白い海に沈めた記憶はいつか私の処へと還るのだろうか。其の海の前で立ち尽くす私はそんな事を望んでいない事ぐらい分かっている。私はもう行かなければならない。大理石の床に張り付いた足を静かに離して、私は白い海に背を向けた。
もう、見えない。



何をそう渋るのか私には最初分からなかったが、困ったように眉を下げる彼の表情を見ると私も逸る気持ちが波の様に退いて行くのを感じて、結局其の時まで一度も私の望みが果たされる事は無かった。全てが変わってしまった今ならその理由を朧げながら理解する事が出来る。彼は私より年下だったけれど、私の何十倍も此のセカイの在り方を知っていたのだ。幸福を天秤にかけて比べる事など出来はしないけれど、私は両親が居て兄弟が居て独りの寂しささえも実感せずに生きて来た。大切な何かに自分が置いて行かれる事など想像もした事が無かった。記憶にさえも置いて行かれるなんて想像もした事が、無かった。



しかし其の機会は突然訪れる事になる。あれほど私が願っても首を縦に振らなかった彼が、一つ返事で了承したのだった。あれは、私達が居る教団本部の引っ越しが終わってから数日後の事。其の時の私はあっさりと了承した彼に疑問を感じながらも初めての経験に胸を踊らせていた。エクソシストの団服に身を包み、任務から帰還したばかりの私達は談話室のソファに腰掛けて私達を映すレンズに向かって笑った。ジジ、という掠れた機械の音と共に吐き出されたそれは私達の瞳に映るこのセカイとは違ってモノクロに染まる。出来たそれを手に子供の様にはしゃぐ私とは対照的に、彼の眉はいつも私が彼に写真を撮ろうとせがんだ時の様に下がったままだった。彼は知っていた。自分が変わっていく事を。写真でさえも時を止められない事を。褪せていく、事を。



重厚な扉に付けられたドアノブに手をかけて、私は止まった。早く此の部屋から出なければ此の部屋の主が帰って来てしまう。焦る私の脳とは対照的に私の足は床に張り付いて動かない。鋭く息を吐いて瞼を閉じれば、暗闇の中でもありありと思い出されるあの一瞬を写した写真が瞼の裏でちらついた。並んで笑顔を向ける、いつかの私達。白い肌の彼と、真っ黒な髪の私。モノクロであってもカラーであっても何ら変わりの無い配色の私達。写らなかったものと言えば、彼の額で瞬く紅い五芒星だけだった。これからもずっと変わらないと思っていた、思いたかった。此の写真の中で私達はずっと変わらないと。けれど、もう既に、写真はセピアに褪せ始めていた。写真は時を止める事が出来る手段ではなかった。ただ、古くなっていく。記憶を思い出に変えるどころか、思い出さえも褪せさせてしまう。真っ白に、見えなくなってしまう。いつか、消えてしまう。きっと彼は、それを知っていたんだ。結局ただ生きていることでしか、誰かと共には居られないこと。何も無くただ誰かのこころの中で生きるということの難しさ。離れ離れになっても一緒だなんて、そんなものは、詭弁だ。



ドアノブに手をかけたまま、私は真っ白い資料に埋め尽くされた机を振り返った。あの中に、沈めた記憶。何処に入れたかさえもはっきりと思い出せる。机の脇の右から3つ目の山。此の部屋の主のことだから、きっと一生見つかる事は無いだろう。それで良い。私は、もう此の場所に居る意義も資格も持ち合わせてはいないのだから。『エクソシストの私』は、死んだのだから。



カチャリと音を立てて扉を開き、薄暗い廊下に出て閉まった扉にもたれ掛かる。熱を持った空気とは異なってひんやりとした冷たさが体に伝わって来て、私は瞼を閉じた。数秒、そうしていただろうか。扉にもたれ掛かる私の耳に、少年の声が響いた。

「おかえり。早かったんですね」

そっと瞼を開いて視線を声のする方へ向ければ、団服に身を包んだ彼がいつもの様に笑っていた。ずぐり、と鳴った心臓の音には耳を塞いで、私も口角を引き上げる。

「ただい、ま。……って、アレンも今帰って来たんでしょう?」
「あ、そうでした」
「あはは、おかえりアレン」
「ただいま」

嗚呼、もう貴方の『ただいま』は聞けない。


「あ、コムイさんは今居ないよ?」
「え、そうなんですか?」
「でも多分すぐに帰って来ると思うけど」
「そうですか、じゃ中で待ってます」
「そっか、……じゃ、私先行くね」
「ええ、また後で」
「……うん、ばいばい」

私と入れ替わりに室長室に入って行くアレンに手を振って、パタン、と閉まる扉を見つめた。独りで立つ廊下。私は扉に背を向けて歩き始めた。



私は白い資料の中にあの日の記憶を沈めた。でも私は知っていた。新しい秘書のついたコムイさんが、その秘書のひとにせき立てられてこまめに机を整頓するようになったこと。捨てようとすれば捨てられたのに、資料の山の上の方に隠したこと。本当はアレンに、忘れられたくないと思っていること。わすれないで、あなたのなかのわたしをけさないで、アレン。そう言いたかったこと。忘れるということが、こんなにもかなしいこと。わすれないで、アレン。わたしを、わすれないで。叶わないと知ってる。だから全てが終わるまで、忘れていてもいいから。だからせめて全てが終わった後に、真っ白になった写真を手に困ったように笑って、馬鹿だなあなんて言いながら、私を想って泣いて欲しい。弱くてごめん。一緒に戦えなくてごめんね。私は待つことしか出来なくなってしまったから。いつかこの哀しい戦争が終わった時、私の記憶を掬い上げてくれる貴方の手を、待つことしか出来ないから。

それは、暑い夏の日のこと。
私は、只のニンゲンになった。


沈む

10/07/13

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