手懐け上手なひと

なんだかおかしいな、と思ったのは起きてすぐのことだった。体が熱っぽい気がしたのだ。体温を測るべく脇に小さな機械を挟みながら歯を磨き、ピピっと高い機械音がしたから口の中に溢れた清涼感あふれるミントの泡を洗面所に跳ねないように気をつけながら吐き捨てる。細長い機器に表示された37.8という文字を見て、休むほどではないような気がしてため息をついた。風邪かなあ、でもいつもの喉の痛みもないし……。今日は午後から体術の訓練だっけ?…夏油とだったら体調悪いの気づかれて手加減されそうだな…、それはそれで腹が立つんだけど…。風邪薬でも飲んでおこう。
ナイトブラを外して、クローゼットから下着とシャツを取り出す。線の細い肩紐に腕を通してバックベルトをバストに回してから、内臓がひどい圧迫感に襲われる感じがして、さらに違和感を覚えた。


「……太った?いや、…え?あれ?私のおっぱいってこんなにあったっけ?」


『ある』と信じれば、まああるような気がする程度の谷間をなんとか作ることができる最強美盛りと称されていたはずのブラジャーにぱふんと乗った美しいバストは自分のものとは思えない出来で、姿見に映った自分の姿と上から見下ろす谷間に視線を何度も往復させる。…もしかして寝る前のルーティンにしていたバストアップのための筋トレがついに功を奏したのだろうか。─最高なんだが?何?頑張ってよかった。これで貧乳ネタでいじってくるクズを見返せる。やっぱり神様は努力した人をちゃんと見てるんだね。
なんだか朝からるんるん気分で、微熱があることなんてすっかり忘れ、昨日の任務の報告書を提出しに行こうとスキップでもしそうなほど浮かれた足で自室から飛び出した。


「………??」


やっぱり何かおかしい。なんだかやたらと視線を感じる。呪術師なんてものに従事しているだけあって人ならざるものの視線にさえ敏感なのだ。こちらを見つめる人の視線に気づかないはずもなかった。しかも自分に向けられる視線がただ単にすれ違い様に挨拶をするためとか、なんとなく気になって目に入った、とかの類のものではないことはすぐにわかった。なぜなら、自分を見る人々が恍惚に顔を蕩けさせていたから。


「……??寝てる間に逆ハーものの乙女ゲームのヒロインにでも転生した?」


なーんて。そんな話あるわけない。だいたいオープニングと同時に全員好感度マックスなんてどんなクソゲーよ。そもそもオープニングは入学式でしょうが。何ヶ月経ってるんだ。失笑混じりに自分がたった今口から溢れ落とした喩え話を一笑に付した。
では一体何が起きているのか。寝てる間に魅了EXのスキルでも付与された?それなら凄まじい同級生たちにも引けを取らないような、もっと強めの術式でも付与していただきたいものだ。
やはり風邪でも引いて判断力が鈍っているのかもしれない。起きた時よりも高くなっている気がする熱に、解熱鎮痛剤を飲んだ方がよかったかな、なんて思っているうちになぜか今まで普通に歩けていたはずの足が急に力が抜けて絡まり、その場にすっ転んだ。指先からも力が抜けて手に持っていた報告書が宙を舞うのが、やけにゆっくり目に入る。


「…っ、?なに、」


あつい、暑い。いや、熱い。爆速的に上がる心拍数とその負荷に助長されるように上がる体温。突然力の入らなくなった四肢。それよりも、そんなことよりも、負の感情が湧き出す呪力の根源たる腹の奥底、それよりも深い場所で燻り始めるどうしようもない劣情に似た疼きに戸惑いを隠せない。─何かに呪われた?いや、体に巡る自分以外の呪力の気配なんて感じない。なに、これ?まるで、幼い頃から性教育で学んだΩの発情期みたいな。………Ωの発情期?

一つの可能性が急浮上すると同時に先程まで己を見てぽうと顔を蕩けさせていた男女の表情を思い出して、そして自分に近づいてくる不特定多数の人の気配に熱さのせいで今にも途切れてしまいそうな僅かに残った理性が反応して戦慄する。

─まって、まってよ。Ω?私が?何年か前に受けたバース性の検査結果を思い出して違う違うと頭を振る。
呪術全盛の頃は呪術師として大きな名を馳せていたそこそこ名のある術師を起源として、分家の分家の分家のそのまた分家、血が薄まってしまった術師家系に名を連ねるのもおこがましい、ほぼほぼ一般家系と変わらない平凡な家の、平凡なβの両親から生まれたβの私。たしかに先祖にはΩを娶って交わった人もいるだろうけれど、私の知る限り血の濃い直近の親族にはΩなんていないはずで。
私がΩだなんてそんなことあるわけないと、浮かぶ一つの可能性を何度も何度も払拭しているのに、体内で起きているわけのわからない異常事態がその可能性を否定できずに絶望感が頭に押し寄せる。こちらに近づく人の気配から逃げ出すため、なんとか呪力を出力しようとしてもさっきまでは当たり前に稼働していた呪力の巡りが何かに堰き止められたみたいにうまくいかなくて、起き上がることも億劫でたまらなかった。

ハァ、ハァ、と荒い息遣いは自分のものか、それとも己に迫っている人の気配によるものか。思わず体を縮こませる。子供の頃からこの世界に生きる人間に義務付けられたバース性の教育で幾度となく読まされた『ふこうなじこをふせぐために』と書かれた小冊子の存在を思い出して、確かその冊子のどこかに“思春期で受けるバース検査は正確な検査が出ないこともあります。成人するまでに定期的なバース検査の受診を推奨します”なんてこと、書いてなかっただろうか─なんて、今更極まりないことが脳裏を掠める。両親がβなこと、今までΩに出会ったことがなかったが故に自分がそんな希少な存在である訳がない、なんて思い込んでいたこともあって、数年前に受けた検査その一度きりしか受けていなかった自分を呪いたい。
─“こんなところで”発情したΩがどうなるかなんて、ぼんやりし始めた頭で考えても明白以外の何者でもなかった。とりあえずその辺にいる有象無象の慰み者になって、高専内で問題を起こしたΩは処分するとかなんだかケチつけられて、最終的にはどっかの爺さん共の孕み袋コース?─…冗談じゃない!
そんな状況への拒絶心だけを気力に何とか体を起き上がらせる。目眩を起こしている頭は床と天井が交わるようにぐらぐらと視界を揺らすせいで立ち上がることもままならなくて壁に手をついてへなへなとへたり込んでしまう。こんなどうしようもない状況に、まさに絶体絶命に追い込まれてしまったことを嫌でも悟るしかない。

─瞬間。ふわり、脳髄を溶かすような瀞みのある強烈な芳香が鼻に抜ける。これは何、と疑問を感じるまでもなく、今までどこに隠れていたのか不思議で仕方がない本能がこのどこかぽっかりと抜け落ちているような“何か”を埋めようとその存在を求めるように自分の体からぶわりとしたものが溢れ出ていく。

─αだ。すぐ、そこに、αがいる。

ビービー、と同級生たちが喧嘩をするたびにかき鳴らすけたたましいアラートが耳を劈いた。「またやってるよ」なんて思う余裕もなく、今日ばかりは自分自身の危機を知らせる幻聴かと思った。

そうだ、彼らに助けを…──硝子、夏油、五条、助けを求めるように信頼している自分の身近な人物が脳裏を掠めては全員が全員、“今の私”が接触すれば迷惑をかけてしまうかもしれなくて、制服のポケットに入ったままの携帯電話に伸びた指先がそれを掴むことはなく、土埃のたまった古い木材の床に着地した。

だめだ。ぜったいだめ。あの三人だけは、だめ。呼んでどうするの。もしこれが本当に『Ωのフェロモン』なら、フェロモンレイプと一緒じゃん。私が、あの中の誰かを誘惑するなんて、考えたくもない!

曖昧になっていく思考でなんでこんなことになったんだろうとぐるぐる考えるけれど、結局答えは出ない。上がる心拍数に比例して襲われるひどい飢餓感にも似た腹の底から燻る官能的な気分に吐き気がした。


「やだ、…………っ、…ッだれか、たすけて…っぁッ?!」


がし、誰かの手に強い力でつかまれた手首が、骨を折られそうなほどのあまりの痛みに襲われた。
同時にほんのり嗅いだことのある気がする、とはいえ普段の何十倍にも膨れ上がった酩酊しそうな重い香りに腰がゾクゾクと笑うのが本当に自分の体なのか信じられなくてもう気を失ってしまいたくなった。私の腕を掴む大きな手の節くれだった指の感触も、覚えのある気がするその香りも、“なんで”と呟く苦しそうなその聞き覚えがあるどころじゃない声も信じたくなくて、だけどどこか安堵している自分が情けなくて、熱く燃え盛るような瞼からはらはらと垂れる涙を見られたくなくて髪に隠すように顔を背けた。


「なまえ」
「…………ッ」


耳に触ったのは聞いたこともない、信じられないくらい甘い声だった。まるで恋人の機嫌を取るみたいな。
やめて、名前を呼ばないで。声を出さないで。私に気づかせないで。離して。どっか行って、私のことなんてほっといて。─そう、心の底から思うのに、心のどこかで私の腕を掴む痛いくらいのその掌の強さや熱さ、私の名前を呼ぶのぼせた声に安心している自分がいることが、愚かで情けなくて消えてなくなりたかった。
なんで、と何度も譫言のように漏らす彼の口から飛び出る余裕のなさそうな声に私の現実も突きつけられてやはり絶望する。
近づく人の気配を威嚇するためか、ぶわりと彼から漏れる致死量にも似たフェロモンの香りに溺れそうになって理性が今にも途切れそうだった。


「………私のこと、ほっといて……ッ!」
「……ッ…なまえ…!今の状況を、わかってるのか…?!」
「……ひ、ぁ…ッごめ、ごめんなさい…ッでも、ぁ…ッふ、めいわく、かけたくな…ッ」
「………クソ…ッ、抑制剤は…ッ」
「…っない、だって、わたしッ、…βだって…!」


ハッと息を呑む音がやけにはっきり聞こえた。そして、「そのΩをこちらに寄越せ!」と怒鳴り散らす知らない声にびくりと体が硬直する。どうしよう、どうしよう、わたしのせいで大変なことが起きてる。


「…大丈夫だから、なまえ」
「…な、に……」


ふわりと大きな手になでられる感覚。これ以上ないってくらい優しく甘い声が私を安心させようと耳元で囁く。
やめてってば、呼ばないで。
もっと呼んで、もっと撫でて、抱きしめて、キスして、訳もわからないくらいに。

今まで“その人”に対して抱えたことのない感情と、真逆の拒絶心でいっぱいになる蓄熱した頭が処理落ちし始めたみたいにぶつんぶつんと思考が途切れ途切れになり始めた。昨日までただの良き同級生だったはずなのに、なんで私をそんなに甘い声で呼ぶの。なんで私をそんな風に扱うの。もう昨日までの切磋琢磨し合う関係には戻れないの。明日からどうなるの。私のうなじをかむの。彼にうなじを噛まれたら、私はどうなるの。何になるの?彼のことをこれからは友人だと思えなくなるの?─そんなの嫌だ。


「やだ、いやだっ、おめがになんて、…ッあるふぁの、つがいに、なんて……ッなりたくない……!」


ぴりぴりと痺れる指先で必死に首元を覆う。このまま首を絞めて死んじゃえればいいのに。そう思うΩが多かったのかな、だからこんなふうに発情しちゃうと体に力が入らなくて呪力が練れなくなっちゃうのかな。…ああ、私、発情してるんだ、今。…ほんとに、………Ωなんだ。


「なまえ、だめだ」


体が溶け落ちそうなほどやわらかくて、熱くて、だけど芯のある声が脳を揺らす。頸元を覆い隠す私の指を、熱い手が這う。
触らないでよ。もっと触って。相反する感情が重すぎて、拒絶反応を起こしたみたいに吐き気がする。私の指を包む指先にぐっと力がこもるのがわかって、理性では離してほしいのに抵抗できなくて、身体は彼の行動をすっかり受け入れてしまっているのか緩すぎる抵抗がすぐに暴かれる。


「………なまえ、ごめん」
「…ふ、…く、…ぐす…っ、げと………、ゃ…だ…ッ!」
「……ッごめん、本当、…は…ッ…ごめんね。こうするのが、一番だから」


固くて土臭い床に押し倒した私の上に覆いかぶさり、床に押し付けられた両手首と身体のせいで拒むこともできない焦燥感からか、はたまた恐怖心からか、肺がうまく酸素を取り込むことができなくて浅い呼吸が絡まって過呼吸でも起こしそうだった。これから何が起こるのか想像できないわけがなくて濁流のように瞼からこぼれる涙を拭うこともできずにただただ土埃の積もる床にぼだぼだと落ちてはシミを作っていく。
がぶりと鋭い何かに肉を断たれる感覚が脳髄に走って、全身を何かが貫いた。痛いとか、そういう次元を超越した今までに感じたことのない感覚に体がぶるぶると震える。先ほどから隠しようのないゾクゾクした何かが次いで走り、人生で経験したことのない快感をなんとなく“ああ、これが気持ちいいってことなんだ”と本能が自覚した。ぶすぶすと何度も歯が食い込み、火傷でも起こしそうなほど熱くて柔らかい、ざらざらしたものがうなじを這って時に吸引されるようなそれが、嫌なはずなのに死ぬほど気持ちいいと思ってしまっている自分が気持ち悪くて、本気で死にたくなった。


「ーーーッァ゛、げ、とう…ッ!ゃ、ぁっ…はあっ…ぁ…ッん゛!」
「─ごめん、…ッなまえ、私に守られて」


ずっと押さえつけられたままの手首が痛みで悲鳴を上げていた。だけど、その痛みさえ快楽に変換され始めてきたあたりで、この数分で起こった出来事のあまりの負荷に耐えきれなくなったのだろうか、なんとか保っていたはずの意識がいよいよ遠ざかり始める。ここで気を失ってはいけないという理性も、脳みそがぐちゃぐちゃになりそうな強すぎるフェロモンを上から叩きつけられたせいで本能に全て塗り替えられるように脳内が霞みがかったみたいにふわふわの心地よい雲に包まれているような感覚に置き換わっていく。─ああ、もう、いいや、だって多分これから起こることは気持ちいいことだもん、夏油の子供孕んだら少なくとも今にも死にそうなジジイ共の遺伝子よりはかわいい子が産まれそう。五条みたいにやんごとない御三家の権力闘争に巻き込まれる相手でもないし、硝子との間にせっかく築いた親友の関係が崩れることもない。


「夏油、ごめん、ね」


床に這いつくばったまま必死に振り返れば、思っていたより夏油の顔がそばにあってびっくりした。輪郭がぼやけたピントの合っていない視界だったけれど、私の謝罪に対して目玉がこぼれ落ちそうなほど驚愕に目を見開いているのがわかった。すぐにくしゃっと泣きそうな顔をしたから、ああ、やっぱり夏油って優しい人なんだなあと再認識させられて罪悪感に肺が押しつぶされそうになる。
…こんなことになって真っ先にエンカウントしたのが夏油なんて、私にとっては不幸中の幸いだったのかも。夏油には不幸以外の何者でもないけど─なんて思いながら、私は思考も、この場の大惨事も、これからのことも、全てを放り投げて意識を手放した。

瞼を閉じる前、夏油が何度も何度も同じ言葉を私に対してつぶやいていたけれど、言葉を認識して理解するのも億劫で、私はもう一度ごめんね、と呟いた。





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