※虫が嫌いな方はご注意ください 嘔吐表現あり きっと寂しい子供なんだろうな、と思った。 嫌がらせは日増しに激しくなってゆくけれど、それに比例してアイツの笑顔がどんどん深くなってゆくのに気がついたから。 幸せそう、とか、心から笑ってる、とかそんな表現がてんで似合わない、貼り付けた笑顔。 目を細めて、口角をぎゅっと引き上げたら、誰だって笑顔を表現される表情になるよな。 そう思いながら部室のロッカーに入っていた虫の死骸を眺めた。 ご丁寧に半分に千切られてべっとりと不快な粘液でロッカーのアルミを汚すそれに対して悲鳴のひとつでも上げれば、きっとアイツは満足したんだろうと思うけれど生憎ながらこの程度なら慣れっこだ。 ハンガーにかけてあった予備のユニフォームとか、適当に突っ込んであるタオルには被害がないようにわざわざティッシュで拭きとれるアルミの上を選んで死骸を置くあたり、徹底しないというか、生ぬるいというか。 俺なら狩屋の顔面にコレ、塗りつけるくらいはするけどな。 物が雑然と詰め込まれたスクールバッグを引っ掻き回してポケットティッシュを探す、見つからない。 「たまには整理整頓しろよ」 ユニフォームを被りながら神童が声をかけてくる。 両隣のやつらにロッカーの惨状が見えない様に上手く隠しているし、虫の死骸程度の嫌がらせを表情に出すなんてしないから、周りのやつらは予備のヘアゴムでも探しているくらいにしか思ってないだろう。 それでいいのだけれど。 「なあ、狩屋」 「なんですか先輩?」 他のやつらもすぐ近くにいたのだけれど、あえて俺の真後ろのロッカーで部活の準備をしている狩屋に声をかけた。まわりに人の目があるときはコイツは可愛い後輩にしか見えない、しおらしい態度をむしろ褒めてやりたいくらいだ。 「ティッシュ持ってねぇ?」 「ありますけど、どうしたんですか?」 制服のポケットから新品のポケットティッシュを取りだしながら狩屋がワザとらしく尋ねてくる。 ほんとコイツの変わり身の早さと猫かぶりのスキルは俺が見習いたいくらいだと思う。 「ん、ちょっと」 不審な目を向けてきた神童には「日焼け止めがこぼれてた、まじサイアク」と適当に嘘を吐いて、受け取ったポケットティッシュでこんな悪戯に使われて不必要なタイミングで命を絶たされた虫をぐしゃりと掴んで、ついでにへばり付いた粘液もふき取る。 多分さっきの会話はまわりにも聞こえたはずだから、本当は俺が何をしているか知って居るのは狩屋ただひとりというわけだ。 作業をしながら横目で狩屋を見る。 絶対に嫌がらせが失敗してそれこそ苦虫をつぶしたような顔をしていると思っていたけれど、瞳に映ったのは予想だにしない表情だった。 怯えている、そうとしか表現しようがない。 瞳は軽く揺らいでいるし、唇をぎゅっと噛み締めて、身体に無駄な力が入って今にも後ずさりそうだ。 コイツは虫が苦手なのかもしれない、そう思った。 自分がやられて嫌な事は人にするな。 そんなこと幼稚園で習うけれど、逆を返せば自分がやられて嫌な事を人にすれば一番効果のある嫌がらせになるという事だから。 まぁ、今回は効果がなかったけれど。 それよりも、この程度でここまでビビるほど虫が嫌いならば、俺のロッカーに潰した虫を仕込むなんて良くやったと、いっそ褒めてやりたい。 俺がもたもたと作業をしている間にほとんどのヤツは着替え終わっていて、まだユニフォームに袖を通していないのは俺と狩屋だけだった。 「狩屋、大丈夫?顔色悪いみたいだけど」 手が止まったままの狩屋に天馬がそう声をかけたのを聞いて、ふと面白いことを思いついた。 作業の手を止めて後ろを振り返る。 「ほんとだな、ずいぶん顔色が悪い。……なぁ神童、俺はちょっと狩屋の様子見てから練習参加するから先にはじめててくれないか」 「それならキャプテンの俺がいた方がいいんじゃないか?」 「なに言ってんだよ、キャプテンがいなきゃ練習はじまらないだろ。コイツに熱でも測らせてみようと思って、それなら俺が着替えながらでもできるしな。それにポジションが同じ方がいいだろ」 「それなら頼む、本当に体調が悪いようなら今日は帰してくれ」 「ああ、わかってる」 適当言って神童を丸めこむのはそんなに難しいことではなくて、心配そうな顔の一年生の後ろ頭叩いて「心配すんな」とか適当言いなが背中を押せば「ムリしちゃだめだよ」なんて狩屋に言いながらグラウンドに飛び出してゆく。 それに続くように他のメンバーもぞろぞろと部室から出て行って、すぐに部室には俺と狩屋の二人きりになった。 全員いるとそれなりに狭い部室も二人だけだったら不必要なほど広い。 静かだった、グラウンドから聞こえて来る声もなにかフィルターがかかったようにくぐもって濁っている。 「これ、仕込んだのお前だろ?」 ぐしゃりと悲惨に潰れた虫を狩屋の顔の前に吐きつけながら単刀直入に聞いてみる。 顔から5センチの距離にグロテスクな死骸を突き付けられた狩屋は、無意識に後ずさろうとしたのだろう、ロッカーに踵が当たってガタンと耳触りな音を立てる。 逃げ場を失って冷たい汗をかきながら目を見開いている狩屋を見て、あーコイツほんとに虫がきらいなんだな、と再確認した。 俺だってこんなモン目の前に出されたら眉くらい顰めるけど、この反応はもはや異常だ。 「まったくプレゼントならもっと愉快なものよこせよな」 過剰な反応が面白くてもっと怯えさせてやろうと、虫の足をつまんで狩屋の顔の前で振ってやれば、狩屋はぎゅっと目を瞑った。 ふたつに千切られて内臓らしきものがぶら下がってるそれは普通にグロい。 普通にグロいそれから、振った衝撃で粘液が狩屋の顔に飛んだ、顔の左側、目の下から唇にかけて点々と濡れた痕。 うっわ、やっば、これはさすがにキモチワルッ。 狩屋は袖口で乱暴に顔を拭って、腰が抜けたのかペタンと座り込んでしまった。 冷たい部室の床に座り込んだまま肌が痛むんじゃないだろうかというくらいに屋いシャツの袖で乱暴に顔を擦り続ける。 いい加減に虫の足がもげそうになって来たので指を離せばちょうど狩屋の足の間だった、べしゃりと潰れた虫を反射的に見てしまったらしく、視線を離したいのに杭で打たれたように離せない、そんな状況らしい。 瞬きを忘れたように大きく見開かれた目には涙の薄い膜が張ってるし、青白い唇は慄いているし呼吸だって過呼吸寸前だ、もう後ずさろうとする気力もないのか、狩屋は手の甲で唇を押さえてふーふーと荒い息を吐いただけだった。 あ、こいつ吐くかも。 そう思った次の瞬間に嫌な音。 ツンと胃酸の鼻を突く臭いがした、床を汚す吐瀉物の内訳は胃液とたぶん給食のパンとシチュー。中途半端に消化されてドロドロしたそれが数時間前まで食べ物だったとは到底思い難い、苦しげにゴホゴホと咳き込みながら胃の内容物を吐き続ける狩屋を見ながら神童には「ホント体調悪いらしくて軽く吐いたから帰らせた」とでも伝えよう、そう考えた。 吐瀉物が虫の死骸を覆い隠してゆく。 正直見るに堪えないのはどちらも同じだけれど後片付けが楽な分だけまだ虫の方がましに思えてくる。 まぁ、片づけてやる気なんかないから自分で掃除させるけど。 「なぁ、狩屋」 ひとしきり吐いて多少は落ち着いたのか荒い息をする狩屋に声をかける。 初めから期待していなかったけれど反応はなくて、ただ呼吸のたびに上下する肩にびくりと力が入った。 「構って欲しいんなら嫌がらせやめて、先輩大好きですって可愛い後輩してこいよ、そうしたらたまには頭くらい叩いてやるよ、つうかお前ポジション争い心配で俺に絡んで来てるっていうより、俺潰せば雷門から追い出されなくなるって思ってるだろ、お前ホントに馬鹿、こんなことばっかりしてたらそのうち墓穴掘るぜ」 一歩踏み出す、ピチャりと靴の爪先が吐瀉物を踏んだ、濡れた音がする。 俯いたままの狩屋の前髪掴んで上を向かせれば、目線を斜め下にずらして真っ白になるほど唇を噛み締めていた。 構って欲しい子供にはさっきの説教はだいぶ効いたらしい。 母親に置いて行かれた子供の目に惹かれて、強く前髪を引っ張って狩屋を膝立ちにさせて、自分は腰を折る。 至近距離で目線を合わせれば寂しがりやの子供は驚いたように大きく目を見開いた。 何となく本当にただ何となく、狩屋の濡れた唇に噛みついた、酸の味がする下唇に犬歯を立てれば、酸の味はじわじわと鉄の味に塗り替えられてゆく。 唾液と胃酸と血液の混ざった味が舌を刺激して、なんだか背筋がぞくぞくした。 傷口を広げるように歯と舌でえぐれば、狩屋は痛いのか必死に顔を逸らそうとする、むしろ狩屋に聞きたいんだけどそれくらいの抵抗で俺が許すと思ってるわけ?心の中で呟いて、しばらく口内を蹂躙するのを止めなかった。 どれくらい貪っていただろうか、いい加減に飽きてきて唇を離せば息も絶え絶えといった様子の狩屋の口元からは、うっすら赤く染まった唾液が流れて首筋まで汚していた。 そんなことより自分の口の中に広がる味がキモチワルくて、汚れた床に唾を吐きだした。 やっぱり唾液はうっすらと赤く染まっている。「じゃあな、俺は練習行くけど狩屋は休みって伝えとくからここ奇麗に掃除したら帰っていいから」 酷いことやってるな、なんてちょっとは思ったけれどこのくらいはお相子だろうと部室の自動ドアを潜る。 残された狩屋がどんな顔をしているか、気にならないと言ったらウソになるけれどそれよりも部活が始まって30分もたっている事実のほうが気がかりだ。 急いでアップして早く練習に参加しないと、そう思いながらグラウンドに飛び出す。 人工的な灯りに満たされていた部室とはまるで世界が変わったような太陽の明かりに照らされて、もうすぐ夏が来るんだなぁ、なんて人ごとのように思った。 ▽寂しい子供と酷い大人 企画:嘔吐 |