Act2-11

「なまえでも結構手こずったね」
「…悟、手間取りすぎじゃない?」
「オマエが持ってるその縄、変な術式が組まれててさ僕の術式乱されてすげーうざかった」


もう長さの残っていない、組目もほどけ、先端がチリチリに焼け焦げたそれに視線を落とした。悟がこんなもんに手こずらされたとは到底信じられなくて腕に巻きつけてみたり、引っ張ってみたり、匂いを嗅いでみたりしたが、多少手がピリピリするだけで何も変哲もないゴミ箱行きのただの縄にしか見えなかった。


「……このきったない縄が?」
「…キッタナイトハナンダ…!ブフ!」
「うるさい。喋っていいなんて言ってないよ」
「グ、ゥ……!割ニ…合ワナイ……」
「だーかーら、そのカタコトうぜーからやめな?………っ?!」


遠くで一際爆ぜた凄まじい呪力のぶつかり合いに全身が粟立ち、ぶるりと体が震える。

「なに…憂太と、夏油…?」
「……死ヌカト、思ッタ…………」


踏みつけられている男はそう呟くなり、急に抵抗する気も失せたように大の字になって力なく地面に仰向けで転がって「フゥーーー」と長すぎる嘆息を漏らした。まるで一仕事終えた安堵感にも似たそれに思わず眉間に皺を寄せて、やっぱりこの百鬼夜行が夏油の狙いの囮であったらしいことを悟って、舌打ち一つついて鳩尾にぐりぐりとねじこんでいた脚を退ける。周囲は随分呪霊の掃討も進んでいるのか、先刻までの視界を埋め尽くすような魑魅魍魎は鳴りを潜めていた。…こちらをじっとり伺っていたような呪詛師たちの気配もいつのまにやらなくなっている。

「…傑の目的は、憂太だったみたい」

音も立てず近づいてきた、少し不機嫌そうな悟の声に思わず顔を顰める。

「…ごめん、私が高専に残ってれば…今度からは言うことちゃんと聞くよ…」
「いや、なまえの戦力を考えたらこっちに来ないにしても京都には呼ばれてただろ。…それに棘とパンダ送ったんだ。憂太を死守しろってね」

確かに、無くなっても痛手ではない戦力かつ彼を護る理由がある二人は、この場を辞退するにはぴったりな人材だったのかもしれない。優しいあの二人のことだ、悟の命令がなくても憂太がピンチなら命を賭して守ろうとすることは想像に難くなかった。思わず先ほどから凝り固まってきた眉間に手を当てる。

「あ、伊地知ー、コイツ逃げないように見張っててー」
「エッ?!わ、私がですかッ?!」
「だって、なまえ見張りに置いてったらまーた殺しにかかってきそうなんだもん。新宿がこの前の高専の二の舞になってもいいのー?ほんとコイツ怖いよねー」

あっけらかんと何でもないようにそう言い放つ声音にまた顔を顰めた。キッと睨みつけたまま「ん、」と手を差し出せば、普段と変わらない大きな手が私の手を攫う。体温も普段と変わらない、汗が滲んでいることもない、震えてもいない。いつもと変わらない、十年以上前から何も変わらない手だ。
そんな手をまじまじと握り返している間に、見慣れた、見飽きた、在りし日から何も変わってない景色が視界に飛び込んできて、そこかしこに残る激しい戦いの気配に顔を顰める。可愛い生徒たちの成長が微笑ましい気持ちと、禍々しい呪霊の残り香から街に放ったそれよりも多量のそれをまだ隠し持っていたことを悟って、何とも言えない気分になる。…一体何体飲み込んでいたんだろうか…。

ひた、ひた、とこちらに向かってくる懐かしすぎる気配に胸がザワザワする。胸の内でぐちゃぐちゃになった感情を整理する間もないままに観念するように瞼を閉じて、冷気を含んで氷のように冷たくなった石塀に背をもたれさせた。




「…君で詰むとはな」

ひんやりと、少し疲れを滲ませた声が薄暗い路地に反響する。立場なんてなかったみたいに、昔みたいにぽつぽつと会話する二人の声を聞きながらただただじっとしていたせいで冷たい壁に体温を奪われていく。むせ返るような血の匂いや肌が焼け焦げた匂いが鼻を突いてどうしようもなく、つんといろんなところがじんわり熱くなっていった。…おかしいなあ。壁がこんなに冷たくて、空気が体温を奪っていくみたいに寒いのに。なんで熱が上がってくるんだろう。しゃがみこんでまっすぐ夏油と向き合う悟にたまらなくなって、路地に飛び出していきそうになっている震える足をなんとか押し留める。きゅうとブーツのつま先に強い力が入って、道端に転がった砂利を踏みしめてしまった。じゃり、と小石がアスファルトを擦る僅かな音を拾ったのか夏油の意識がこちらに逸れる気配がした。

「………いつまでかくれんぼしてるつもりだい、なまえ」

つい先日十年ぶりに再会した、あの日の底の見えない薄気味悪い声色ではなく、昔から知ってる、しっとりした優しいその声に呼ばれて、足が自然と薄闇に向かっていた。腕を欠損して、立派な袈裟もひどく乱れたぼろぼろの姿を視認して、泣きたくなった。何でこんなことになったんだろうって、あの日からずっと持って行き場のなかった楽しくて輝いていて、だけど昏い闇がさす思い出がたくさん頭をよぎって、気づけば傷だらけの夏油を思い切り抱きしめていた。もう痛みなんて感じていないのか、ギチギチと細胞が軋む音が聞こえるが夏油が悲鳴をあげないのをいいことにお構いなしに体を締め上げる。

「……なまえ、汚れるよ」
「そんなのどうでもいいでしょ!…………馬鹿じゃないの、私より馬鹿。アホ、ガキ、変な前髪…っ、…うんこ!…おたんこなす!」
「………痛いよ、君は相変わらず馬鹿力だし悪口の語彙力も子供並みだね」
「そうだよ、私馬鹿なんだよ、そんな私なんかより夏油は馬鹿!」
「……そうか。それは大馬鹿だな」

眉を下げて力なく笑ったと思えば、失った片腕を止血するように抑えていた左腕が、腰に回る。昔から綺麗に引っ詰めていたはずの、血濡れでザンバラに広がっていた冷たい髪が頬に触れる。濃すぎる鉄の香りの向こうに、昔から変わらない夏油の香りが鼻腔を掠めて、やるせなくなる。薄くなってしまった胸板にどんどんと拳を叩きつければ、困った顔で痛いよ、と笑う夏油は、学生の頃私たちを諭していた表情とちっとも変わらないそれを浮かべていた。耳元に寄せられた唇から掠れた声で、君が変わってなくて、安心したと囁かれて少しは大人になったよ、と虚勢を張れば、そういうところが変わってないんだよと笑われる。全部のやりとりが急に十年前に戻ったみたいで何年もずっとこんな日が来るのをシミュレーションしてきたのに、全然、気持ちが追いつかなかった。

「…ねえ、私夏油のこと、好きだよ。夏油と、硝子と、…五条。私の初めてできた友達。……『非術師』でごめんね。私が近くにいるの、…苦しかった?ごめんね」

驚いたように目を見開いた夏油はゆっくり瞼を閉じ、私の頭を撫でた。私も、君のことをどうしても、嫌いになんてなれなかったよ─ほとんど空気のような掠れた声で呟かれた言葉が耳を撫でる。そのまま体の輪郭をなぞるみたいに背に腕が落ちてきた。

「……夏油、頑張ったね」
「……ん、」

どんどん体温が下がっていく夏油の体を優しく摩り続けていると、私の腰に回る腕から力が抜けていくのがわかって、ぎゅうと強く抱きしめた。

「オマエら僕のこと忘れてない?」

そう言った悟が、私を夏油の胸板に押し付けるみたいに大きな腕を広げて私たちを包み込んだ。顔が潰れるくらい密着した、頬に押し付けられた胸元で振動する鼓動の動きが、だんだん弱くなっていく。

「あの頃だってこんな小っ恥ずかしいことしなかったのにね」

私たちの奇行に、昔みたいに思わずついて出てしまったように笑った夏油の穏やかな表情を見上げて、私もつられるように笑う。その瞬間は、まだ、何の捻れも歪みも感じなかったあの頃に戻ったみたいだった。その時間はたった数秒だったかもしれない。だけど、失った十年を埋めるように永くも感じられた。

洗練された呪力が爆ぜる瞬間に、夏油が満足そうに微笑んだから、初めて、生まれて初めて、呪力がある悟が、非術師ではない術師が、…誰かを呪えることが、羨ましく思った。

真希も、あの男も、ずっとこんな羨望や疎外感を抱えていたのだろうか。ほんの少しだけ、『天与呪縛』の痛みを知った気がした。










伊地知と電話でやりとりしている悟が「そういうことだから、じゃ、あとよろしくー」なんて軽い口調でスマホを耳から離した。

「…どうするの?」

力なく壁にもたれかかった夏油を悟は一度見下ろして、ゆっくり瞼を閉じる。鳥が美しい羽を広げるように睫毛が上がったと思えば、いつも通りの表情でこちらを見つめてくる瞳と視線がかち合った。

「…どうもしないよ」
「……硝子は、帰ってくるのを待ってるんじゃない?」
「弱った姿を同級生や恩師にみられるの、嫌じゃない?」
「馬鹿じゃないの。もう見せてるじゃない」
「……直に補助監督が来るから、回収するでしょ」
「……、そう」

想定していたよりも、動揺も落胆もない、どうやったって平常通りの悟と私の間に短くも長くもない沈黙が流れる。そんな沈黙を破るように悟が行こうか、と背を向けて歩き出した。広い背中を見つめながら後を追いかければ、悟がいつも通り、なんでもないように笑って振り返る。

「なに、そんな顔で見て」
「……ううん、初めて、呪力があるみんなが羨ましいと思ったの」
「………僕は今日初めて呪力のないオマエが羨ましく思ったよ」
「えっ?」
「オマエは、馬鹿力が取り柄のただの馬鹿だしどれだけ言葉に重みを乗せても呪いにならないでしょ」

私に馬鹿を重複させてきたことはさておいて、さっきの悟と夏油の二人だけの会話を思い出した。感情に任せて言いたいことを吐き散らかした私と違ってなんの恨言も乗せていない悟の餞の言葉と『最後くらい、呪いの言葉を吐けよ』と言った夏油。
─悟は、いったいどれだけの言葉を今まで飲み込んできたんだろう。なんて、生きにくい。

「……せっかく泣かなかったのにね」
こちらを振り返って溢れそうな涙を指で払って、私の頬や髪についた血を拭う悟の肩をバシン、と叩いてやる。
「いったあ?!オマ、オマエほんと手加減…!」
「泣かせたの悟じゃん」
「……ふ、まあ、今度は僕が泣かせたんだからいっか」
「…いつの話してるの」

視界が情けないぐらい潤んでいるから威力は半減しているだろうが、ギロリと睨みあげれば「そんな怖い顔しないでよ」と今度こそ困った顔で悟は笑った。
「ねえ、私のことは、思う存分呪っていいよ。もうとうの昔に呪われた後だから」
じっと絡み合うように見つめあっていた目をびっくりしたように見開いて、悟はすぐに乾いた息を漏らした。
「…………やっぱ僕オマエのこと好きだなー」
「ハイハイ。…みんな無事かな。憂太と真希と棘とパンダ、回収しなくちゃ」
「えーめっちゃ流すじゃん。あ、そうだそうだ、憂太ね、先祖が僕と同じだった。まさかの僕の遠縁。憂太が呪われてたんじゃなくてね、憂太が里香を呪ってた、ってところかな」
「憂太が…そう」


ホラ、悟がそう言って指を指す先、崩壊した瓦礫の中で生徒たちが元気に騒いでいる先にいた、可愛らしい女の子。生徒たちに大きな怪我がなさそうで安堵するのも束の間、あの呪霊の姿からは想像もつかない、目鼻立ちのくっきりした、美しい少女からなぜか目が離せなかった。なんとなく、あれが里香だとすぐにわかったのは、憂太のことをすごくすごく優しい表情で見つめていたから。彼女が立っている場だけ、破壊の限りが尽くされた、呪いがぶつかり合っていた場と同じと思えない清廉な空気を纏うそのあまりの美しさに息を呑んだ。


「…きれい」


私の呟きが聞こえたのか、子供らしからぬ美しい微笑みを湛えた少女と目が合う。
生徒たちが悟と騒いでいる間、ずっと視線があったままで、にっこり、弧を描くように目元を緩めさせた少女には、未練も、恨みも、禍々しい激情も何も感じられなかった。

「呪いをかけた側が主従契約を破棄したんだ。かけられた側がペナルティを望んでいないのであれば、解呪は完了だ」

ま、その姿を見れば、分かりきったことだよね─悟がそう呟いた通り、彼女の全身からは憂太への愛が滲み出るように溢れていた。

涙を流す憂太を優しく抱きしめた彼女が光の粒となって冷たい空気に溶けるように消えていく姿に神々しさすら感じられて、首から太ももまでブワッと鳥肌が立つ。

たぶん、きっと。私、今日のことは死ぬまでずっと、一コマも忘れられない気がする。


─私が死ぬ時ってどんなだろう?

漠然と考えるいつか訪れる別れの時。自分の死に際なんてちっとも想像できないけれど。死してなお、愛されて呪われて、引き留められて、縛り付けられて、側に置かれる。その幸せが、私には理解できた。隣に立って光を見送る男をそっと見上げる。きっと、この男はそうしないのだろう。どれだけ私を愛してると死ぬなと言ってくれていても、私がいくら私のことを呪ってもいいと言っても、いざ死が迎えに来た日には今日のようにその美しすぎる瞳に私を刻みつけてゆっくり瞬き一つし終わった後にはケロッと立ち上がることが、容易く想像できた。

「…悟」
「ん?」
「………愛してる」

少し驚いたように目を見開いて「僕もだよ」と手を絡めてくる悟の手をできるだけ優しく握り返した。









次ページ、おまけです。

唐突な転生祓本?×モデル世界軸っぽい話
0の映画撮ってた設定です。あと謎にスーパー夏油デビルが唐突に出てくる。
リク企画の「たとえ全て忘れてしまっても」の設定っぽい話。

全然読まなくても問題ないです。

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