某芸人と某女優が前世の先輩だった件

肌を刺す冷たい空気をシャットアウトするようにふんわりした手触りのマフラーをしっかりと巻きつけながら慣れた道を歩く。出張のはずが、先方のトラブルだとかで別日に延期され帰ってきた自室の部屋を開けて飛び込んできた光景に思わず嘲笑が漏れた。見慣れないハイヒール、寝室から聞こえる彼氏と自分以外の女の喘ぎ声。─なるほど、浮気か。やけに冷静な頭で寝室のドアを開ければむわっとした独特の空気感に思わず咳き込んだ。
私の名前を慌てて呼ぶ彼氏と青ざめる女。普通、こんな場面に遭遇したらどんな反応するのが正解?取り乱す?ヒステリック起こして女の髪引っ掴んで地面に投げつける?─それはヤバい女か。怒りも悲しみも何もない自分に笑えてしまう。しいていうなら自分も寝るベッドでヤられてた不快感くらい。「何笑ってんの」と言う彼氏の方が悲しそうな表情を浮かべていた。

「なまえってこんな時まで怒らないの?俺のこと好きじゃないよね?ーもう別れよう」

三年くらい交際してた彼氏が同棲してた部屋で浮気してて、振られた。普通この場合別れを告げるのは私のほうじゃない?こんなのまあまあショックな案件だろうに、ちっとも悲しくない自分が怖い。
誰と付き合ったっていつもしっくりこなくて、違和感を覚える。自分のことを「俺」だと言うところ、髪が短くて太いところ。─だけど今回の彼の穏やかで色っぽい声だけは、少し似ていた。一体毎回彼氏を誰に重ねてるんだか。


別れるなら家は出なきゃいけないなとやけに冷静な頭が今必要な行動を叩き出す。海外旅行用のキャリーケースに出張用にまとめていた荷物をそのまま突っ込み、お気に入りの服とスーツとシャツ、アクセサリーと化粧品、日用品を詰めようとしたところで、彼のプレゼントに、と選んでいた時計の入った小箱を手に取った。そういえば三日後はクリスマスイブだったか。「いらなかったら、捨てて。他の荷物はもういらないから面倒だとは思うけど処理してもらえるかな」と小箱を彼に渡して部屋から出た。彼の方が泣きそうな顔をしていたから、きっと悪いのは私の方だったんだろうな、と思う。とりあえず今日はビジホにでも泊まろう。明日も仕事だ。さっき歩いた道を今度は大きなキャリーケースを引きながら引き返す。駅前に来ればクリスマスの飾りつけがやけに目に入る。どうせだったら職場から近いホテルに泊まろうといつもなら朝乗り込むはずの電車に乗れば、車内は朝に比べれば空いていた。車内の電光アナウンスで、昔から何故か親近感のわく女優がやっている化粧品のCMに自然と目が惹かれる。相変わらず美人だなー、性格もいいし、なんであんなちゃらんぽらんと付き合ってたんだろうなんて考えてハッとする。─私また変なこと考えて……一体何なんだろう。昔から頭によぎる謎の記憶。ハリウッド映画のようなお化けと戦う自分。そこにはこの女優が頻繁に出てくる。まあ、好きだし、ファンなんだけど。潜在意識ってやつだろうか。あーやめやめ。今日は疲れたから余計なこと考えない。明日は早めに仕事切り上げてできるだけ早く入居できそうな家探して…、あんな現場を見てしまったのにこんなにすぐに切り替えできている自分が気持ち悪い。きっと私が彼にときめきを感じていないことも気づいていたのだろうなと思うと気が滅入った…すごい、傷つけちゃったんだろうな、振られた辛さも浮気された怒りも感じてないけれど罪悪感だけは胸に残っていて、こんなだから浮気されたんだろうなと乾いた笑みが漏れる。─自分から人を好きになったことがない。恋愛ドラマや少女漫画のような胸のときめきも感じたことがない。好きなタイプはある。よく見る夢に出てくる黒い髪のやさしそうなひと。毎回それに似た人と付き合っている。だけど、決定的に何かがいつも違っていて、本気で好きになれない。自分がやばい自覚はある。夢の中で逢瀬を重ねるイマジナリーな男性のことが好きで、現実の彼氏を好きになれない。そんなことを誰かに相談すればドン引きされるのが目に見えているので今まで誰にも打ち明けたことがない。電車の窓に映る自分の顔がやけに疲れているように見えた。







家賃は若干予算をオーバーしていたが、運良く治安の良いエリアの女性一人暮らしでも安心セキュリティ抜群のマンションの角部屋、即日入居可という神物件が見つかり、迷った末に仕事頑張ればいいか!と勢いで契約書にサインした。シャンシャンと特有の鈴の音が街中に響くクリスマスイブに一人寂しく引っ越しを済ませた新しい私の城は、家具が少なくて広く感じ、季節も相まってか寒々しい。唯一のお隣さんはご挨拶に伺ったが留守らしく、粗品の入った紙袋を玄関先にさげておいたが、今朝になっても下げられたままだった。なんだかクリスマスのサンタのプレゼントのようで少し笑った。中身は洗剤とラップだけど。
まだ家の中はがらんとしているから、せめて二人がけくらいの大きさのソファとテレビくらいは欲しいなあ、なんて考えながら営業先から帰社すれば仲良くしている後輩ちゃんが身を乗り出してきた。

「先輩!この前のエムワンみました?!祓本の五条女優のーーと結婚するってガチだったみたいです!今日のお昼に記者会見するって!休憩時間に一緒に見ましょ!」

後輩の口から彼女の名前が出てきて、そして一緒に飛び出した『五条』という名字に胸がざわつく。なに、この感じ。はらほん…?誰?という表情が伝わったのか、知らないんですか?!と驚愕する後輩に苦笑を漏らしてそのハラホンとやらのファンらしく興奮している彼女の話を耳に入れつつ「わかったから今は仕事しようね。これ処理しといてくれる?」と言えばおずおずと席に着いた。ーそうか、あの人結婚するんだ。相手いい人だといいな。ハラホンのゴジョウってだれだろ。エムワンってあの漫才大会の?ってことは芸人?芸人があんな綺麗な女優と結婚できるなんて夢あるなあーなんて考えて後輩と一緒にお昼にいけるよう午前中に済ませなければならない仕事に取り掛かった。




食堂にあるテレビが見える席を真っ先に陣取った後輩にまたまた苦笑を漏らしつつ、いつものランチバッグからお弁当を広げる。彼女の結婚相手に興味がないわけではなくて、お箸を取り出しながらテレビに視線を送った。丁度『ハラホンのゴジョウ』と彼女が登壇するところだったのかこちらの視界がチカチカするほどのフラッシュが焚かれる。にこやかに笑って現れた見覚えのありすぎる二人の並ぶ姿を見た瞬間とてもフラッシュどころではない強烈な閃光が頭に差し込み、思わず持っていたお箸をぼとりと落としてしまう。夢だと思い込んでいた記憶が痛みさえ伴うようなリアルさでフラッシュバックし、猛烈なスピードで凄まじい情報量を脳が読み込んでいく。

ーああ、そうか、あれ、呪霊祓ってた記憶だ。
よかった、あの記憶、夢じゃなかったんだ。
そっか、あれって前世、生まれ変わったんだ、私。

自信満々に、嬉しそうに、内臓がどこに入っているのかわからない恐ろしいほど細っこい腰に腕を回してエスコートする五条先輩と、それを当然のように享受してにこやかに微笑む先輩の姿は、あまりの美しさで目が焼けそうだった。二人が着ているのは真っ黒の喪服のような学ランではなく、見慣れないスーツ姿と白いワンピース姿で、一瞬理解が追いつかない。…そもそも、五条先輩って、こんなノリだった?僕とか言ってるんだけど…
ちがう、違う。今はその世界じゃない。呪術師じゃない。私はしがない会社員で、最強だった五条先輩はなんでかわからないけど芸人をやっていて、優しかった先輩は女優になってる。そして、結婚、するんだ。
私が呪術高専に入学した時にはもう交際していたあの二人がまた結ばれたんだと思うと、感慨深いものがある。話を聞いている限り、前世の記憶があることはまるわかりで…そっか、あの世界で結婚できなかったんだ、と思うと自然と涙が溢れた。前世でも恋人だった二人が生まれ変わって結婚するってそれどんな奇跡?この二人って所謂運命ってやつ?

たまに五条先輩の口から出てくる相方らしい彼の名前に今までしっくりこなかった自分の全てのアイデンティティを取り戻したような気がした。イマジナリーな理想だと思っていた男性像はまさしく彼そのもので。あぁ、私生まれ変わってもまだ先輩のことが好きなんだ。─なんだ、私人のこと好きになれるんじゃん。ずっと夏油先輩に他の人重ねてたんだ。…いや、最低だな。たかが学生時代の恋慕。想いを伝えることもできずに呆気なく死んだ自分。記憶もないのにむしろ前世より長生きしているのにたった一年半の恋心を27年引きずって生きて、記憶もないくせに付き合う男性に彼を重ねて、勝手にガッカリして好きになれなくて傷つけて。最低だ。こわ。ストーカーなんて目じゃないくらいの愛の重さじゃん。こんなの呪いじゃないか。引く。怖い。信じられない。馬鹿じゃないのと自虐しては心を抉っていく。

「めっちゃ綺麗ー五条と並んでも遜色ないってさすが女優って感じですよね!…って先輩大丈夫ですか?!泣いてる?!顔真っ青ですよ?!」

心配そうな声で私を見つめる後輩に、大丈夫と言いたいけれど言葉にならない。濃密すぎる記憶の処理に、脳に莫大な負荷でもかかっているのか頭が割れそうなくらいに痛い。…自分の前世の死に際がエグすぎて吐き気がする。

早退した方がいいですよ!という彼女の言葉に、今日の予定をなんとか膨大な記憶を処理する脳の片隅に持ってきて、外回りの予定がなかったことを鑑みてありがたく早退させてもらうことにした。私の顔色を見た上司はすぐに病院に行け!とタクシーを呼んでくれたが、これは病院に行ってなんとかなるものではない、と頭の中で返事しながらありがたくタクシーで自宅に帰る。エントランス前の車寄せに止まったタクシーに安心してお金を渡せば優しそうな運転手に「お気をつけて」と声をかけられ、それがまるで任務に向かう前の補助監督さんとのやりとりのように思え、また苦々しい気持ちが芽生え愛想笑いを浮かべておく。慣れないタッチ式のキーを取り出してエントランスを抜け、自室に何とか転がり込めば着替えもそこそこにぼふん、と買ったばかりのベッドに体を沈み込ませる。自分の右手を見つめて昔のように呪力を放出しようとしても何も力が湧いてこない体に安堵とよくわからない残念な気持ちが芽生える。呪術師、呪霊、呪詛師、五条先輩が芸人なんかやってるんだ、たぶんそのどれもがいない、平和な世界だ。まさかそんな世界であの二人が芸人になってるなんて。何の冗談なの?─だめだ。笑ってしまいそう。どんな顔して芸人やってるの?今度見てみたいな。─そんなことを思えるくらいには落ち着いてきた頭で考えるのはやはり夏油先輩のことで。


五条先輩と彼女があの様子ならきっと夏油先輩だって記憶があるんだろうな。…私のこと、覚えてるのかな……私が前世で死んだ時、悲しんで、くれただろうか……。
私が死んだ日─二級案件だと同期三人でアサインされた任務は、私たちの手に負える代物ではなくて、一瞬でやられてしまった灰原の姿に血の気が引いてこのままでは私も七海も死んでしまうと、私は最後持てる呪力を全部使って結界術を展開し、産土神信仰の成れの果てと一緒に結界に立て篭もった。七海は無事に逃げ果せたかなあ、夏油先輩にちゃんと好きって言いたかったな。なんて、死を待つ恐怖の中で最後まで結界の中で泣きながら彼の名前を叫んでた。もしかしたらアレが呪いになってこんなふうに生まれ変わったのかな、なんて思ったりして。

何度か逡巡したあとに、彼の名前をスマホの検索エンジンにかければ、あの頃から大人に成長した彼が五条先輩の横で笑っている画像が一番最初に出てきて、もうダメだった。涙腺が決壊してしまったのかというくらい涙が溢れていく。─やっぱり、好きだ。だけど、生まれ変わったってエムワンで優勝しちゃう特別な人間なんだなと思うとやっぱり不釣り合いすぎて笑うしかない。だって私は平凡な会社勤めをする一般人だから。結局は叶わない恋。女優になった彼女と五条先輩とは、違う。


「夏油先輩……」


スマホの画面を見ていられなくて適当にスマホを放り投げる。勢い余って壁に激突した音がしたが、どうでもよかった。
きりっとした目元も、柔らかく微笑むその表情も、相変わらずがっしりしていそうな身体も、焦がれて仕方がないその人が本当に私と同じように生まれ変わっていることに、どうしようもなく感情が爆発して自分ではコントロールできなくなりそうだった。私の名前を優しげに呼ぶ声さえ脳内で再生される。末期だ。


『呪霊の味?そんなものが気になる?…この世のものとは思えない不味さだよ。みんなには内緒ね』
『君たち三人はいつも仲が良いね』
『怪我してるじゃないか!早く硝子のところに行かなきゃ駄目だろう!』
『なまえ、今日の任務はどうだったんだい?』
『お土産かい?嬉しいな。ありがとう』
『……少し疲れた、なんてね。心配してくれてる?ありがとう。私は大丈夫だよ』
『なまえ。任務、気をつけていってくるんだよ』


何で今まで忘れていられたのか、びっくりするぐらい鮮明に思い出す過去。ズキズキと痛む胸。笑い合えてたあのときに勇気を出して好きですと言えばこんな風に未練がましく想ったりすることはなかっただろうか。どうしてあの任務に行く前に言わなかったんだろう…言ってても、あの日死んだだろうからそれは逆に夏油先輩への呪いになってたかな。私が死ぬ間際、疲れた顔をすることが多かった彼の更なる負担になったかもしれない…やっぱり言わなくてよかったのかも。なんていろんな感情がまた波のように押し寄せる。
私が死んだ後、みんなどんな人生だったんだろう。特級術師になった夏油先輩は術師としてのあり方に迷ってたみたいだけれど、あの後どうなったんだろう。笑いながら天寿を全うできたのかな。…いくら強いからって呪術師にそんなの無理か。─結婚とか、したのかなあ。恋人とか、できたのかなあ…。当時からモテてたし、当たり前にいるかあ……。

まるで十代にタイムスリップしたみたいに、アラサーとは思えない今世で感じたことのない胸のときめきときっと成就されない想いの遣る瀬無さが心の中をひしめいて、自分が今何歳で何をやってる人間なのかわからなくなってくる。混乱した頭の中で最もクリアだったのは、私が記憶を忘れている間も、ずっと先輩の影を探して生きていたということだけだった。







五条先輩の記者会見から何日か経って、呪術師だった頃の記憶と、今世のみょうじなまえとしての記憶をなんとか別個のものとして受け入れられるようになってきた。

「くっ…東野カナめっちゃいい歌歌うじゃん………沁みるわ……」

記憶の混濁の最中迎えた年末年始休暇、私はまだ慣れない新しい部屋で何本も空き缶を重ねながら一人で過ごしていた。静かな部屋の中で気づけば夏油先輩のことを思い出してしまっている。27年間感じなかったときめきと前世からの執念で某会いたくて震える女性歌手の病み歌をずっとエンドレスリピートするくらいには彼への想いを拗らせているわけだが、所詮は学生の頃に捧げた淡い恋心。想い人である彼は飛ぶ鳥落とす勢いの人気芸人らしいし、今世モブである私はそっと影から応援しているくらいしかできることはない…、とはいえ無意識にも恐ろしい年月温めてしまった呪いはさすがにすぐには吹っ切ることができなくて、こうして毎日やけ酒に乗じている。ふとした瞬間に夏油先輩を視界に入れるのが怖くて結局テレビはまだ買っていないし、もうネットで彼を検索することもやめた。どうやらこの年末年始はテレビにひっぱりだこらしく、SNSでは度々トレンドに上ってくるし、抱かれたい男ランキングに俳優たちを差し置いて一位に輝いていた彼の記事や、嘘か誠かスクープされた熱愛報道の記事を見かけるたびに心臓が大火傷を負うような痛みを伴って見てられなくなった。
一度フラれればこんな気持ちともおさらばできるのだろうかと考えたこともあるけれど、どう考えたってモブでしかない自分はそうもいってはいられない。そもそも会う機会なんてものがないのだから。クリスマス前に浮気されて振られた彼氏のことよりも夏油先輩に会えないことがよっぽど辛い。

─やってられない。何よこれ。思い出したって辛いだけじゃん。五条先輩の馬鹿。あんな会見するから思い出しちゃったじゃん。先輩とのラブラブぶり見せつけたかったのか知らないけど嬉しがってあんなの開いて。おかげで夜は呪霊の夢頻繁に見るし、楽しかった夏油先輩との思い出とか灰原と七海との毎日とか思い出すしほんと最悪。孤独だ。会いたい。私も昔のこと知ってる誰かと会って昔のこととか話してこんなことあったよねって笑い飛ばしてしまいたい。自分一人であんな過去昇華できる気がしない。


「…ビール………」


深く考えていたくなくて冷蔵庫を勢いよく開ければ、休暇前にはひしめくように場所をとっていたビールの缶がすっかりなくなっていた。その代わりに年末年始で毎週の回収がないベコベコに潰されたアルミ缶のゴミが透明の袋から溢れんばかりといった様子でげんなりする。飲み過ぎだなと思うけれど、飲まなきゃやってられない。はあ、とため息をついて財布とキーを持ってダウンを着込みコンビニへ行くことにした。唯一のお隣さんである部屋の前を通るときにふと玄関を見ればいつか下げた粗品の入った紙袋がまだひっかかっていた。─え?もう一週間以上経つけどその間家に帰ってきてないの?社畜にも程があるでしょ。あ、それとも年末年始で長期休暇取れる系の職種の人?まあなんにせよ、あまり家に帰ってこない人が隣室だというのは気が楽だ。いやー急拵えの部屋だったのに、ちょっと家賃オーバーだけどいい部屋見つかってよかった。去年あったいいことってもしかしてこれぐらいかも。





袋いっぱいに入ったビールの缶が歩くたびに隣の缶とぶつかり合い、がさがさと揺れる。はぁ、と肺の中の空気を吐けば夜の闇の中に浮遊するように白い息がむくむくと上がっていき、まつ毛が湿ったような気がする。アルコールで少し熱っていた体はコンビニまでの道すがらですっかり冷えてしまった。星なんてあまり見えない暗い空を見上げる。今日は曇りだったっけ─高専から見上げる冬の空って、もう少し綺麗だった気がするなあ、なんて考えて自嘲。ここより山の中にあった高専からはよく星が見えたのは確かなのだが、星が綺麗に見えたのはきっと、夜寮を抜け出してはあったかい缶コーヒーを飲みながらぼうっと空を見上げる夏油先輩と一緒に過ごしていたからだと思う。

『─また来たのかい、そんな薄着で。だめじゃないか』
『へへ、夏油先輩上着貸してください』
『まったく、仕方ないな』
『夏油先輩のダウンおっきいあったかーい』
『私は寒いよ』
『先輩は最強だから風邪なんて引かないでしょ』
『─それとこれとは話が別さ』
『じゃあ一緒に入りますか?』
『─君はすぐそうやって…はぁ。そもそもそれ私のだからね』

何度か偶然を装って手を握ってみた。かさついた大きな掌は骨太で、豆がたくさんできてて握ると安心できるのに、手先がいつも少し冷えてて手の爪先まで覆い隠される大きなダウンの中であたためられた私の手から温度を奪っていく。『君の手はいつもあったかいね』と微笑む夏油先輩の表情には隠しきれないクマがあって、いつか私がそれを取り除いてあげれたらな、なんて烏滸がましい願いを胸に抱いていた。


「あーあ。何やっても思い出すのほんとに終わってるんだけど」


ばか。ばか、ばーか。夏油先輩の、ばーか。五条先輩みたいに、私のことも迎えに来てよ。私が好きなの気づいてたでしょ?夏油先輩だって私のこと、憎からず想ってくれてたと思ってたの、勘違いだった?いいなあ、いいなあ。私もモデルとか、そういうのになれてたら夏油先輩に迎えに来てもらえたのかなあ。そんなたられば考えたって仕方ないけど、しょうがないじゃん。好きなんだもん。私夏油先輩のせいで何人に振られたと思ってんの?何人傷つけてきたと思ってんの?責任とって私のこともらってよ。
─思考回路がめちゃくちゃだ。今日買い込んだこのビール缶をあければ、きっと今にも雪崩を起こしそうになっている缶のゴミは決壊するだろうな。こんなこといつまで続けるつもりだろう。時間が経てば忘れられるのかな。

いつの間にかたどり着いていたマンションの立派なエントランス前の車寄せに一台の車が停まっていた。こんな遅い時間に車が止まってるの珍しいなあなんて思いながらインターフォンにキーをかざせば1階で待っているエレベーターが自動で自分の階へ動き始める。缶の重みで指に食い込んだビニールが痛い。買い込みすぎたかも。今にも引きちぎれんとする荷物にはやくはやくとエレベーターを急かす。緩やかに動きを止めたそれから足早に抜け出し、寿命が切れてしまう前にたどり着きたいとせこせこと足を動かした。隣室の玄関の前を抜けたところで限界が来たのか指先のビニールがぶち、と弾けた。500mlの缶が音を立てながら共用部の廊下に叩きつけられ、深夜のマンションに音が響く。─最悪だ。これじゃあすぐ飲めないじゃん……そのままゴロゴロと転がっていく大量の缶を見てため息をつきたくなった。とりあえず隣のお宅の前に転がるビールの缶を拾い上げ移動させようと小脇に何本も缶を差し込んでいく。


「……大丈夫ですか」


ふいに背後から聞こえた聞き覚えのありすぎるテノールボイスに全身の毛穴がブワッと開いたように鳥肌が立つ。いや、いやいやいや、私ほんとヤバイ。ついにそこらへんにいる男性夏油先輩と重ねるようになった?声まで捏造する私の脳どうなってんの?乾いた笑みを漏らしながら「すみません、袋が破れちゃって」といえば「…拾いますよ」という声に慌てて大丈夫ですと言おうとして振り返った。


「──は?」


ぼとり、脇に抱えた一つが驚きのあまり力の弱まった隙間から落ちていった。ゴロゴロと転がる缶を拾おうとしてくれたのかしゃがみこんだ長い足の爪先にこつんとシルバーに光るそれが当たって、動きを止める。


「………なまえ……?」


マスクによって遮られたくぐもった声が私の名前を呼び、こちらを見つめる腫れぼったい瞼がこれでもかというくらい見張って瞳がゆらゆらと揺れている。私の目は目前の彼をどっからどう見ても夏油先輩と認識していて、夢でも見ているのかと頬をつねった。痛い。夢じゃないらしい。
私の名を呼んだ目の前の彼も驚いているのか、不自然に伸ばされた手はいつまでたっても落ちた缶を拾うことなく固まっている。
昔後頭部でひっつめられていた髪はだらりと下ろされていて、まるでさっきまで思い出していた共に過ごした夜の再現のようだった。

なんで、え?ど、え?どういうこと?あまりに妄想しすぎて幻覚見てる?それともやっぱり夢?痛覚のある夢?いつの間にか寝てた?どっから夢?


「夏油先輩…?ですか…?」
「うん、………ちょっと待って、えーっと…もしかして、お隣?」
「あ、え…?夏油先輩の家、もしかして?」
「─うん、忙しくて全然帰ってこれなかったんだけど、もしかしてその間に?」
「…はい、そうです、引っ越してきて」
「……いつ?」
「……12月24日です」
「…そうなんだ、ごめん、ちょっとびっくりして…ってすごいビールの量。─誰かと住んでる?」
「…寂しい一人暮らしですが」
「そうか。…、よかった…いや、よくないな。飲み過ぎだろう、この量は」


ようやく缶を拾い上げた夏油先輩はまじまじとロング缶と私を交互に見やって目元しか見えてなかったけれど、呆れたように笑った。昔から『仕方ないな』って笑う夏油先輩の面影がその表情とリンクする。


「─夢、ですか?これ。私、五条先輩の会見見て、思い出して、ずっと、会いたくて…ビール飲みすぎて酔ってるんですかね?」
「私も一瞬夢かと思ったよ。…悟が馬鹿やったせいで後始末が大変だったんだけど、思わぬ副産物だな」
「ああ、五条ショック……私も記憶思い出して気分悪くなって早退したせいで周りに五条先輩ファンだと思われてるんですよね、最悪」
「君は相変わらず悟に辛辣だね」
「だって私何回あの長い足に蹴り飛ばされたか……」
「ふふ、懐かしいな……舞い上がって生放送でポロっちゃった悟の気持ちがようやく理解できたよ。私も勢いでプロポーズしてしまいそうだ」
「─はい?」
「…なんでもないよ。なまえこそ本物のなまえ?触ってもいい?」
「え?いや、はい、えっ…?」
「………会いたかった、なまえ………」


立ち上がったと思えば勢いよく距離を詰められて缶を拾う私の腕を引っ張り上げた夏油先輩のせいで、抱えたロング缶がまたボトボトとこぼれ落ちていく。あー、今度こそダメだ。全部死んだ。絶対開けたら炭酸ぶっ飛ぶ。そんなどうでもいいことを考えている間に昔より少しだけ背が伸びた気がする大きな体に抱きとめられた。
昔はしなかった香水の香りが鼻腔をくすぐる。ボタンの閉じられていない質の良さそうな真っ黒のロングコートの中はネット上で見覚えのあるスーツ姿で、やっぱりこれ夏油先輩なんだと思うと、鼻の奥がツンとし始める。寒さも相まってずび、と鼻を啜れば私を抱きしめる腕の強さが増してふっくらしたコートに顔を押し付けられる。鼻水とか涙とか、いろんなものがついちゃうことも気にせずに子供みたいに泣き喚きながら体は大きいのに昔から細い腰回りにぎゅうと抱きつく。「なまえ」と呼ばれて顔だけ上げればマスクを下げた優しそうに微笑む夏油先輩にキスされて驚いている間に驚きの手際の良さで部屋に連れ込まれた。ドアノブに引っかかった何日も放置されていた紙袋を回収もせず、廊下に散らばったアルミ缶もそのままだ。あ、ビール、とつぶやいた声は余裕のなさそうな夏油先輩の「そんなのいいから」という噛み付くようなキスに吸い込まれていった。








ひんやりした空気にぶるりと体が震える。さむい、そう身体が認識した瞬間に毛布をかけられた気配で完全に意識が浮上した。何も着ていない自分の体にかかるふわふわの毛布と、人肌のぬくもり。ああ、さっきまでのあれは夢じゃなかったんだとホッとしながらまだ重い瞼を開ければ「おはよう」とにこやかに微笑む夏油先輩と目が合った。何度も最中に好きだよ、と囁かれた記憶が蘇ってボッと顔に熱が集中する。


「…ふふ、なまえは全然変わらないね」
「わたしおとなになりましたよお……」
「そうだね…あの時は急にいなくなったから、びっくりしたよ」
「……あっさり死んじゃって、すみません。わたしのこと、いつから思い出してたんですか?」
「んー、子供の頃にぼんやりね。ずっと灰原も七海も見つかりやしないから、もしかしたら君たち生まれ変わってないのかなって少し諦めかけてたんだ。…それに高校からは手のかかる親友のおかげでそれどころじゃなくてね…ごめんね」
「くっ…五条先輩……、あ、モデルさんとか女優さんとかと付き合ってたっていうのは…?」
「……うーん、黙秘でもいいかな………」
「………ほらあ!そんなもんなんだあ!当時は五条先輩の方がクズだと思ってたのに今純愛貫いてるし、夏油先輩は全然クズそうに見えないのにめちゃくちゃ手早いのなんなんですか…?!私セフレのうちの一人とかじゃないですよね…?前世でもこんなふうに遊んでたんですか…?」
「もう他の女の子と連絡とったりしないよ─ああ、言ってなかったんだけど、前世でね、君と灰原が死んだ瞬間になんかプチンって切れちゃったんだ。そのあとに非術師の術師への腐った虐待現場見てしまってね、非術師虐殺して高専から離反したんだよね」


─は?
えっと………なんて?げ、とう先輩が、りはん??呪詛師になったってこと?非術師虐殺?え?…え??冗談?あ、冗談か。そうか、そうだよね?前世ちゃんと覚えてるかのチェックとか?ここで私が知ったかぶりしないか確認してるとか?先輩何言ってんですか〜!冗談やめてくださいよ!と言おうとすれば再び寝そべる私の上に夏油先輩が乗りかかった。

「びっくりした?嫌いにならないでくれる?」

そう言いながら長い髪をかきあげる仕草も、厚い胸板もセクシーで見惚れてしまう。なんだ、やっぱり冗談かあ。とこくりと頷けば優しげに微笑む先輩に何度もキスを落とされて幸せでどうにかなってしまいそうだった。─ほら、こんなに優しい人が呪詛師なんかになるわけないじゃん。さすが芸人さん、ジョークのレベルが高い。
ていうかそんなジョークで私誤魔化されませんから。先輩昔からモテてたし、絶対これからも女の子いっぱい寄ってくるじゃん。なんてったって抱かれたい男ナンバーワンの男だし。…あ、自分で言っててなんかへこむ。


「かわいい。心配してるの?大丈夫。女の子との連絡先は君の目の前で消すから許してくれる?」
「……でも先輩芸能人だし、私一般人なんですけど…。大丈夫なんですか?いろいろ」
「関係ないよ、そんなこと。もう私を置いていかないで。……せっかく手に入った君がまた私の手からこぼれ落ちたら今度こそ何をするか、わからないから。ね?」


私の頬に手を添えて微笑む夏油先輩は相変わらず蕾が綻ぶような優しい表情なのに、目は光を失っていて完全に笑っていなかった。あまりの不穏な空気感に思わず息を呑む。え…え?なに?ジョークじゃないの?え?どこから?まさかプッツンしたってところから?私が死んだ後に一体何が?もしかして悩んでる風だった夏油先輩、あのまま闇堕ちした?え?まさか、もしかしてメタルグレイモンに進化せずスカルグレイモンに進化しちゃった系?え?うそ。いや、今は呪術師の世界じゃないし、そんなの過去のことだし、今に関係ない、んだけど私の死を呼び水に非術師虐殺して呪詛師になった?それがいかにヤバいことかなんて、わかってるしへーそうなんだで済ませられないこともわかっている。思わず手に大量の汗が分泌される。…ご、五条先輩は過去先輩が呪詛師になったの受け入れて今隣で笑ってんの…?!器デッカ…!!さっき悪口言ってごめんなさい…!なんと言って良いのかわからなくて夏油先輩の顔を見ればやはり嬉しそうに笑っていた。


「─家が隣になるなんて私たちやっぱり運命だね。君とこうして恋人になれるなんて夢みたいだ」


うっとり、顔を近づけてくる夏油先輩の顔を思わず両手でガードした。ぱちくり、驚いた表情を浮かべる夏油先輩に「─ちょっと気持ちを整理させる時間をください…!」と懇願すれば悲しそうな表情を浮かべるもんだから心臓が跳ねる。何だその顔!母性本能くすぐられるわ!


「もしかして、私信用されてないかい?─君以外に本気で好きになった子なんていないよ。どうしたら信じてくれる?」


─そんなの、私もだ。私だって夏油先輩以外に本気で好きになった人なんていない。だけど、今の一連のやりとりで私はあまりにも夏油先輩の過去を知らなすぎるし、今の夏油先輩のこともよく知らないことを突きつけられた気がして、恋に浮かされた気持ちが急に冷静になっていく。私はもう恋に恋していた十代の呪術師のみょうじなまえではない。恋人だって一応いたことがある、大人の、27歳のしがない営業マンだ。再会した嬉しさで順序すっ飛ばしてしまったけれど、流されてはいけない。目の前の人は漫才師の夏油傑であり呪術師の夏油傑ではないんだと言い聞かせる。何を言っているのか自分でも意味がわからなくなってきているし、素っ裸で一体何をやっているんだと言いたくなるけれど私は叫んだ。


「私夏油先輩の過去とかなんで芸人になったのかとか知らないことだらけだし、とりあえずラインのお友達からでお願いします!!!!」


私の必死の懇願に目を瞬かせた夏油先輩はすぐにあはは、と声をあげて笑った。


「なまえのこと好きにさせればいいんだね。わかった。君のこともっと必死になって探さなかった私への罰ってことだね。付き合うよ」


「好きだよ、なまえ」そう耳元で囁かれた瞬間に心臓はバクバクと早鐘を打つし、さっきまで繋がっていたところはまた疼き始めるし、どう足掻いたって私だってもう好きで仕方なかった。呪詛師になったっていうのも、過去の夏油先輩を思い出したら仕方ないことだったんじゃないかな、と思い始める始末。きっと彼を見上げる私の視線は雄弁に『貴方が好きです』と言っているに違いなかったけれど、「片想いごっこするのも楽しいね」と笑う夏油先輩はライン交換しようかとスマホを探し始めた。『ごっこ』なんて言われてる時点でお察しって感じだけれど、どうやったら私のこと好きになってくれるかなあと微笑む夏油先輩は見覚えのあるすこしいじわるな表情を浮かべていて、思わずムッとする。


「私が夏油先輩に落ちるのと、誰かといるところ週刊誌にすっぱ抜かれるのと、どっちが早いですかね」
「……あれ、随分怒らせてしまったみたいだね」
「べっつにー?私だって彼氏いましたからー」
「え。聞いてないけど」
「私だって27の大人なんです。それなりの経験あります!ってあ、ビール回収しなきゃ」
「…その話、詳しく聞かせてもらえるかい?ビールは私が拾ってくるから君はゆっくりしてて」


ゆるいスウェットに袖を通して玄関へ向かったと思いきや、すぐにたくさん缶を拾い集めて戻ってきた夏油先輩が少し怒った表情を浮かべながら「久しぶりに会えた嬉しさで忘れてたけど、あんな深夜に一人で外出したらだめじゃないか」とぷりぷりしだすので、ああ、少しくらい恋の駆け引きの茶番みたいなことするの悪くないかも。なんて思ったりして。




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