さつま芋の味噌汁

仕事柄、…というか人生柄、『出会い』よりも『別れ』が多い人生だと思う。人によれば“出会いの分だけ別れがある”とか“別れが辛くても新しい出会いがある”とか言うらしいけれど、なんとなく無意識的に出会いがあってもその出会いとの死別を想定することが増えた。きっと自分はいつまで経っても“見送る側”で、大切な存在に“見送られる”ことはきっとないと、諦観が心の根底で根付いていたような気がする。─驕ってもいた。『最愛』を喪った日にこの身に幸せが満ちることなんてないことを悟ったし、自分で“最強の片割れ”を見送った日にずっとこの地に“孤独”のまま立ち続けていく人生なのだと。

─自分がまだ見ぬ未来に、最悪の形で封印される日が来るなんて、この時は露ほども想定だってしていなかった。─まあ、それは、また、今回とは別の話。





別に忘れるつもりだったわけじゃない。最愛の彼女を愛おしく想っていた日々をわざと掌を返して捨てようとしていたつもりなんて毛頭ない。だけども彼女が死んだのは少し遠去かってしまった出来事だったから、もう毎日『思い出』の中の彼女を夢想しては悲嘆にくれていたわけでもなかった。─なにせ、僕、すんごい忙しい身なので。

多細胞生物の一つである『ヒト』を象るこの体が、『生物』を構成する『細胞』が、遺伝子内にプログラミングされた順番で自然と役目を終えて死んでいくのと一緒に細かな記憶が、大切と認識するまでもない当たり前のようだった何気ない『思い出』が、一つ一つ自然の摂理のように色褪せていたことに気付くのは、ふとした生活の一欠片に『思い出』を彷彿とさせる出来事と遭遇するからだ。

今日も、なんてことない、だけど思い出すと胸が一瞬チリッと熱い針で刺されたように灼けてじくじくと痛み出すような想いに駆られて数秒、時が止まったように忙しない僕の時間が凪いだ。

なんの変哲もない木椀を満たすやさしい味のそれに浮かんだひとかけらのさつま芋。腹が減ったなと目についた適当な定食屋で遭遇すると思ってもいなかった、今にも煮崩れして汁の中に溶けて無くなりそうなそれを箸で力を入れすぎないように持ち上げた。

「あー…、懐かしいな」

そう、『懐かしいな』と思うほど時が経っていたことに気づいて、口からまろび出た言葉に少しだけやるせなくなる。
─いつか、僕に彼女があり合わせのもので作ってくれた食事に出てきた、『さつま芋入りの味噌汁』。しょっぱい汁に混ざったほのかな甘さがあべこべで、「なにこれ美味しくない」、そうポツリと呟けば、きょとんとした顔で“甘いもの好きだから好きかと思った”と彼女は言い放った。その時ばかりは今より僕はまだ子供だったというかなんというか、味噌汁にさつま芋入れるなんてセンスどうかしてるんじゃないの、とか、俺が作った方が百倍美味しい、とか。出汁もなんか雑だしやっぱし美味しくない、とか、うぜぇ姑かよって今なら突っ込んでしまいたくなる文句をくどくどと彼女に放って、そんなに言うならもう二度と悟にご飯作らない、と唇をかみしめて必死に泣くのを我慢するくらい傷つけてしまったことが、古いドラマでも見てるみたいに手に持ったさつま芋越しに再生される。
せっかく作ってくれた彼女にあんなこと言うなんて、と今なら思うけれど、あの頃はすぐに素直に謝ることができなくて暫く冷戦状態にまで縺れ込んでしまうわ、結局涙で日本最大の湖でも作る気かというくらい彼女を泣かせてしまうわで…できることなら、思い出したくなかった。そのまま記憶の海に沈み込んで、お目にかからない場所でひっそりとしていてほしかった。思い出したくなかったのに、やっぱり自分が傷つけてしまった一場面だったとしても彼女の一欠片を思い出したことで胸がじんわりと温かくなって、…また、喪失の実感に胸が悴みそうになる。

一人で目が覚めるベッドの広さにも、シーツの冷たさにも、漸く違和感を覚えなくなってきたのに。

箸で掴んでいたやわらかいさつま芋を口に運ぶ。やはり塩味の中に混ざり切らない仄かな甘さが舌の上であべこべに伝わってきた。

「………ふ、やっぱ美味しくないよ、これ」

スイートポテトは好きなのに、なんで?と少し納得がいかないみたいにムッとしながら言い返してくる君の姿がアイマスクに閉ざされた視界の中で鮮明に浮かぶ。スイートポテトと味噌汁を同系列に並べるなよ、って多分昔言ったことと同じ言葉を頭の中で言い返していた。…はは、自分でも少しは丸くなったかなって思ってたけどここで「これはこれで美味しいね」って言えない自分に笑えてくる。なんで僕ってば思い出の中の君のことまで怒らせちゃうんだろう。

手を伸ばせばそこにいそうなのに、アイマスクをずらした向こうには不特定多数の呪力が入り混じるいつもの世界が広がるだけで、何度もこの瞳に刻んだあの懐かしい気配はどうやったって見つけることができない。

君はとうにこの世界にいないのに、ふとした生活の狭間にまるで“忘れないで”と言ってるみたいにふらりと現れてしまう。もしかして、僕の心変わりを心配してくれているのだろうか。…そうだといい、その方が、いい。僕の頭の中の君はいつだって“幸せになって”と諦めたように笑う。残像でぐらい、我儘言えばいいのに。“私以外の人、好きにならないでね”って僕のこと縛ればいいのに、なんで僕の幸せを願うかな。馬鹿じゃないの。本当に君は呪術師やってたのってぐらいお人好しだよね。

いつか、何年後か、─僕が死ぬ時。君が死んだ時に僕を構成していた細胞は幾つ残っているんだろう。君に触れた感触を覚えている細胞は、君の声を聞いた細胞は、生きているんだろうか。
全ての細胞が死んで、君の知らない僕にアップデートされていたとしても、今みたいに遺言のように君の思い出を細胞が遺していくもんだから、きっと、どうせ、生きている限りいつまでたっても君をこうやって愛してしまうと思うんだ。─そんなに愛が重いと思ってなかったって笑うかな。僕もそう思ってたよ。あの世でこんな僕を笑いながらだれかとよろしくやってたらどうしよ。僕が行くまで待っててよね。いつになるかわかんないけどさ。残念だね、死んでも僕のこと待ってなきゃいけないなんて厄介な男に捕まったよ、ご愁傷様。

底が見えた木椀を盆に乗せた頃にポケットの中で振動を始めたスマホを拾えば、思ったより時間が経過していたことに気付く。

「僕の貴重な時間をこうやってたっぷり割いてもらえるなんてさ、有り難がってよね」

どれだけふざけたことを言っても、何言ってるのって困った顔をする恋人もいなければ、仕方ないなと呆れる親友もここにはいない。
いつもみたいに下手下手にお伺いを立ててくる電子音に変換された聞き慣れた補助監督の声と共に席を立ってアイマスクを元に戻す頃には、ずっと眼前で揺蕩っていた幻はいつの間にかすうっと消えていた。