな匂いを振り撒いていた。その爽やかな声も私の一言でこの空気に溶けて消えていく。ちらりと私より背の低い彼の顔を見れば、俯いた顔に掛かる白い真っ直ぐな髪が彼の表情を見えなくさせていた。ひとつ溜息を吐いて、俯く彼に背中を向ける。

「あの、お取り込み中悪いんだけど、私これから任務だから、お先に」

振り返らずにひらひらと片手を振ってその場を後にする。風で纏わり付く髪の毛を掻き上げながらでも可愛い男の子だったな、なんてぼんやりと思い出せない彼の名前を脳内で探していた時、背中から声が降って来た。



「オ前ヲ殺ス」



……違う。それは記憶の中の音じゃない。堅く瞼を閉じて、開く。冷たく鋭い眼光ともう一度吐かれた同じ言葉にまた胸の真ん中を貫かれた。嗚呼喉の奥が張り付いて声が生まれない。ひゅう、と空気を吸い込む音だけが鼓膜を震わせた。それと共にゆらりと彼の輪郭が揺れて、右手がゆっくりと私に伸びた。



「貴女の事がすきなんです」
「………馬鹿じゃないの」
「ええ、馬鹿です」
「な、」

あっけらかんとした言葉の返しに私が数秒口を半開きにさせて彼を見つめていると、彼はしてやったりといった表情で私に笑いかけた。思い直して急いで唇を閉じ、まだ緩やかな曲線を描く頬を綻ばせる彼に諭すように言葉を掛ける。

「あのね、」
「はい!」

ぱ、とまさにきらきらと銀灰色の瞳を輝かせて私を見つめる彼を不覚にも直視して頭が痛くなった。髪の毛に手をやって、くしゃ、と頭を掻く。伏せた瞼を片方だけ開いてそっと彼の顔を見れば、まだきらきらとした瞳で私の次の言葉を待っていた。

「………やっぱりいい」
「え、」
「じゃあね」

ちょっと待って下さい、という少年の声が背中に降り懸かるのを感じたけれど、私は振り返らずに教団の廊下を進んだ。溜息と共に瞼を閉じれば彼のきらきらした瞳がぼんやりと浮かぶ。嗚呼、彼は馬鹿だ。愛だの何だのも馬鹿らしいけれど、それであんなにも瞳に星を湛える彼は一等それだと思った。
彼の瞳は、否、彼は、純粋過ぎる。



私に向かって伸びて来た手は、思った通りと言うべきか、私の首にゆっくりとかかった。そしてそれは確実に、私を沈めていく。私を沈めるその手に両手を掛けて引き離そうとしても敵わず、着実に気管は塞がれて空気を遮断していく。力で敵わないと悟った私は、両手を彼の手から外し、教団の冷たい床をまさぐった。蘇る記憶は、彼の華奢な背中と響いた声だけを映像化していた。その時は僕を殺して下さい。右手に、使い慣れた自分のそれの冷たい感触がした。



「貴女の事がすきなんです」
「……ば「馬鹿じゃないの、って言うんでしょう?」

不意に図星を突かれて私は少しだけ目を見開いた。視界に入った彼の少し眉を下げた表情に思わず瞼を閉じる。そのまま、彼と知り合ってから何度目か分からない溜息を吐いた。そうしなければ同情の言葉を彼にかけてしまいそうだったから。自分が吐いた溜息が談話室の肌寒い空気に溶けていくのを数秒待ってそっと瞼を開けば、私を見つめる銀灰色の瞳とばちん、と視線が合った。彼の唇が動く。

「僕は、本気なんです」
「………じゃあ益々馬鹿ね」
「……僕は、」
「馬鹿なんです、って?」

皮肉を込めてそう言葉を続ければ、また更に眉を下げる彼。嗚呼今日は何時ものように子供の如くむくれはしないのか、とそう思いながら私は一人掛けのソファのひじ掛けを手の平で撫でた。ソファの傍らに立ち尽くしたままの彼の顔をそっと覗き込めば、その白い肌の眉間に深い皺が刻まれていた。

「………僕は、」
「なあに、アレンくん」
「………僕は子供じゃありません」
「子供よ、貴方は」
「どうして、」
「私みたいなオンナに好きだの愛だのほざいて傷ついてる間は、まだ子供よ」
「どういう意味ですか」

ひじ掛けに手をついて、ソファから立ち上がる。静かな談話室の空気を揺らして数歩歩いた後、背はそのままに顔だけ彼の方に向ければ、唇を噛み締める彼の苦しげに伏せられた睫毛が目に入った。視線を前に戻して、足早に廊下へと歩を進める。アレン。やっぱり、貴方は馬鹿よ。私は分からないのに。貴方が私に吐くそれに、実際に触れた事が無いから。そのあたたかさも冷たさも、私は知らない。



嗚呼これはこんなにも冷たかったのか。神に愛された印しとして皆が崇め、時には命を賭けて護り続けているこれは、一体何のために在るのだろう。肌を刺す冷たい痛みを感じながらそれをきゅ、と握り締めた。既に悲鳴を上げ始めていた脳からおぽろげに渡った信号によって、私の手はゆっくりとそれを彼に向けた。首に掛かる圧力は変わらずに私の喉を閉ざす。ひゅうひゅうとか弱い空気の音が鼓膜を揺らした。右手に握り締めたそれをもう一度強く握り締め、霞んだ視界の中に彼を再び捉えた。何の感情も読み取る事の出来ない眼光と、ふわりとかかったウェーブの白い髪。首に掛かる、圧力。そして紅い五芒星。
、その時は、僕を殺して下さい。
カシャン、と嫌になるくらい軽い音が響いた。嗚呼、ごめん。馬鹿は、私の方だ。変わらない圧力が命を押し潰していく。息もままならない中で、自嘲的な笑みが零れた。あんなにも、あんなにも馬鹿にしていたモノに殺されようとしているなんてね。口角を引き上げて笑みを零す筈が、引き攣って少し口端が痙攣しただけだった。空を掴む右手を彼に向かって伸ばす。もう思い通りに身体が動かないことを、薄くなっていく感覚の中で知った。
声はもう出ない。視界も白く霞んでいく。嗚呼いまもし貴方に言葉を伝えるとしたら、音に成らない声は棄ててまだ使える手で手紙を書くわ。それにはきっと、拝啓、貴方へ、だとかそんな風に書き始めなくちゃならないんだっけ。分からない。一度くらい、練習でもしておけばよかったな。ううん、形なんていい。形式なんてどうだっていい。こんなにも伝えたい言葉はひとつだけ。嗚呼でももう駄目みたいだ。指先は、届かない。世界が、白く染まる。


遠くで、ただ、何かが堕ちる音が聞こえた。


方へ

10/07/31

白葬さまに提出

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