Act1-29


夏油を止めることが叶わなかった五条は夏油と袂を分った場所で暫し呆然と過ごした。
『君にならばできる』、夏油の言う『理想』は確かに夏油の言う通り五条には出来うることなのかもしれない。非術師を殺して術師だけの世界にー、きっと出来るだろう、己ならば。無理に決まっていると言ったのは今までそんなことを考えたことがなかったから。夏油の理想とする非術師がいなくなったこの世界とは、どんな世界なのか想像もできなかったから。非術師のいない世界など、『世界』ではないのだ。
唯一無二の友と目指すべきものが根本からずれてしまっていたことに、後戻りできないところまで来てようやく気づいた。常に隣で『最強』の片棒を担いでくれていた友と目指す未来は自分の描く理想の未来と寸分違わぬものと信じて疑わなかった。今の今まで。
いつから取り返しのつかないずれが生じていたのだろう。わずかなずれを調整し続けてこればこんなことにはならなかったのだろうか。そういえばいつから、親友と喧嘩をしなくなっていただろうか。最後の喧嘩を、思い出すことができない。
なぜ、なぜ、疑問符が湧いては答えが見つからなくて思考に沈んでいく。
『夏油と話した?』なぜか少し前に聞いたなまえの電話口の声を思い出した。特級になってからあまりにも忙しかった。当主になるためのやらなければならないこと、溢れる呪霊の対応。親友と話すのは好きだし、もちろん話したいことだってたくさんあったが、それよりも『優先すべきこと』があった。本当にそれは彼を失くしてまで優先すべきことだったのだろうか。今となってはわからない。
一九〇を超える男が人の行き交う歩道で立ち尽くすのは邪魔なのか鋭い一瞥を受けては非術師たちが己を避けて通り過ぎていく。


思考の渦に飲み込まれそうになったところで意識を取り戻させたのは夏油の呪力が爆ぜる感覚。慌てて駆けつければ騒ぎの中心でなまえが倒れ、壊れた呪具が散乱している。何があった?倒れているのはなまえだけのようで現場に居合わせた一般人が警察や救急車を呼んでその場は騒然としていた。


「なまえッ!」


人並みを押しのけてなまえの元に駆け寄れば、壊れた呪具やなまえを取り巻く周囲、なまえの体から夏油の残穢がありありと見て取れ、五条は思わず顔を顰める。自分が迷っている間にもなまえは覚悟を決めあいつを止めようとしたのだろうか。脚にビタリと巻き付けられていた呪符を丁寧に剥がして破壊した。

血痕はあるがなまえ自身大きな怪我はしていないところを見るとあれは傑の血か、なんとも言いようがない気持ちが胸の中に広がる。軽く頬を叩いても目を覚ます気配のないなまえに念のため硝子と合流しようと現場について補助監督に報告してからその場を離れた。


既に高専に戻って難しい顔をして待っていた硝子になまえを引き渡し、諸々の報告を夜蛾や高専関係者に行った。自身は勿論同期の硝子、なまえは離反した傑との関係を疑われていたがなまえが傑に襲われ昏睡状態にあることを説明するとどうやら繋がりはないと判断されたらしく、お咎めなしだった。疲れた。とにかく疲れた。ここ数日怒りや焦り、後悔や失望感で一杯だった己の心は兎角疲労が溜まっていて、こんなことは人生で初めてだった。今まで善悪の判断を全て傑に委ねてきた。それが良くなかったのかもしれない。人知れず親友を追い詰めていたのかもしれない。これから自分の隣には全幅の信頼を寄せるあいつはいない。全て自分の判断で物事を決めていかなくてはいけない、思わずため息をつきたくなった。
これからのことを考えるとどうしてもなまえの顔が見たくなって全て終わった後自分の足は気付けば医務室へ向かっていた。




「最近話せてなかったから気分転換がてら外で話せたらと思って呼びつけたんだ。まさか夏油が新宿にいるなんて思ってなかったし、なまえまで夏油に遭遇するとは思わなかった」
「……なまえの容体は?」
「首になかなかの衝撃食らったみたいだから暫くは寝てるだろうね。たぶんどれくらいの力で殴ったらいいのかわからなくて思い切りやったんだろうな。普通の女なら頸の骨ポッキリだ」
「目は覚めるんだな」
「いつかは覚めるだろうよ暫くまともに寝れてなかったみたいだからゆっくりさせてやろう」


少し離れた場所でタバコを吸っている家入は何本目かわからないそれを今にも溢れかえらんばかりの吸い殻が詰まった灰皿へ押しつけ、新しいものを取り出そうとして机の上にあるパッケージを手に取り、舌打ちをした。どうやらストックがなくなったらしい。手持ち無沙汰になった家入はなまえの眠るベッドに近づいて顔色を確認する。白い肌に影を落とす長い睫毛の下にはそこそこに濃い隈が出来上がっている。それを優しく五条が指でなぞれば指先が睫毛に触れたらしくぴくぴくと瞼が震える。その反応でなまえが生きているということを実感できて五条は胸を撫で下ろした。


「ハァー、バカだよねあいつ」
「…そうだな……」
「何話したの?」
「硝子と似たようなことだろ」
「…ふうーん」


硝子と寝ているなまえを見下ろしていると、まだ一年だった頃の冬の日を思い出した。優しげに自身を正しい方向へ導いてくれた存在はもう隣にいない。あの日と何が変わってしまったのか。貪欲に強さを求めているだけでは駄目だったのか。


「…ん、」



ピクリ、と睫毛を震わせるなまえの閉じられた瞼から涙が一筋流れ落ちた。耳を伝ってベッドのシーツに水滴が垂れると同時になまえの瞼の帳が緩慢に上がっていく。


「しょうこ…?」
「……うん、おはよ。痛いとこない?」
「うん…あ、…むかえいけなくて、ごめん」
「ううん、呼びつけて悪かったね。五条もいるよ、ほら」
「ごじょう…」
「……おう」


五条を視界に入れるなり青空のような瞳は境界線がわからなくなるくらいゆらゆらとぼやけ、ぼたぼたと涙を零し始める。自分が死にかけていたときの泣き顔を思い出して、それ以上に泣くなまえに胸が締め付けられるような思いがした。


「わた、わたしのせいで、げと…ごめん…うっ」
「………おまえのせい?」
「わたし、悩んでる夏油に非術師のためじゃなくて自分のために生きてって言っちゃって、そしたら、そしたら、なんでか非術師ころしちゃって、わたしがあんなこと言ったから…ごめん、ごめんなさい、どうしたらいい?止めなきゃ、殺さなきゃって思って、でも殺せなくて、ずっと暗い顔してた夏油が笑ってどっか行こうとするから、安心しちゃって、気を失った…。
何もできなくて、ごめんなさいごめんなさい…!」


五条はなまえの寝転ぶベッドの淵に腰掛け、腕を顔に押し付けてわんわんと泣くなまえを抱き起した。


「お前のせいじゃねーよ」
「でも、夏油が…」
「あいつは、自分で自分の生き方を決めたんだ。お前のせいじゃない」
「ごめん、ごめんねえ、殺せなくて、ごめん」
「いいよ。俺がいつかちゃんと殺すから。お前は殺さなくていい」


涙を腕でごしごしと擦ろうとするなまえの腕を捕まえて顔を見つめれば、目元が真っ赤に腫れ上がっていた。しゃくり上げながら尚もぼろぼろと涙をこぼすなまえを見ていられなくて捕まえていた腕を解放し、後頭部を優しく包んで自分の胸に押しつければ両腕で背中にしがみつかれる。ギリギリと体が締め付けられる痛みが走るが、なまえはまだここにいるということを実感できた。その痛みさえも愛おしく思えて五条は優しくなまえを抱きしめる。

どれだけ抱き合っていたかわからないが、なまえのしゃくり上げる声が静かになって、すんすんと鼻を啜る音だけが医務室に響いていた。五条にしがみつく力もずいぶん弱まり、手は背中に添えているだけの力しか入っていない。ゆっくり体を離してなまえの顔を覗き込めば長い睫毛は朝露を受けた葉のようにきらきらと光っている。目元は真っ赤に腫れ上がってしまっているがいつも溌剌としたなまえとは違うしおらしい姿と相まって自分を見上げる瞳が嫌に扇情的に映ってしまい、五条はなまえの背中に回していた手を顎に添えて顔を近づけたーーー、



「おーい、お前ら。私まだいるんだわ」
「チッ」
「あ、しょ、うこ、え、わたし、」
「硝子さあ、空気よんで見ないふりとかできねーの?」
「いやお前親友いなくなった日によくそんなことできんな」
「だってなまえぐずぐずになってて可愛いーんだもん」
「は?きも」
「そんなに蔑むことなくね?」


いつもと同じように軽口を叩く五条に、冷たくそれをあしらう硝子。つい最近までのなんでもない光景だったのに、もう一人いるはずだった優しい人はどれだけまってもここには戻ってこないのだと思うとまた涙が溢れそうだった。それに気づいたのか五条は硝子に移していた視線を再びこちらに戻し、顎から頬に添えられていた手で優しく目元を擦り哀しそうに笑った。



「もうそんなに泣くな」



きっと自分の方が辛いはずなのに弱音一つ言わない五条。夏油を止められずに無様にやられた私を責めてもいいのに、なんで何も言わないの。じっと五条のサングラスの向こうを覗き込めば今までにない強い決意のようなものがその目に浮かんでいた。あぁ、五条はなんでこんなに強いんだろう。こんなときでも弱さを見せないんだね。



「五条」
「ん?何?」
「悟って呼んでいい?」
「へ?」
「だめ?」
「いい、けど。なに、どうした?」
「私、これ以上の関係を望んでないなんて言ったけど、嘘。ずっと悟のそばにいたい、私のためにはやく当主になって」
「……やっぱりキスしていい?」



ちら、と硝子がいた場所を見ても、いつの間にか硝子はいなくなっていた。相変わらずの逃げ足だなあ。私の視線が返事と受け取ったのか、いいよ、と言う前に五条は私の頬を両手で包み込んでまるで壊物を扱うように優しく触れ合うだけのキスをした。

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