制御不能

高専五年目、授業がなくなって何をしても良い自由な時間がたくさんできた。この期間にそのまま術師になるか、非術師として社会に戻るか選ぶ学生が多いらしい。非術師の暮らしというものを一切知らない私は高専を出てしまえば路頭に迷いかねないとのことなので選択肢があるようでないようなものだが。
悟が以前言っていた『分家』に『養子』に入るという件だが、よくよく硝子と夜蛾先生と悟と話をした上で丁重にお断りした。以前の世界に戻ってもこちらに帰ってきたという私にため息をついた夜蛾先生の方で就籍という戸籍を取ってくれたらしく、私はついに透明人間から「日本人」になってしまったわけである。詐称もいいところでは?と思わないではないが。
不服そうにする悟ではあったが、案外あっさりと「ま、いっか」と受け入れていた。

高専五年目の夏。硝子は医師免許取得のため日々勉強漬けで、私は私で高専の臨時講師として一年生と二年生の体術訓練をし始めることになった。来年からもそのまま高専に雇われる予定だ。
そこそこに充実した毎日を送っている。
悟はというと、モラトリアム期間にも関わらず任務は大量に入ってくるし、呪術界関係の会合への参加が増えたらしく会うたびに上層部の愚痴を言っている。会うたびとは言ったが、会う機会は一月に二、三度あるかないかくらいだ。寮にもほとんど帰ってきてない。忙しいんだろうなあと特に気にしてはいなかったが、あまりの会わなささに大丈夫だろうかと心配はしている。

そんなこんなで今日は一年生の任務に同行し、埼玉県までやってきた。任務後に、同行した一年たちと別れて街中をぷらぷらしていれば、悟の気配を感じてあれ?と気配を辿った。途切れた気配の先が日用品などを売っている所謂スーパーマーケットなるもので、まさか勘違いか?とあの目立つ気配を見紛うはずがないと遠くから待ち伏せしていればスーパーから食材を大量に買い込んだ悟が楽しそうな表情で出てきてあまりの意味の分からなさに一瞬時が止まった。これが悟の言ってた領域展開ってやつか??と一瞬思ったがそんな馬鹿な考えは彼方へ放り投げる。
こんなところで一体何をしているんだ、と絶対に気配を漏らさないようにかなり遠い場所から観察していれば迷いなく進む長いコンパスの先に現れた古いアパートの一室のチャイムを慣れたように鳴らし、少しの沈黙の後扉が白くか細い腕によって開かれ、その中に躊躇いなく入っていってしまった悟に私の時は完全に止まった。




「え、まさか別の女できた?」



別の女、というのは語弊があるかもしれない。悟は別に私の恋人ではないし、キスをしたのは一度だけ。好きだとか愛してるだとか日常的に囁かれてはいるけどもちろん体の関係もなし。あの五条がねえ、なんて硝子が言うくらいには本当に何もないプラトニックな仲だ。想いを告げた当初は悟は性欲を我慢できるわけないし恋人にはなれないだろうなと思ってはいたが、最近の私はといえば早く彼が当主になって恋人になりたいと思うぐらいには悟のことを好きだったし、当然悟からも同じくらい愛されているのだと思い込んでいた。器用な彼のことだ。私に好きだと言っておきながら他の女と遊ぶことなど息をするように簡単なことだったのかもしれないが存外私はその事実にショックを受けたらしい。悟が吸い込まれていった古いアパートを見つめながら数分動くことができなくなっていた。


カア、と近くにいた鴉の鳴く声でハッと我に返った私は足早にその場から姿を消した。
そのあと、どうやって高専まで戻ってきたのか思い出せない。気づけば高専内に戻っていた任務に同行した一年生に話しかけられて「報告書ってこんな感じで大丈夫ですか」と聞かれぼんやりする意識の中その書類を確認するけど、内容なんて入ってこなくて「大丈夫だと思うよ」と何とか笑って書類を突き返した。
あの悟が他人のために食料を調達してた。私のために作ってくれたことのある料理を他の女にも披露しているんだ。
アパートに入ってすることなんて一つしかないよね。
あんなに慣れた様子で入っていくなんて絶対初犯じゃない。わざわざ通ってるんだ…ホテルとかに呼びつけるでもなく。ふーん、そうなんだ。
あのアパートに住む女はどんな女なんだろう。遠くからであまりはっきり見たわけじゃないけど、腕、私より細かったな。きっと非力で守りたくなるような女なんだろうな、なんてことを考えれば頭を掻きむしりたくなって少し伸びて肩甲骨あたりで揺れる髪をぐしやぐしゃとかき回した。嫉妬心が自分の心の中にこんなに芽生えるなんて思っていなくて驚いた。どうしよう。三年ほど前に言った約束でいえば、私は悟と恋人にはなれない。本当に?もし私が知らないふりすれば、このまま悟が当主になって恋人になれるだろうか。いや、そんなことよりも、私以外の誰かが悟に触れられているという事実がたまらなく嫌だった。悟はあの白い細い腕の女を優しく抱いたのだろうか。美しい瞳を溶けさせながら名前を呼ぶのだろうか。ー許せない。私を愛しているといいながら他の女のところに通うなんて。殺してやる、悟も、あの女も。メラメラと消えない炎が腑の奥底から湧き上がるような感覚に今すぐに暴れ出したい気分になった。「なまえ先生?大丈夫ですか?」目の前にいた一年生の言葉で怒りの炎は少しだけ鎮火できたが、このままだと自分で自分が何をするのかわからないので別れの挨拶もそこそこに、最悪暴れても大丈夫な鍛錬場まで走った。



「ーなまえ?」


怒りのあまり鍛錬場の入り口の壁を思い切り殴りつければ壁はあっけなく崩れ落ちた。それでも怒りは鎮まらなくて瓦礫になった壁を踏みつけて粉砕していく。ー全然おさまらない。イラつく。ムカつく。許さない。殺したい。そう思った時に聞こえたのはずっと聞きたかった男の声だった。


「さとる」
「どうした?何かあっー」


少し怪訝そうに寄せられた眉間の皺、心配するような愛しい声に凪いでいた怒りの炎が一気に燃え上がったのを感じた。瞬間自分でもこんなに早く動けたのかと思えるほどのスピードで悟に襲いかかった。もはや本能だった。理性なんて作動してなくて、なんとかしてこの目の前の男を殺してしまいたいという衝動のまま私の体は突き動かされていた。
悟の鳩尾目掛けて繰り出した拳は目的の場所まで僅か一センチにも満たない距離で動きを止められた。チッと思わず漏れた舌打ち、続け様に意味がないとわかっていながらも勝手に動く体が悟を殺すべく攻撃していく。悟の顔は困惑一色で何が起こっているのかわからないとでも言いたげだった。それが尚更腹が立つ。


「なまえ、まって。なに?どうしたの」
「ーハッ、私に無下限は使わないんじゃなかったの。」
「僕のこと殺す気なの?」
「そうだよ。殺したい、悟なんて死んじゃえばいい」


そういえば困惑していた表情がみるみると怒りに変わっていくのが見て取れて自嘲めいた笑いが漏れる。


「アハハッばっかみたい」
「なにがだよ」
「全部だよ、ぜーんぶ。悟のこと好きなのも、信じてたのも、待ってたのもぜーんぶ!」
「何、言ってんだよお前」


どう表現していいのかわからないような表情を浮かべた悟の眼には今自分しか映ってなくてそのことが嬉しいとどこかで思ってしまっていることに腹が立つ。
心臓が絞られたみたいに痛い。平気で女と遊ぶ悟の浅はかさに腹が立つ。それ以上に、頭が痛くなるくらい哀しい。やだ。こんなにぐちゃぐちゃな気持ちになるなら好きだなんて思わなければよかった。


「あの時そのまま帰ってこなければよかった」



『あの時』がどの時なのかすぐにわかったんだろう、そう言った瞬間、目を見開いた悟の顔がぐにゃりと歪んだと思ったら気づけば石ころがいっぱい落ちた地面に押さえつけられていた。じたばたと暴れれば私の両腕は掴まれてそのまま地面に縫い付けられる。


「お前、言っていいことといけないこともわかんねーの」
「先にやっちゃいけないことやったのあんたの方でしょ」
「は、あ?何言って…」
「私の攻撃は防ぐくせに、自分に都合が悪くなった途端こんなことして、本当最低、もうやだ、」


キッと下から睨みつければ動揺しているのかグラグラと視線が泳いでいる悟。触れられてるのをいいことに、私の上に覆い被さる悟の股間を思い切り蹴り上げた。そのまま勃たなくなればいいのに、という思いも込めて。



「ぐっう!!?」



相当痛いはずなのに涙目なりながらも私の腕を離さない悟。反転術式ですぐに治したのか数秒後には平気そうにし始めた。チッ。



「っ、お前、こんなことして、謝っても許してやんねえ」
「それはこっちのセリフ!何自分がしたこと棚にあげてるの?」
「俺が何したってー、」
「浮気してんでしょ?!今日任務帰りに見たんだから…!アパートに通ってるとこ」
「ア、パート…?」
「甲斐甲斐しく食料調達までして…!違う女にご飯作れる余裕あるなら私のこと構ってよ…!!」
「は…?え?構って、って…え?」
「そんなにえっちしたいなら当主になる前に恋人にしてくれたらいいじゃん…!」
「はっ……?」
「最低、絶対許さない、悟も、抱かれた女も、絶対殺す…!!」
「待て、なまえ!待って!誤解!絶対誤解!!!」



先ほどまで浮かべていた怒りと戸惑いの表情から一転、地面に押し付けられていた体を起こされて腰を掴まれる。地面にあぐらをかいて座る悟の上に対面するように座らされてぎゅう、と強く抱きしめられてイラついたあまり頭をぼかすか殴る。「いて!いって、やめろ!やめて!なまえ!ごめん!僕が悪かったから殴るのやめて!」口調も昔みたいな柄の悪い悟じゃなくていつのまにか今の話し方に戻っていた。こいつ、そんなことで許してもらえると思ってるわけ?



「なに?申し開きがあるの?」
「待って本当に!今日どこで僕を見たって?」
「さいたま市のなんかボロそーなアパート…近くのスーパーで楽しそうに買い物して出てきたのも見たしアパートの中から女の手が出てきたのも見た」
「はーーー見たなら声かけてよお前呪力ないんだから気配わかりづらいんだよ…」
「は?気づかれたら尾行の意味ないじゃん」
「なんで尾行すんのさ…」
「今日みたいなことがあるからでしょ…!?」
「あー!もう!なんで僕そんな信用ないの?そもそも、あのアパートには『女』はいない」
「は…?」
「小学生の女の子はいるけどね」



しょうがくせい…ってなんだ。と思っていれば「7歳くらいの子だよ」と言われて固まった。そして細い腕を思い出す。そういえば、悟の身長に対してえらい低い位置に腕があったような…、うそ、嘘でしょまさかわたし、早まった…?!


瞬間ボッと全身が爆発しそうなほどの恥ずかしさに打ち震えた。悟を見れば満面の笑みでー、いや気持ち悪い顔でニヤけていた。


「あのアパートに住んでるのは伏黒甚爾の息子だよ。禪院家の相伝の術式継いでんの。僕が成人したら後見人になる予定なんだよね。なまえが見たのは多分姉の津美紀だねあの男の後妻の連れ子」
「……まって、情報量が多い」


今更出てきた『伏黒甚爾』を思い出してるうちに情報を処理しきれず話の半分以上理解が追いつかない。とりあえず、私はとんでもない誤解をしたと言うことだけは分かった。
恐る恐る悟を見ると腹の立つ顔でこちらを見つめていて思わず顔を逸らした。


「いやーーーなまえがこーんなに情熱的だったなんて!僕が?他の?女と?ヤってると勘違いして?大暴れして?挙げ句の果てに殺したいって??そんなに嫉妬してくれたの?他の女構う時間あるなら私を構ってだってかーわーいーいーーー!!」
「やめてえええええええ!!恥ずか死ぬ!!!!!ごめんなさい!!早とちりした私が悪かったです!!!!」
「僕のムスコマジで死ぬかと思ったんだけど」 
「すみませんでした」
「あー、ムービー回しとけばよかったなに?可愛すぎない?僕のこと殺しにかかってる?あ、殺そうとしてたかタハー!」
「死ぬ、死ぬ、今ここで死ぬ…!」


ダメに決まってんでしょ顔見せて、と今にも蒸気を上げそうな顔を両手で包まれて強制的に悟に見つめられる。溶けそうなほどに緩められた目線は怒りも揶揄いも浮かべておらずただただ喜色を漲らせている。あまりの恥ずかしさに視線を逸らしたくても「こっち見て」と言うので逸らすことができない。


「なまえ、好きだよ」
「ん…」
「なまえは?」
「…すき」
「ふふ、聞こえないなあなんだって?」
「〜〜〜っ!好き!!!」



意地悪な顔をしてくる悟にやけくそになりながら言えばどんどん悟の端正な顔が近づいて、頬に悟のサングラスが押し付けられてかしゃり、と音がする。同時に柔らかい唇が押しつけられて何度も何度も角度を変えながら悟とキスをした。






「もうこのままヤっちゃう?なまえも期待してるみたいだし僕そろそろしないとセカンド童貞みたいなもんだよ?」
「〜〜〜ばかっ!」


prev next