どんな形でもそれは愛


「さとるぅーだっこ」

小さな紅葉の手を精一杯伸ばして抱っこをせがむ少女を壊さないように大切に抱き上げればぎゅうと首元に縋り付いてくる。「ねえ、ママどこいったの?」きょとん、と大きな黒い瞳には対照的な自分の白髪が映り込んでいる。少女の問いに何と答えたものかと逡巡していれば「ねえ、さとる、ままはあ??」答えがないことに気づいたのか目の前の黒曜石がどんどんとうるうる潤みだし、今にも硝子玉がこぼれ落ちてきそうだった。

「今日から僕がなまえサンのママになるよ」
「ぼくう?」
「ウン、僕」
「いままでおれだったよ。へんなの」
「そうだね」
「さとるがママなの?」
「そうだよ」
「へんなの」
「僕がママじゃいや?」
「ううん、いやじゃないよさとるだいすき。でもね、ままもすきなの」
「うん、そうだね」
「まま、どこ、いったの」
「なまえサンのママはね、お空に行っちゃったんですよ」
「おそら?」
「そう。なまえサンがおっきくなって、幸せになったら、またお空で会えますよ」
「ママ、さとるのめのなかにいるの、」
「…ハハっ、僕の目は空みたいに綺麗だもんね」
「さとるはさとるなのにママになるの」
「そう、僕は悟だけど、なまえサンが寂しくないようにママになるよ。僕がずーっとずーっと守ってあげますからね」
「わかった、きょうからさとるがママね」



涙をこぼしながら笑顔を浮かべるなまえサン。なまえサンを産んでから身体を弱らせてた姐さんがついに亡くなって親父は表面では取り繕っているが失意の底に落ちている。孫ぐらいの年齢差がある恩のある親父の唯一の血のつながり。この小さな宝物には金ではかえられない価値がある。病に臥せっていた姐さんが亡くなったということを子供ながらに理解したのかハラハラと涙を流すなまえサンをそっと抱きしめ背中をトントンとあやしてやればすぐに寝息が聞こえ始めた。



「悟、なまえを頼んだぞ」


目元を赤くしながらも気丈に振る舞う親父に任された愛し子をぎゅうと強く抱きしめた。





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あれから何年が経っただろうか。僕がなまえサンの世話係に任命された夜から。ただただ親父と姐さんの愛の結晶に愛を注いでいれば彼女は驚くほど美しい女性に変貌を遂げ始めていた。
絹糸のように一本一本真っ直ぐに輝き放っている漆色の髪が歩みに合わせてゆらゆらと波打っている。


「悟」


ぽってりと紅く色づく唇が僅かな動きで己の名前を紡ぐ。耳にスッと入り込んでくる雲雀のようなその声で呼ばれると最近は心臓がゾワゾワと変な音を立てている。


「ハイ、なまえサン」


えんえんと大きな口を開けながら大粒の涙を流していた黒曜石ような瞳は今も変わらずこの世の全てを反射しているのではというくらい輝いている。だのに、昔と違って陰りが出るほど長い睫毛に覆われたその黒曜石はまだ未成年とは思えないほどの色気を醸し出していた。


「みて。テスト。100点だよ」


ピラ、と眼前に突きつけられた紙の左上には数Iと書かれており、右側に視線を移せばなまえサンの名前が丁寧に美しく記名されていた。その横には赤字で100と書かれており、ズラズラ美しい間隔で並べられた数式の羅列と各問に赤ペンで丸を記されている。彼女はこの春、政府高官の子息子女や大企業の御曹司御令嬢たちが通う高校へ入学した。まだ一桁の年齢だった彼女のことはついこの前のことのように思い出される。


「僕が教えたんだから当然でしょ」
「そうね、悟せんせ」
「あ゛ー、なまえサンそれはヤバイ感じするからヤメテ」
「ママのほうがやばいでしょ?」


クスクスと手の甲を口元にやりながら笑うなまえサンに思わず目を奪われそうになって不自然にならないように視線を逸らした。最近の僕はオカシイ。今まで彼女に対して抱かなかった感情を抱いているという自覚がある。なんなら彼女の世話係を受け入れたのだって初めはこの組織で権力を握るための一つの手段だとさえ心のどこかで思っていた。親父に恩があるのは本当だし彼女は可愛い女の子だなとも思っていた。が、彼女を立派に育て上げれば親父からの信頼が得られると考えていたのも本当。事実それは成功して僕は組織の若頭に就任した。一番側で彼女の成長を見守ってきた僕はいつの間にか彼女を幸せにできるのもここまで彼女を美しく成長させたのも自分だ、とさえ思っていた。それが親心とはかけ離れ過ぎているのは心のどこかで気づいている。



「悟、あのねー」


美しい黒髪とは対照的な白い肌が僅かにぽっと色づくのを見逃さなかった。なんだ、その表情は、もしかして学校で何かー、とまで思ったところでポケットに入っていたスマートフォンがブブブ、と着信を告げなまえサンは躊躇いがちに口を閉じ「出れば?」と視線をよこした。こんな時に誰だよクソ、とスマホを見れば知らない番号。重要な案件なら下っ端が直接伝えにくるだろうし、そもそも登録されてない番号からかかってくる電話に碌なことがない。十中八九性処理用の女だろう。なまえサンとの会話中にかけてくるなんてゴミ以下だなと応じることなく着信を切った。


「良かったの?」
「知らない番号なんで」
「そう」
「それより、さっき何か言いかけてた?」


問いただせば少し俯いてポポポと頬を染めたなまえさんの表情に思わず顔を顰める。なんだこの顔。可愛いかよクソが。てかどこのどいつだよこんな顔させてんの。殺す。絶対に見つけてなまえサンに見つからないように殺す。


「あのね、明日なんだけど、」
「?ハイ」
「外に、行きたくて」


明日は土曜日。学校もない。どうして外に?と思うと同時にもじもじとするなまえサンの様子にピンと閃いた。まさか、デート?


「ダメ」
「…え?」
「親父に怒られますよ」
「なんで」
「なんでも」
「悟は、…行きたくないの」


俯いてしまったなまえサンの声と身体はぷるぷると震えて耳まで真っ赤に染め上げていた。くっそ誰だよこんな可愛いなまえサンとデートしようなんてしたやつマジで殺す。…というかなんで僕?野郎となまえサンがデートするとこについて行かされるとかそれなんて地獄?育て方間違えた?デートにママはついていかないよ?行かせないけどな。



「僕はいっちゃだめでしょ」
「っーそれは、私じゃダー」


目を潤ませながら言葉を紡いだ途中にまた僕のスマホが振動して口を噤んだなまえサン。確認すればさっきと同じ番号だった。イラッとしたがなまえサンが「緊急じゃないの。出なよ」と言うので仕方なしに通話ボタンを押した。


「誰だ」
『あっ、悟さん?私です。先日はお世話になりました。今日もこられますよね?私家で待ってます』


甲高い猫撫で声でかけられる言葉にどこのどいつか知らないがイライラ指数がどんどん溜まっていく。ため息を吐きそうになって思わずなまえサンに目をやれば絶望したような青ざめた顔でこちらを凝視した後僕の視線に気付いたのかハッとした様子で視線を逸らした。


「なまえサン」
「なんでもない、さっきのは忘れて。もう寝る。おやすみ」


能面のような顔をしたなまえサンに思わず手を伸ばせばパシン、と弾かれて僕の時が止まった。そのまま踵を返して自室へ進んでいく彼女をただ見送ることしかできない。


『悟さん?きいてます?』
「オマエ、今度電話かけてきたら殺すから」


それだけ言って勝手に電話を切った。急いで様子のおかしかったなまえサンの部屋に行って声をかけるも返事がない。中学生になってから勝手に部屋に入ることを禁じられていたが、今回ばかりは思いっきり障子を開けてやりたい気持ちになった。が、なんとかその気持ちを押しとどめ、「おやすみなさい」とだけ言って仕事に出かけることにした。





最後に見たなまえサンの顔が頭をチラついて永遠にイラついている。全部勝手に二度も電話してきたクソ女のせいだ。
取引の現場の後に今後同じことがないよう釘を刺す目的でシマの店の何軒かに顔を出せばママたちが「迷惑かけてごめんなさいね。しっかり教育しておきます」と言っていたので「ほんと頼むよー、うちのお姫様がご機嫌斜めになっちゃったじゃん」と言えば困ったようにニコニコと笑っていたママたちはサッと顔色を変えるのが面白い。僕がどれだけ彼女を溺愛しているかは周知の事実で。ま、ここまで言えば相当な馬鹿じゃなけりゃ同じようなことは起きないだろうと最後に寄った最近じゃ売り上げの一番良い店を出ようとすれば聞き覚えのある声が自分の名前を呼んだ。


「悟さぁん、お店の方にきてくださったんですね」
「ちょっと、やめておきなさい」
「なんですかぁ、ママ。悟さんとっちゃったの怒ってるんですかぁ?」


ペチャクチャペチャクチャ。先ほど電話口で聞いた女の声だった。なまえサンの上品な色気に到底及ばない下品な女はママの制止を振り切って勝手にしなだれかかってくる。こんな女抱いたっけ?あぁ、そうだ、胸の大きさがなまえサンに似てるなと思って選んだんだった。はァー失敗失敗。こんなに空気の読めない女だったとはね。


「傑」
「…はいはい。君。ちょっとこっちこようか」


後ろに控えてた補佐の傑に女を引き剥がさせる。チッ、クッセー香水の匂い移ったか?ゲェ。
ママの方を見ればこれでもかと顔を青ざめさせていた。人ってこんなに青くなるんだね。おもしろ。


「もっ、申し訳ー」
「ママの慧眼も落ちたもんだねえあんなの雇うなんてこの店ももう落ち目かなァ」


教育って大事だよとだけ告げて退店しようとすればぷるぷると小鹿のように震えているママが見えていじめすぎたかな?と思ったがどうでもいいやと踵を返した。あそこは土地もいいし違う店入れた方がいいかもな。伊地知にやらせよ。


その後何件か仕事をこなした後スマホを見ればもう間も無く朝日が顔を出すだろうかという時間だった。
そろそろ帰らないとなまえサンの朝ご飯の時間に遅れてしまう。





屋敷に到着して時間を確認すれば規則正しい彼女がもう間も無く目を覚ます時間だった。シャワーは諦めるか、今日は和食は無理だなーと考えながら朝食作りに着手する。トントントン、この10年で身につけた家事育児スキルで手慣れた朝食メニューを作っていると遠くで物音が聞こえる。なまえサン、起きたかなとトースターにパンを入れてコーヒーメーカーのスイッチを押した。


「さとる、おはよ」


朝特有の舌ったらずのその声は幼少期のそれを思い出してやっぱりまだ子供だなあなんて思いながら「おはようございます」と振り返って挨拶をすればなまえサンは気怠げだった瞼をこれでもかと見開いてビシリと固まった。ん?なんかデジャブ。


「なまえサン?今日はパンでいい?」
「さ、さとる…それ…」
「?」


わなわなと震えながら僕を指さすなまえサンの顔はどんどん青ざめていく。なんだなんだ、昨日から。一点に集中している視線の先を見ればシャツに女のファンデーションやらリップが移ったのか若干汚れていた。まァたあの女か。傑はきちんと処理してくれただろうか。ーあれ?そういえばなまえサンってそんな潔癖だったっけ…とフライ返し片手に様子を見ていれば青かった顔がどんどん真っ赤に染め上がっていくのを見て朝から元気だなあなんて悠長なことを考えていた。



「今日は朝ご飯いらない!おまえの顔今日はみたくない!」
「へ…?」


滅多に大きい声なんてださないなまえサンの口から大声で張り上げられるそれに一瞬圧倒されて理解が遅れる。怒っていても行儀良く居間から飛び出していく彼女を見送って言葉の意味を理解して僕は思わずぼとりとフライ返しを落とした。



「今、僕の顔、見たくないって言った?」


反抗期らしい反抗期もなく悟、悟と言ってくれてたなまえサンからの初めての拒絶の言葉に頭が真っ白になる。予想外の攻撃に立ち竦んでしまった僕だったがなんとか正気を取り戻し慌てて追いかけて自室の襖を一瞬躊躇うも後で怒られればいいと考えてスパーンと開けるももぬけの殻。どこいった?!バタバタと屋敷中を駆け回って手当たり次第に襖を開けていくも彼女がどこにもいない。


舎弟たちに彼女の捜索を命じたけれどもおかしい。誰からも見つけたという連絡が入らない。焦る気持ちをなんとか落ち着かせていれば前方からゆったりと傑がやってきた。


「悟?どうしたエプロンつけてそんなに慌てて」
「なまえサン見なかったか」
「え?あぁさっき伊地知捕まえて車出してもらってたよ。すごい剣幕だったさすが親父の娘だね」
「こんな朝っぱらからどこ行くつもりだよッ!おかしーだろ!止めろよクソが!仕事できねーな!」
「あ?いくら悟でも聞き捨てならないね」
「今は傑とやり合ってる暇ないワケ!なまえサンのGPSは…」
「……それはもちろんなまえさんも親父も了承してるんだよね?」
「親父は知ってるけどなまえサンはしらねー…ってクソ、スマホ置いてってやがるッ!」
「身一つで出ていってたよ。喧嘩でもしたの」
「僕がなまえサン傷つけると思う?急に不機嫌になって飛び出してったんだよ…」
「………あー、なんとなく察したよ」
「は?」
「悟、本当になまえさんの気持ちに気づいてないの面白いな。…シャツ、嫌だったんじゃない?朝からそんなの着てたら女とイイことして帰ってきたんだと思うよ。そんな服で朝食作られちゃ女の子は嫌がるだろ?馬鹿だな」
「…は?それじゃまるでなまえサンが俺のことー」
「なんでいつもは察しが良すぎるくらいなのになまえさんのことになると馬鹿になるのかな。面白いなほんと」
「傑、マジビンタしていい?」
「私が悟をマジビンタしてやりたいよ。なまえさんの代わりにね。早く迎えにいってあげな」



ヒラヒラ、と手を振って傑は木目の床をスタスタと歩いていく。
クッソ、どこ行ったんだよ…!とまで考えてピン、と閃いた。伊地知を連れていったと言うことは彼女が毎朝学校へ行く車に乗っていったはず。それにもGPSを搭載していた。ービンゴ。高速で移動するそれをスマホの端末で確認して車庫へ足を向ける。運転する舎弟を探すのも今は面倒で自ずから運転席へ乗り込み車を走らせた。法定速度?ヤクザがそんなもん守ると思ってんのか。



スマホを確認しながら彼女の現在地を把握して車を走らせる。土曜日の朝だからか車はまばらで車線変更をしながらいくつも雑魚みたいな邪魔な車を抜かしていく。ーー見つけた。伊地知はバックミラーで僕の運転する車に気づいたのかスピードを落としてウィンカーを出し、路肩に車を寄せた。彼女を僕に無断で連れ出したことに殺してやろうかと一瞬考えていたがその行動で些か溜飲が下がったのでマジビンタで許してやることにする。
伊地知の運転する車の後ろに寄せて車を降りてなまえサンが座っているはずの後部座席を見やれば伊地知に怒っているのであろうなまえサンが見えた。伊地知は僕に気づいているのか顔を青ざめながら彼女にペコペコと首を垂れている。



「なまえサン、オイタが過ぎますよ」


ロックを解除されていた後部座席に滑り込めば驚愕に目を見開いたなまえサンが逆側の扉から飛び出そうとしたので逃げられないように腰を引き寄せた。
こちらを睨みつける僕の大好きな黒曜石はうるうると潤んでいてゾクゾクと身体が粟立って舐めてやりたくなった。誰にもこんななまえサンを見せたくなくて伊地知に持ってたキーを渡し僕が乗ってきた車で帰るよう指示すれば転がり落ちるように運転席から脱出した伊地知に思わず笑った。


「悟、はなせ」
「やですよ、ごめんね、なまえサン」
「は?」
「僕、無神経だったね。昨日の電話の女はどーでもいい女で家に行くような関係じゃないよ。昨日だって仕事しかしてない。コレはシマの見回りしててお店の女の子がぶつかってついちゃっただけ」
「でも、でも…そういうこと、してるんでしょ」
「んー、そりゃ男だからね」
「……ぐすっ」
「泣かないでよ、なまえサンがそんなに僕のこと好きなの知らなかったなァ」
「!気づいてたの…」
「いや、まさかまさか。こーんな抱いちゃダメな感情なんとか隠してたのにまさかなまえサンも僕のこと好きだったなんてなァ親父に殺されないかな?」
「…も?」
「そうだよ。もうずーっと、なまえサンのこと可愛い女の子じゃなくて女として見てるよ、その綺麗な顔ぐちゃぐちゃにしてやりたいってね」
「…っ」
「『ママ』にそんな妄想されてたってどんな気持ち?」
「悪趣味…っ」
「ははっ褒め言葉だね」
「別の女とヤったら殺す」
「わー情熱的だなあ勃ちそう
「悟…すき」
「ん、僕も愛してますよ」


とろけるような顔をして僕の首に腕を回すなまえサンのせいで思わず本当に勃ち上がりそうになったがなんとか押し留めてふにふにと形の良い紅い唇を指で優しく押して遊んでみた。不満そうな顔をして僕の指先を食んだなまえサンに思わず指を引っ込める。したり顔をする彼女にドキリとして今度こそその唇に噛み付くように唇を合わせた。あ、エプロンつけたままだった。格好つかないね。