Act2-12

今年の冬は存外寒いのか、雪がちらつく日がちらほらと散見された。雪が降っているからとはしゃぐ気質ではないが、素直でこんな季節の移り変わりも楽しむタイプの薄い桃色頭は今どんな表情を浮かべているのだろうかと五条は隣にいる女をなんとなく見下ろした。昔であれば確実に『積もったら雪合戦できるね』とでもいってはしゃいでたであろうなまえは、想像に反してなんの感慨にひたることもなさそうにしんしんと降るそれを傘の上に積もらせていた。
大人になった、と言われればそれまでだが昔に比べると憂いを浮かべるようになったその横顔は、へにゃりと屈託なく笑う少女の面影を少しだけ残しつつ、黙っていれば凡人は近付き難い雰囲気を纏う、淡麗な女の表情を浮かべていた。そのことに、五条はなんだか一つの言葉では言い表せない複雑な感情を抱いた。


何がそんなに楽しいのか、勝気な目元が見えなくなるくらいガキみたいによく笑って、それでいて一度プッツンすると手がつけられなくなるくらい怒って、ご飯作ってやったり髪の毛を梳いてやったりなんてちょっとしたことですぐ喜んで、それでいて意外と涙もろい。喜怒哀楽のそれぞれの切り替わりが早くて、それでいて落差が激しい、五条から見たなまえという女は昔からそういう女だった。
『五条』
いろんな声色で名前を呼ばれるその瞬間が、昔から愛おしかった。一度たりとも自身を『異質なもの』とした目で見ないその蒼い瞳で射抜かれる瞬間が、五条はたまらなく好きだった。そんななまえの視線が、醸す雰囲気が、いつからかハッピーなことしか知らない少女の皮を脱ぎ捨てて、妙齢の女性として色香を纏いながら満開に花開くのをずっと隣で見てきたはずなのに、それがひどく寂しく瞳に映る。

「あ、雪だ……どうりで寒いと思った。悟は寒くない?…あ、雪弾いてる。ずるい」

雪が降っていることに今気づいたのか、真白の手のひらに空気中の塵や埃を内包した結晶が振り落ちて、なまえの手のひらの上で溶けていく。何度かそれを見送ったなまえは手が冷えたのか、傘の柄を肩に乗せて両手で擦った手のひらにはぁーっと体内であたためられた空気を吐きかける。水蒸気が白い粒となって空気中に溶けて消えていった。目元を少し細めていいなあと言わんばかりのなまえに、「なまえだって傘あるじゃん」と言ってやれば、「私の傘と悟のそれは違うでしょ」とツンとした返事が返ってきた。

呼び方だってずいぶん前に変わった、最近の変化なんかじゃない。喜怒哀楽だって普通の女に比べたら今だって激しいものだろう。今までは視界に入れることも興味もなかった雑草のような非術師たちを、いつからか守るべきもの、尊ぶべきものだと指針を変えたことも、『力』を己の快・不快で振るうのをやめたことも、きっと己が言葉遣いを改めたころと同じだ。二人のターニングポイントには同じ男がいる。そしてそれを同時に喪った。

お互いの変化をずっと己の側で受け入れて、全部を肯定して、気づいたら他の人間全てを置き去りにしていた自分の隣に必ず寄り添ってくれる、振り落とすつもりなんてなくてもついていくことを諦めさせてしまう『最強』を恣にしている『五条悟』を「守ってあげる」なんていう女、他にいるだろうか。その異質な蒼い瞳も、キラキラと光る薄桃色の髪も、人外な身体能力も、どうしようもなく愛おしく思う。十年前よりも、きっと今の方がこの女を愛していて、何十年先もこの想いを重ねていくのだと思う。─笑えない執着だ。己が生徒に『愛ほど歪んだ呪いはない』なんて説いたが、ソースは自分だった。『五条悟』に呪われるなんて、それこそ三大怨霊の復活レベルで恐ろしいことだと五条は我ながら思うのに、「呪っていいよ」と微笑むなまえの強さが眩しい。いつだって光って見えるなまえを渇望し、どうしたって愛してしまう。執着して縛り付けている自分に、かつて子供の頃喪った少女を縛りつけた少年の姿が重なって見えた。─今となって思うのは血がそうさせてしまうのだろうか。有り余る力は、どうしても『特別』を呪ってしまうのかもしれない。乙骨憂太の気持ちが五条悟には痛いほどよくわかってしまった。
─そもそも、呪いが力となるこの世は地獄なのだ。誰もが誰もを呪っている。人はきっと、誰かを、何かを、もしくは自分を呪わずにはいられない。

十二月二十四日、夕焼けが淡い藍色の闇の中に最後の一滴を混ぜたような景色の中、『幸せだ』と心の底から満足そうに笑った少女をふと思い出した。呪われていたとしても、あんな姿になっても、少年のそばにいられたことを幸せだと笑った少女と、世界を捨てさせて側に縛り付けたのに、ずっと昔から己の側で「愛してる」と笑い続ける女が重なって見えたのだ。
光の粒が舞う中で、「愛してる」と微笑むなまえはあの少女と同じような表情を浮かべていた。
愛は、歪んだ呪いだと思っていた。自分の元に縛り付けて、どうしても離してやれない。自分の元から離れていくことを許容できない。自分以外の人間と幸せに笑うことを認められない。『五条悟』に呪われている『なまえ』を何度哀れに思っただろうか。
だけど笑って逝った少女も、五条の隣で能天気に笑うなまえも、きっとその執着を、歪みを、真に呪いだと思っていないのだ。でなければ、きっとあんな風に美しくこの世を、自身を呪った少年を、己を柔らかく包み込めるわけがない。


「…悟?どうしたの?みんな待ってるよ」


鬱々とした雪雲が頭上の低い太陽を遮って、昼間だというのにどんよりとした暗い景色に包まれると、さっきまで感じていた体感温度より、頬を掠める空気が何度か下降した気がする。いつの間にか足を止めていた五条を首を傾げて振り返ったなまえが肩にかける傘の上で溶けた雪が水滴となって露先からパタリとこぼれ落ちた。数メートル先には任務に向かう生徒たちが二人の到着を待っている。…日常の一幕だ。どうしようもなく普通の日常。誰かが親友を殺しても、史上最悪の呪詛師がこの世から祓われても、誰かが最愛の人を呪いから解放しても、変わらずやってくる日常。…むしろ平和が訪れたと微笑む人が増えたのかもしれない。五条となまえがこれからも守っていく日常が目の前にあった。五条は徐に目元を覆っていた包帯をずり下ろして、空を見上げる。少し降雪量の増えた雪が数センチ側で止まって、避けるように落ちていく。陽の差していない天気は、どう考えたって五条がこれからしようとしている行為にはうってつけではなかったけれど、どうしても今じゃないといけないような気がした。


「─悟?」


排除していた雪を受け入れた頭に冷たいそれが落ちてくるせいで、頭上の体温を奪っていく。五条が突然冷たい雪を受け入れたことに驚いたのか少し目を丸くしたなまえから五条は傘を取り上げた。その辺にぽい、と放って、意味があるかはわからないが大きな左手で薄桃色の頭の上に影を作る。外気温と共に冷えたなまえの手のひらを右手でそっと握ると困惑の色を浮かべつつも少し嬉しそうな顔をしたなまえの唇に触れるだけのキスを落とした。巻き込まれた雪がどちらのものとは言わない唇に張り付いて、お互いの体温で一瞬で溶けたそのキスは冷たいような、あったかいような不思議な感覚だった。


「悟?どうしたの…」


突然の接触に困惑を浮かべていたなまえは背後の生徒たちの様子が気になるのか、頬を僅かに染めながら前に向き直ろうとするのを五条が再びキスをして止める。学生たちは三者三様の反応を浮かべていたが、五条は気にした様子もなくマイペースになまえに何度かキスを落とした。戸惑いを浮かべていたなまえは、なんとなくいつものふざけた様子ではない五条の態度と、とはいえ学生の前で平然と繰り返すこの接触に頭が混乱し止めるべきか受け入れるべきか迷いに迷っていた。そんな迷いの狭間に上手に滑り込むように五条はなまえに触れる。何度も。ただ触れるだけの、雪のように肌に触れた瞬間溶けるようなささやかな接触だった。ふだんの、お互い混ざり合うみたいなものではなく、御伽噺みたいな優しいそれに、なまえはさらに混乱した。


「呪っていいんだよね」
「…え?」
「呪うよ、なまえ。ちゃんとお前のことを呪う」
「うん…?」


今までの御伽噺みたいな一幕には決して釣り合わない台詞を五条が吐く。状況をよくわかっていないなまえは真意を測りかねて言葉の続きを待っているのか、瞬きをすることもなく睫毛に少し雪を積もらせながら、じいと五条を見上げていた。五条はポケットに忍ばせていた、決して華美ではないシンプルなデザインの指輪をひとつ取り出してなまえの無防備な指にそれを通した。じんわりとした呪いを纏うなまえの薬指を持ち上げて、キスを落とす。まだよくわかっていないのか、なに、プレゼント?と困惑の表情を浮かべるなまえに五条は思わず声を出して笑ってしまった。
─…さすがだな、指輪渡したくらいじゃ伝わらないのか。
小さく息をつくと、何もかも見える六眼に映らないなまえの赤らんだ指先を、体が透けて見えそうなくらい白い手を、何度抱いたか覚えてもいない身体を、蹴りひとつで建物を破壊してしまう脚を、キスの時にくすぐり合う鼻を、何度も愛の言葉を吐いた口を、己をいつもじいと見つめる瞳を、どんなときも煌めく髪を、ひとつひとつ目で見てなぞる。何も言わない五条を訝しんだなまえは嵌められた指輪に一度視線を落とした。じいっと見つめた指輪が、教え子が嵌めているそれと似たような、そこに篭る想いに気づいてまさかと顔色を変える。


「悟?…これ、なんか……」
「結婚しよう、なまえ」
「……え、」
「僕のことを幸せにして。僕が幸せだったら、なまえも幸せでしょ?」


なまえが大きく目を見開いた瞬間に、さっきまで睫毛に乗っていた雪が溶けて頬に伝う。もう一度なまえは五条と指輪を交互に見て、少し困ったように微笑んだ。


「昔から、ほんと自分本位だね。僕のこと幸せにしてって笑っちゃう」
「それはなまえもでしょ。僕の言うことなんていつも聞きやしないんだから」
「確かに。似た者同士だね、私たち」


ぎゅ、と程よい力で絡められた指と指。五条の節くれだった右手の薬指と中指に挟まれた金属の感触が伝わらないくらい冷えた指先を絡め合う。「そういえば、恵から悟と私が結婚するたらなんたら聞かされたの今更思い出したよ」と呆れたような表情を浮かべたなまえは手を頬に寄せて絡まり合った指ごと指輪に愛おしそうなキスを落とした。返事なんて聞くまでもなくなまえの態度から明らかだったが、そもそもきちんと『結婚』の意味も『恋人から妻になること』の意味も、わかっているのだろうかと五条の胸中に暗雲が立ち込める。─日頃の行いから言って、わかっているはずだと断言できない。


「…あのさ、念のための確認なんだけど、僕の妻になってって意味なんだけど、伝わってる?」
「………私のことなんだと思ってるの?」
じとっとした視線が送られてきて五条は肩をすくめさせた。
「…覚えてない?私、もう何年も前の悟の誕生日に私のことあげたから。私のこと、悟の好きにしていいんだよ。……それにしてもさ、こんなときにこんな呪力篭った呪物渡す?呪っていいって言ったけど、どんだけ私のこと呪うつもりなの」


まるで楽しそうな敵に遭遇したみたいに好戦的に笑ったなまえに、五条は一瞬面食らう。鳩がピストル撃たれたようって、こんな顔なんだろうな、となまえは内心思ったが、阿呆ななまえが心の中で漏らした覚え間違いなど指摘する人間はいなかった。嬉しそうにくふくふと微笑むなまえの様子に、五条はきっと阿呆なことを考えているのだろうと確信があったけれども。呪物を受け入れた薬指だけ、己の呪力が籠るなまえを見下ろした五条は初めて六眼になまえの輪郭を見た。
五条悟に結婚を申し込まれる─確実に、呪いでしかない。まあ、逃すつもりなんてさらさらなかったわけだが。それでも呪いなんて知らないと言いたげに相変わらず能天気に笑っている女がやはりあの頃から本質は一つも変わっていないことに今更気付かされた。どれだけこの想いを呪いとして煮詰めようが、呪われていると思わない、呪いだと感じていない。五条からの愛を日常であり当然と享受するなまえは、間違いなくイかれている。
夏空の下己に向かって「いつかトドメをさしてあげる」と宣ったなまえの表情が、声が、あの時のジリジリ照りつける太陽の温度が、なまえの背景に咲いた花が、今でも思い出される。

『よかったね、悟』

親友が、かつて同じ制服を着ていた男が当時と同じ見慣れたお団子頭で己が肩を抱いて笑っているような気がした五条は思わず万感胸に迫るような気持ちで天を仰いで目元を覆った。すぐにクツクツと喉奥を震わせてなまえを見下ろした五条の下瞼が少し赤らんでいたことになまえは気づいていたが、ここ最近ずっと難しい顔をしていた愛しい人の、憑き物が落ちたような表情に顔を綻ばせた。


「それ、僕の渾身の呪い篭ってるんだ」
「うそ、やだ。じゃあこれ特級呪物?こっわ……ん?まって?これ、呪物?私これから拳だけで呪霊祓えるんじゃ?」
「嘘でしょ?結婚指輪メリケンサックにするつもりなのオマエ正気?」
「悟の呪力こもってる私の拳って最強なんじゃ?サイコ〜じゃん!悟大好き!!」
「ええ…嘘……こんなにときめかない大好き初めてなんだけど……」


さすがの五条も顔を顰めた。それでもえへへと緩んだ顔を晒すなまえはうっとりと自身の左手を見つめている。─ちなみに拳型だ。今にも試し撃ちなんて言いながら何かに殴りかかりそうだった。─そうだ、僕こんな戦闘狂のこと好きになったんだった。こいつそういえばゴリラだったな。…懐かしすぎる青い春の記憶の何ページかが勢いよく脳内で捲られる。
夜兎─と言う通り兎のようにぴょんぴょん跳ねて、五条に放られた傘を拾いながら「見て見て〜!私最強になっちゃった〜」と生徒に向かって駆け出したなまえは左手を自慢するように見せつけていた。呆れた顔、驚いた顔、微笑ましい顔、揶揄う顔を浮かべた学生たちに囲まれたなまえは今まで見たこともないくらい幸せそうに笑っている。そのなまえの姿がただただ美しく光り輝いているように五条の目に映った。


「あ、そうだ」
─ちょうどいい機会だ。時期は少し先のつもりだったけど、鉄は熱いうちに打てというし。ちょうどオーダーメイドのブツも先日出来上がったと先方から連絡もあったところだ。うんうん、これは天啓かもしれない。いや絶対そうだ間違いない。
「なまえー、明日結婚式あげよう!」
「「「は?」」」
「あはは、いいよー!」
「ちょ!五条さん?!それはもう少し先の話では…!ってなまえさんまでッ?!じょ、冗談ですよね?!明日もお二方とも任務が入って─!」
都合の悪い伊地知の言葉なんて五条の都合の良い耳には入ってこなかった。ただそのおめでたい頭と耳と目に、幸せと笑っているなまえの承諾だけが伝わって、五条は誰も見たことがないくらい優しい表情で、幸せそうに微笑んだ。


「ずぅぅえーったい、明日僕はなまえと結婚式挙げるからね!」
「伊地知〜!調整よろしくね!」
「そ、そんな……!無理です…ッ!」
「オイオイマジかよ。こいつらやっぱりイカレてんな」
「ツナツナ!明太子!!」
「え、えっ…本当に?結婚するんですか?!すご…お、おめでとうございます…!」
「悟ー、なまえー、お祝儀カルパスでいいかァ?」
「みんなありがと〜っ!ところで結婚式って何するの?」
「明日のお楽しみだよ


オッケー楽しみにしてる!なまえが笑った高らかな声が、焦る補助監督の声が、笑う生徒たちの声が上空まで響いた。

唯一の親友を殺さなくてはいけない世界。五条悟はそういう世界で生きている。一歩間違えれば、あの光り輝いていた青春の日々が、闇い影差すものになっていたかもしれない。一寸先は闇、そんな世界でただただいつでも光り輝いているなまえは、まるで闇夜の中で足元を照らす月のようだった。
五条は満開の笑みで手を広げて待っているなまえを強く抱きしめる。
十年以上かけてまた長さを取り戻した出会った頃と同じ背中に流れる柔らかい髪に鼻を埋めて、とびきり甘い声で愛の言葉を囁く。



「愛してるよ、なまえ」



さぁ、これからも楽しい地獄で共に歩んでいこうじゃないか。




prev