某女優は全力でドッキリを遂行します

「…えっ?バラエティ?」


結婚して約一年。結婚式も終わって、悟がごねにごねて得られた休暇でハネムーンにも行った。
一年たつと、エムワン優勝芸人として呼ばれていたゲストなんかの仕事がひとまず落ち着いた。とはいえ、冠番組やレギュラー番組、漫才ライブ、たまに単発で入るバラエティのゲスト、といった感じでひっきりなく仕事は入ってくるし、悟が家にいる時間が少ないのは相変わらずだった。
私は、と言えばお互いに忙しすぎて顔を合わせない生活が辛くて、毎クール入っていたドラマの出演を抑えて、映画もドラマも一年に一本程度、CMの出演をメインに切り替え露出を減らすことにした。その分出演する一本一本の作品にしっかり没入できて、昔のように肩肘張って毎日切羽詰まって台本を覚えたり体調管理を徹底したりする鬼気迫る…というと少し語弊があるが、かなりゆとりのない生活を送っていたんだなと思い知った。悟は悟で私がゆとりある生活を送っていることに満足しているのか、それとも恋愛ドラマの露出が減ったことに安堵しているのか喧嘩という喧嘩はないし、日常は平穏そのもの。そんな私にマネージャーからの一本の仕事の出演依頼が舞い込んできて、そのジャンルが珍しいあまり聞き返してしまった。ていうか私、バラエティの出演NG出てなかった?


「そうなんです。先方からどうしても、という打診で…上もなまえさんさえよければ出演して構わないということだったんですが、どうされます?」
「いいけど…何かの番組のゲストとか?」
「…いえ、コーナーのうちのひとつで、番組的には10分程度の出演になるかと……ある意味女優力が試される内容、と言いますか……ドッキリなんです」


ドッキリと聞いて思い出すのは、言わずもがな芸人らしくよくドッキリの企画が舞い込む悟のこと。「ドッキリさー、隠れてるカメラの位置とか仕掛けてくる人間の動きですぐ気づいちゃってリアクションに困るんだよねー、笑っちゃうの必死で堪えてる時とかあるし、毎回僕の演技力試されちゃっててさー。あれどうにかなんないかな?一回マジで『ドッキリ大成功』に驚いてみたいよまったく〜」なんて愚痴をこぼす悟が脳内で再現される。どうやら今まで『ドッキリをドッキリだと気づかなかったことがない』らしく、よく愚痴を漏らしていたことが自然と思い出された。

「…え………?ドッキリ?」
「はい。…その、五条さんをドッキリに仕掛けていただくそうで…」
「……え?」

悟をドッキリにかける?どういうこと??いまいちよくわからないままこちら資料です、と渡されたそれを開いて読み込んでからようやく自分がどうやらドッキリの『仕掛け人』とやらに抜擢されたことを理解した。悟を騙すのは骨が折れそうだなと思いつつも、滅多に舞い込んでこない新しい仕事(しかも初めて悟と共演!!)に、気づけば口角は上がっていた。







白を基調としたシンプルな部屋で存在を主張する大きな革張りのソファに脚を組みながら真顔で座っている女は憂いを帯びた表情を浮かべていた。わずかに眉間に入る皺、下がる口角、どこを見るわけでもなく伏せられた瞼を彩るまつ毛は涙袋に影を差し、いつもテレビの向こうで輝く瞳には光が差していない。ただ何もせず、女はソファで微動だにせずただただ座っていた。


「ただいま〜!つっかれた〜〜!でもやっと連勤終わり〜〜ッなまえ〜〜今夜はいっぱいイチャイチャしよ……って、なまえ?」


ガチャ、とリビングのドアが開く音と共に、ソファに座っている不機嫌そうな女とは真逆で、テレビで聞くそれよりも幾分トーンの高い浮かれ調子の男の声が響いた。普段の特徴的なラウンドのサングラスを外し、輝かしい顔貌を存分に晒す男は部屋の…というよりも、同居するパートナーの様子がおかしいことに早々気付き、怪訝そうに顔を顰めさせた。普段テレビで見るスーツ姿ではなく、ラフなオーバーサイズのニットを身に纏った男はその長い脚を存分に活用させて帰宅したことを告げても振り向きも反応もしないパートナーの元にずんずんと近づいた。


「なまえ?どうしたの、ソファで寝てるなんて珍し……あれ、起きてる?」
「……………」
「え?え?何?どうしたの?体調悪い?」


なまえ、と呼ばれた女はいつも男へ向ける慈愛に満ちた表情の片鱗を見せることなく、瞼を開眼しきることなく熱の灯らない、むしろ冷え切った背筋の凍るような冷たい視線を男へ投げかけた。


「…え?なに?なんか怒ってる…?」


常であれば、帰るなりおかえりなさいと優しく自身を迎え入れ、雲にでも包まれてるみたいに柔らかく抱きしめてお疲れ様と言ってくれる口は固く閉ざされ、背に回る温かい腕は彼女の胸の前でゆるく組まれていた─どこからどう見ても、目の前の愛しい存在が、未だかつて見たことないほどに怒っている。
そのことに、男はとてつもない焦燥感と恐怖心がどこからともなく迫り上がる。─こんなに怒っているところは前世含めて学生時代、素直になれなかった自身が誤って彼女のことを散々ブス呼ばわりして、挙げ句の果てに傑に「好きな子いじめたい小学生みたいだね」とからかわれた後に勢い余って「ッハア?!こんな女こっちから願い下げだわバーカ!」と言ってしまった時ぶりな気がする…今思うとよく交際にこぎつけ、結婚に至れたな…という感じであるが今はそれはどうでもいい─男は高速で頭の中で回転する思考の中で彼女の怒りの琴線に触れそうな自分自身の行動を一瞬でリストアップした。しかしいずれも普段と変わらない言動に過ぎず、決して目の前の彼女がここまで怒りを露わにするようなことではない。…もしかして、塵も積もれば山となるというやつだろうか。何も話そうとしてくれないのか、目の前の彼女の美しい唇はずっと口角の下がったまま引き結ばれていて、相変わらず送られる視線は冷たい。こんなに怒っているのには、必ず理由があるはずだ。─男─五条悟は勢いよく記憶のアルバムを捲る。昔から、理不尽に降りかかる『五条悟との交際』に纏わる嫌がらせを笑顔で受け流し、さまざまなすれ違いやいざこざがあっても、一人で腐って拗らせることもなくむしろこちらを気遣う姿勢を崩さないリスク管理の徹底した女だった。それは生まれ変わった今であっても変わりなく。理由の見えない不機嫌どころか、結婚してから彼女がこちらに向かってこんな冷たい視線を向けてきたことなんて一度もない。むしろ我儘を言いたい放題なのは自分の方で。
そんな彼女の激情。優しくいつも真綿で包んで受け入れてくれていた彼女に胡座をかいてしまっていたのかもしれない。きっと知らない間に自分がとんでもない過ちを犯してしまったのだと一瞬で頭から血の気が引いた。必ず非は自分にあるはずだとしか思えず、だが心当たりが全くない。八方塞がりにも程があって五条は途方に暮れて毛足の長いラグが敷かれた床に膝をついた。


「…っ、なまえ?まじでなに?何で怒ってんの?言ってくんなきゃ僕わかんないんだけど」
「………本当にわからない?」


その場の空気が氷点下にまで下がってしまうかのような冷たい声が空間を震わせた。その声色に、こちらを見る瞳の軽蔑さえ滲むその眼圧に、普段の春の微風のような彼女からは想像できない真冬のブリザードのような態度に、五条はさらにサッと顔色を青ざめさせた。


「………ぇ、なに、まじで…ごめん。……もしかして、なまえが楽しみにしてたアイス勝手に食べたから、とかじゃないよね?」
「……そんなことでこんな態度とるわけないでしょ?」
「だよね、…えっと、……昨日、もうやめてって何回も言ってたのにしつこいくらいいっぱいしちゃったから、とか?」
「…………それは、ちがう」
「……じゃあ、今日の朝また盛っちゃって僕が伊地知の電話無視して抱き続けたから?」
「………っそれは、ちょっと怒ってる。伊地知くんだってお仕事なんだから迷惑かけちゃダメでしょ」
「う、ごめん…じゃあ、今度からはもう少し早起きしてえっちするね……、早く起こしちゃうのも可哀想かなって思ってたんだけど」
「………ねえ、さっきから、もしかして話題逸らそうとしてる?それとも気づいてないふりして私のこと怒らせたくて言ってるの?」
「ちが!…いやまじで身に覚えない……なんか怒らせたなら、謝るから、ちゃんと言ってよ」


やろうと思えば何でもできる男─五条悟は、怒った妻の宥め方を全く知らなかった。ただただ静かに怒り狂っている愛しい人を目の前に、思い当たる節を並べてみても悉く棄却されてしまう。なす術のない自分の無力感に思わず泣きたくなった。いつも人をおちょくるために高速で回る舌は口内の唾液がサァと引いてカラカラの状態でうまく動かないし、蒼い瞳は動揺に染まりぐらぐらと視線は揺れる。
そんな五条の動揺から、本当に身に覚えがないのかと悟った様子のなまえは、下唇を噛み、冷たい眼差しを送っていた視線をぷいとそらした。「………っ」息を殺すような喉が張り付いたような音と、僅かに震える身体にまさかと五条はなまえを見上げる。ポロポロと真珠の涙のようになまえの潤んだ眼から溢れていく涙を見た瞬間、五条はたまらずなまえをきつく掻き抱いた。


「ごめん。本当にごめん。思い当たるところがないのがごめん。知らない間に傷つけてた?なんでこんな切羽詰まるまで僕に言ってくれないの?…もしかして、昔みたいにたくさんドラマ出たいとか?なまえがやりたいなら好きにやればいいよ。……もう我儘言わないようにするから。…ヤキモチは焼くかもしんないけど。でもさ、家のことは二人で協力すればいいし、子供がもしできたら、なまえは妊娠中もしかすると思ったように仕事できないかもしれないから、生まれた後の子育ては僕がすればいい。ホラ最近は男が育休とる時代じゃん?休んでる間は傑に頑張ってもらってさ……ってめちゃくちゃ勝手にしゃべってるけどマジでなまえ何に怒ってるか教えてくれない?知ってると思うけど僕ほんとそういうのに疎いの。ごめんね」


なまえは五条の胸の中で思わず目を見開く。思ってもない五条の本音を垣間見て、嘘のつもりで流していたはずの涙が一度止まって、感情からくる熱いものがぐぐっと下瞼で精製されている気配に目頭がつんと淡い痛みを伴った。ずっと知っていたことだけれど、自分を抱く男の愛を感じて瞼を閉じれば、心の底から湧いて出た嬉し涙が頬をつたっていく。向けられた怒りを偽物だと疑わず、むしろ素直にごめんなさいと頭を垂れ、涙を流す自分を宥めようとする五条の姿に複雑な感情を抱いた。…もうこれくらいでいいだろう。ここまで簡単に騙すことができると思っていなかったなまえは若干の後ろめたさを感じながら五条の背に手を回した。


「…なまえ?」
「…………悟ごめんなさい、」
「なんでなまえが謝…………、『テッテレー!』え?は?なに?は?」
「や、悟。ドッキリ大成功だね」


突然自宅であるはずのリビングに突撃してきた数分前に別れたはずの相方の姿に五条は一瞬脳内がパニックを起こした。今日自宅に帰ってきた瞬間のことから、なまえのあまりの不機嫌ぶりにここ数日の自身の行動を振り返ったこと、前世でそういやこの顔の傑に何回も頭ン中ぐちゃぐちゃにされたななんてこと全てが脳内に溢れ出す。「帰宅した時に奥さんが身に覚えのない怒りで不機嫌だったらっていうドッキリだよ」なんて言いながら穏やかに笑う相方に五条はなんだよそのクソつまんねードッキリ。ふざけんな。企画したやつ前に出てこい…なんて怒りがふつふつと湧き上がった。…この場に獄門疆があればまた封印待ったなしだな、そんなことを思いつくほどに余裕が出てきたところで、五条は思いの外緊張していた身体をようやく弛緩させて抱き留めたなまえごとソファに倒れ込んだ。


「そりゃないよなまえ〜〜〜〜ッ」


両手両足でなまえをがっちりホールドし、「あ゛〜〜〜よかったまじで離婚されるのかと思ってもう内臓全部ひっくり返りそうだった〜もうやめてマジでやめて心臓に悪いから二度とこんなことしないで!」喚きながらぐりぐりとなまえの首筋に顔を埋めた五条と、困ったように「これカメラ回ってるからね、悟」と頭を撫でるなまえの姿に夏油は苦笑する。夏油と共に突撃してきたドッキリ番組のMCも務める芸人は「いや〜!みょうじさんさすがの演技でしたね!あの五条がなっさけない顔してたのバッチリ撮れてましたよ〜!」とご機嫌。




無事オンエアを迎えたそれをテレビで見る五条となまえ。なまえは握り合った手が時折ぎゅっと力強さを増すのを愛おしく思いながらテレビの中でドッキリ大成功のプラカードを見て目が点になっている五条を見てから、現実では不服そうにテレビの中のなまえの姿を見つめる五条を見上げる。五条はそんななまえの視線に気づいて視線だけなまえの方に向ければ、やっぱり春の微風のように笑うなまえと目があった。鳩尾のあたりが急に縮こまって少し居心地が悪いのに、どうしようもない幸せを感じる。だけどそれを全面に出すのはなんだか負けた気がして、少し拗ねたふりをするとなまえは困ったように笑った。


「…………なまえのばか。迫真の演技にも程がある。才能の無駄遣い。信じらんない。愛しい男にあんな冷たい顔する?ふつー」
「ふふ、ごめん。だってバレちゃったらさすがに自信なくしちゃう」
「オファー受けなかったらいいじゃん」
「えー………?、あのね、これ受けたのは悟に意地悪したかったからじゃないよ」
「??」

なまえはふんわりと笑みを浮かべていた目を蠱惑的に歪ませ、五条の耳元に唇を寄せてこっそりと囁いた。

「『五条悟は私のもの』ってみんなに知らしめたかったって言ったら、どうする?」
「え?!…え?!」

なまえの大胆な発言に目を白黒とさせた五条は珍しく白い肌を紅潮させた。


「……仕事だってわかってても、少し前の、ハニートラップみたいなの、なんかやだなぁ、って思ったから。ちょっと牽制しちゃった。…私も炎上しちゃうかな?」
「〜〜〜〜ッ!僕のなまえが死ぬほど可愛くてほんとに死ぬ…ッ!」
「はは、大袈裟」


大好きだよ、愛してる。どちらともなく伝え合う愛の言葉とともに、ダウンライトに照らされた二つの影が重なり合った。





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