スウェット姿で勝ち取れる仕事って何

「三日くらい家空ける」


変化が訪れる日、というのは前触れもなくやってくるということを、私は痛いほど理解していたはずだった。今でも覚えている、ねっとりとした熱風が体を撫でる感覚に不快感を覚えざるを得ないじんわりと汗の滲む熱帯夜、私の家の前で座り込んでいた今まで見たこともないくらい大きな体の男性と腕に抱かれた赤ちゃんと邂逅した日に。

雨なんて降りそうもない夏空に突然やってくる暗雲がもたらすゲリラ豪雨だとか、時刻表通り分秒違わず来るはずの整備された電車が突然の事故だかで運転取りやめになったりだとか。突発的な変化というものは案外身近にあって、平穏な日常はあっさりと非日常に塗り替えられる。

音も立てず帰ってきた同居人の気配のなさにいい加減慣れ始めた頃、リビングのドアが開いたことに気づいて「おかえりなさい」と声をかければ、私が声をかけた同居人は外で受けた冷気を身に纏いながら私と私の腕の中で絵本に釘付けになっていた恵くんを一瞥して特に顔色を変えることなくそう言い放った。

不意に飛び出した彼の言葉に一瞬心臓がぐにゃりと握りつぶされたような気がして、すぐに浅い呼吸になってしまいそうになる。慌てて平静を装って、深呼吸していることにも気づかれないようにゆっくり酸素を取り込んで二酸化炭素を吐き出した。


「……どういうことですか?出ていくってこと?」
「仕事だ」


私の家に転がり込んで住み着き始めた全くの赤の他人が、住所不定推定無職の寄生虫よろしく私の生活を非日常に塗り替えたのは数ヶ月も前の話で、今の私にとっては最早その非日常が日常と認識されているというのもおかしな話なのだけれど、とにかく、そんな寄生虫のような、図体はゴリラな男が全く『労働』の意欲を見せなかったくせに、突然『そんな言葉』を発したものだから、私は彼の口からまろび出た四文字の言葉の羅列の理解に未だかつてないほど苦しんだ。
たとえばパッと『饂飩』という漢字を見せられて何と読むでしょうか、と尋ねられ一瞬解答に困るような、例えるならそんな感じ。


「…………なんて?」


思わず普段の敬語も取れてしまったぞんざいな私の返答がさぞ気に食わなかったのだろうか。もとより悪い目つきが、眉間に寄った皺のせいでさらに細められたせいで不機嫌マシマシのひどい顔に歪む。
手にぶら下がっていた今にも引きちぎれそうなほど伸びた乳白色のビニールがどさっとわざとらしい音を立てながらオープンキッチンの調理台の上に乗せられた。お米十キロが入っていた袋と、生鮮食品や冷凍食品の入った袋がぐにゃりと歪んでいる。─そう、彼はいつもどおり私がこれ買ってきてください、と言った諸々を買い足しに出て行って帰ってきたはずであって、就職活動をしに行ったはずではない。というかスーパーの袋持った少なからず出会った頃から定職についていないパチンカスな男が一時間程度で仕事を見つけて帰ってこられるほどこの世の中は甘くない、甘くないはずなのだ。


「……昔の知り合いに会って仕事斡旋された。出稼ぎみたいなもんだ。………こいつのこと頼んだぞ」


“こいつ”と言いながら視線を落とした先の恵くんは私がすっかり絵本を読み上げることもページを捲ることも忘れてしまったせいかお怒りで、「ん!ん!!」と声を荒げながら口をへの字に曲げた彼を見上げている。普段であればよしよし、ごめんねえなんて言いながら絵本の読み聞かせを再開させるけれども、今日ばかりは彼の口から飛び出た言葉が想定外すぎて脳がうまく回らない。
 

「……出稼ぎって使い方合ってます?」
「…………細けーこと気にすんな」
「何の仕事するんです?マグロ漁?」
「………お前逆にマグロ漁が三日で帰ってこれると思ってんのか?」
「………だって……伸びたスウェット着て見つけてこれる仕事って何かなって……」
「マグロ漁やってるやつに謝れ」
「伏黒さんに正論説かれたかないです。…ていうか恵くん私に三日預けるって正気ですか?私大学もあるんですけど」
「いやこいつ俺よりお前に懐いてんじゃねーか。つかこの前創立記念か何だかで休みとか言ってただろ」
「チッ……そんなことは覚えてるんですね……ていうか自分の行いを胸に手を当てて考えたらどうですか?」
「イイ度胸だなお前」
「ヒッ怖い顔しないで!」


少し前なら私の言う通りそのご立派な胸筋に手を当てていたはずなのに、不機嫌そうに顔を歪めている伏黒さんが今にもバケモノにとどめを刺した時のような顔をするものだから慌てて恵くんを守るようにわざとらしくぎゅうと強く抱きしめた。ハァ、とため息ひとつ漏らしてそのまま特に着替えをすることもなくだるだるのスウェット姿で玄関に向かい始める。


「今から行くんですか?!」
「ああ」
「…ちょっと待って!さすがにそれじゃ、冷えますよ」


シューズクロークを開け放って、掛けられたモッズコートを広い背にかけた。渋々と言った感じで袖を通した彼はやはりこちらを見ない。


「……危ないことじゃないですよね?」


先日“呪霊”とやらに襲われて、颯爽とそれを薙ぎ払ってしまった彼のことを思い出してしまった。私の言葉にいちいち感化されることなくいつもパチンコに行く時に履いていくスリッポンに片足を突っ込んだ彼はとてもじゃないが“危ないこと”をしそうな雰囲気なんて微塵もないのに、胃のあたりをぞわぞわと這う嫌な感覚が拭いきれなくてそう問いかけたけれど、伏黒さんはこちらを振り返ることなく玄関扉に手をかけた。


「……気を、つけてくださいね。恵くんと、待ってますから」
「………じゃーな」


ヒラヒラ、と手を振るだけ振ってあれだけ出ていけと言っても我が家に居座った彼はあっさりとその巨躯をかがめながら手ぶらで出かけて行った。

…いや、ちょっと待って。三日離れるって言ってたのに着替えは?ていうかスウェットで仕事するつもり?何の仕事?え?まじで詳細明かさずに出て行っちゃったんだけどあの人。嘘でしょ?ていうか知り合いに会って仕事紹介してもらえるなら住むところも斡旋してもらえるのでは??
肝心なことは何一つ漏らさず行ってしまった背を思い返しながら深いため息をついて恵くんを抱えながらリビングに戻る。

一度恵くんを柔らかいジョイントマットの敷かれたベビーサークルの中へ下ろしてから、形が崩れたスーパーの袋の中から結露が浮かんだ冷凍食品を拾ってファミリーサイズに買い替え一回り大きくなった冷凍庫に詰めていく。たくさんの生鮮食品が覗く乳白色の中身はとてもじゃないけれど一人で食べ切れる量ではなくて。


「…伏黒さんいないんじゃ、こんなに買い込んでもらう必要なかったじゃん」


やっぱりもう一度、さっきよりも大きなため息をついてすぐには食べなさそうなものは下処理を施してジッパーバックに詰めて冷凍庫にぶち込んでおく。一人暮らしの時には考えられなかったパンパンの冷凍庫を勢いよく押し閉じれば、可視化された冷気がふわっと冷凍庫から押し出された。


………まあ、働く気があるなら、いいかあ。
自分で恵くん養う気あるってことだよね?


山ほどある言いたいことをポジティブな思考に押し隠してしまいながら、伏黒さんたちが出ていくのも、ましかしたら時間の問題なのかなあ、と喜んで良いのか、残念がっているのかよくわからない自分自身が一番理解できなくて何度目かわからないため息が漏れた。







くうくうと健やかに寝息を立てながらぐったりと私に全身を預けて寝入ってる彼が完全に寝入ってしまったことを確認して、起こさないように気をつけながらベビーベッドに下ろす。この家にやってきた頃はベッドに下ろすなりぱっちりと目を覚まして泣かれたり夜通し抱っこを覚悟するレベルで泣かれて虚無顔を披露した同居人に苦笑しながら代わる代わる慣れない抱っこであやしたりしたことも最早懐かしい。

本来私の部屋であった部屋は、大元の家具は変わっていないのに寝具にかけられたパステルカラーのカバーはシックなものに変わり、所々に垣間見える私の趣味ではない私物にすっかり別人の部屋に忍び込んだかのような居た堪れなさに苛まれる。

上下する胸元をやさしく何度かトントンと一定のリズムを刻んで撫で、起きそうもないことを確認してからベッドの隣に引っ張ってきた自分の寝具に潜り込む。
…なんで隣に自分のベッドがあるのに、とは思うけれども、いくら数ヶ月前までは自分のものだったとは言え、すっかり衣替えを経て自分の好みではない黒を基調とした寝具はなんだか自分のものだとは到底思えないし、とてもじゃないが安眠できる気がしなかった。

カチカチカチ、時計の秒針が進む音と、電池仕掛の時計を動かす電力の働くジーーという低音が耳につく。

「この部屋、こんなに静かだったかな」

掛け布団を口元まで引き上げながら漏らした小声がグースダウンだかなんだかの羽毛に吸収されて収束し、思ったより部屋には響かず規則的な呼吸音と機械的な音だけが響いていた。

狭くもないはずのこの家をやたらと閉塞感と侵略感に蝕んでいた元凶である190cmは超えていそうな筋骨隆々とした巨躯を持つ彼がいなくなって早三日。…彼の赤ちゃん─最早目に入れても痛くないほど可愛がってしまっている恵くんを三日預けると出て行った約束の日はもう過ぎようとしていた。


「………帰ってくるよね?」


ずっと心の内に押しとどめていた不安をパステルカラーのカバーに包まれた羽毛の中に吐き出せばだんだんと冷えていたはずの爪先からじんわりと暖かくなってきて、ぐちゃぐちゃだった思考がうつらうつらとしながら境界線があやふやになってくる。


「………どうか、ケガせず無事に……あしたには、ふしぐろさんが、かえって、…ます、……ょぅ、に………」


ほとんどうわ言のようなことを口走ってしまったのは、断じてわざとではない。あれだけずっと他人には“期待”も“願い”も込めないようにと思っていたのに。








光の灯らない深淵さえ感じる双眸で無味乾燥然としたつまらない世界を見下ろした男はターゲットの心臓を一突きして完全に生命活動を停止したことを確認してから、ひどく呆気ない幕切れに地面に転がる頭を何となく踏みつけた。これでもかと驚愕に目を見開いたまま絶命している阿呆面を見下ろして、ずっと幼い頃から己を構成していた恨みにも似た負の感情を思い出して唾でも吐き捨ててやりたくなる。─何も、この男が過去己を虐げたというわけでもないが。御三家でもなんでもない、とはいえ厚顔をその面に隠すこともできていない術師の呆気ない最期に嘲笑が漏れる。


「……非術師に殺られるなんて思ってもみませんでした、とでも言いたげだな」


一本の街灯さえない路地裏の影から、嗅ぎ慣れない乾燥した植物を燻す香りが鼻についた。銘柄でも変えたのだろう、それでも耳が覚えている革靴が地面を踏み鳴らす音から現れる人物を想定するまでもなく男は踏みしめていた男の頭から今度は興味なさげに足を引き、顔を確認することもなく男の名を呼んだ。


「終わったか?」
「ああ。……さっさと…金……?」
「どうした?」


仕事仲間である男がタバコを蒸しながら死体を確認している最中になぜか唐突に『帰らなければならない』ような気がした。そしてすぐその後に自分の帰るべき場はとっくに消失してしまったことを思い出してしまい、すっかり“考えないようにしていた”ことを思い出して何の無駄もなく絶命させた真下の死体をぐちゃぐちゃに肉片の一つもなく消し去ってしまいたい衝動に駆られ、使役する呪霊の中に格納しようとしていた呪具を今一度握り直した。


「おい。どうした」


─もう終わっただろ、そう言いながら胡乱とした細い目つきが男を見上げる。
確かに不可解な行動をとっていることを自覚した男は右手に握りしめた呪具を再び呪霊の中に押し戻し、興味なさげに肉塊から目を背けた。


「………なあ、いつ引っ越した?」
「あぁ?」
「引っ越しただろ、あの無駄にたけーマンション」
「………いつの話だよ」


腫れぼったい瞼を先程より細めてとっくに絶命した男の脈がないことを確認してから立ち上がり、口端に咥えていた煙草のフィルターを勢いよく吸った男は、数日前久方ぶりに顔を見た目の前の男の様子を思い出す。あの日の邂逅は本当にただの偶然だった。パチンコ帰りの特有の煙臭さをまといながら両手にぶら下がる“人間らしい”品々に驚きはしたが、すっかり数年前の、今にもこの世界全てを破壊のかぎりに埋め尽くさんと言わんばかりの頃に逆戻りしたような表情を浮かべていたことに、あらかたの事情を察した。それならばと天国から堕ちてきたこの男を拾いまた碌でもない仕事を斡旋したわけだが─どうやらこの男は己に接触を図っていたらしいことを悟って悪かったな、と呟こうとしてそういや先にこちらの連絡を一方的に絶ったのはこいつじゃねーかと思い至り口内にむくむくと溜まる煙の中にその言葉を混ぜて吐き出した。


「……俺に何か用だったのか?」
「………ガキが熱出したんだ」
「………ガキ?オマエ……いや、いい。ソレ、どうしたんだ」


ガキがいたのか─その言葉は喉奥に仕舞い込んだ。とてもじゃないが“一人で”この男が“子供”の面倒を見ている様が想像もつかなかった男は驚きのあまり咥えた煙草を落としそうになった。まさか“術師殺し”の次は“子殺し”でも犯したか─そこまで考えてからあの日両手に下がっていた“荷物”を思い出して成程と埋めようとも特に考えていなかったかけたピースが勝手にはまりはじめる。“どうした”という言葉の中には熱が出たガキをどうした、と今そのガキはどうしてるという意味がこもっていたが、相変わらず全てどうでも良さそうな暗い瞳から察することのできる情報は少なく、男はズレたタバコを指先に挟んで滞留した煙を吐き出しながら男の返答を待った。


「─……帰る」
「は???」
「金はいつもンとこ振り込んどけよ」
「………ガキがいんなら全部馬券に突っ込むんじゃねーぞ」
「うっせーな、俺の金をどうしようが俺の勝手だろ」


突然会話を切り上げた不遜な態度をとる男に一瞬眉根を顰めたがこれといって引き留めることもなく夜の闇に消えていく背中を見送る。どこか急いているような男の態度に自分の目も耄碌したかと乾いた笑みが漏れた。とてもじゃないが“帰路を急ぐ父親”の姿からはかけ離れていたが、“依頼人”に“仕事”を見せる前に帰ることなど今までなかったものだから、数日前に見た“この世の全てに絶望している”とも言いたげな表情は気のせいかとスーツの内ポケットに忍ばせた煙草の箱を叩きながら咥えたままだった短くなったタバコを吐き捨て踏み潰す。朗らかに笑う“女”の顔をなんとなく思い出して“彼女が死んだ”という噂はどうやら誤報であることを悟り新しい一本に火をつけた。




prev next