悪魔ですか?いいえ天使です

自分の脳が目の前の事象をきちんと処理できないという事態に陥ったのは初めてだった。いろんな言葉が脳内に溢れて、適切な言葉を紡ぐことができない。かわいい、すき、尊い、しんじられない、食べちゃいたいくらい可愛い、なにこの生き物、ほんとに同じ人間?生きてる世界線あってる?私かこの子のどっちかが間違ってない?あれ?私息してる?なに、可愛すぎて胸が苦しい。息ができない。かわいい…かわいい…かわいい……



「おいおまえ大丈夫かよ」
「あうー」
「はアッ!」


呆れたような視線をよこした伏黒さんの声と、わたしの太腿をぽんぽんと小さなお手手でタップしてくる恵くんからの刺激で意識を取り戻した。あぶッな…!あまりの可愛さを情報処理できずに死んでしまうところだった。ツノのついたニット帽を違和感があるのか外そうと小さな手でぐりぐりとしている恵くんに「ああっ写真撮り終わるまでは待って…!」と一眼レフを構える私を見て伏黒さんが呆れた視線をよこしたのが横目に見えた。滅多に視線をこちらにくれない恵くんはお気に入りの絵本のページを開いてじいと固まってくれているのでばしゃばしゃと勢いよくシャッターを切る。「かわいいこっちむいて」とキャアキャア言いながら撮影していればパシャパシャという音に反応を示したのか美しい二重瞼と長い睫毛に縁取られたつぶらな瞳がこちらを向き、カメラのレンズ越しに目が合った。いや…可愛すぎか…………他人の赤ちゃんでここまで可愛がれるほどに可愛い恵くんのポテンシャルに脱帽である。



「で、なんだよこれ」
「何って…ハロウィンです」
「はろ…なんて?」
「は?ハロウィン知らないんですか?ヤッバ。おじいちゃんじゃん」
「……おまえほんといい度胸してるよな」
「恵くんまじ天使…召される……」
「いやどっからどう見ても悪魔だろ」


ぴし、と恵くんに人差し指を刺す太い指をペシンとはたいたが、全く動じない。…この人の腕鋼でできてるとかない?どこぞの片腕失った錬金術師だったりしない?「指差さないでください。恵くんが真似したらどうするんですか」と言ってやれば面倒そうな顔で耳の穴をかっぽじりだす伏黒さんにじとりとした視線を送ってやった。

…たしかに、恵くんが着ているのは黒いボディースーツに小さな黒い羽根が生えたいわゆるデビル的な衣装なのだが、キュートすぎて脳が誤変換を起こしているのか天使にしか見えない。死ぬときは恵くんに召されたい…と本気で心の底から思った。…アッやめて…通報しないでごめんなさいショタじゃないんです。完全に母性本能からくるやつなんです…!


「……おまえ顔やばいぞ」
「えっ?!え、うそ!変態的な顔してました?!やば!通報しないで!」
「……こんなガキの何がいいんだか」
「何言ってるんですか?!私恵くん以上に完璧な赤ちゃん見たことありませんけど?!顔面宝具だし、ほら!撮影しても泣かない担力!それに親でもない私にも懐いている!!」
「あーんまんまぁー!」
「まんま!ごはんだねー!お父さんが用意してくれるよー!ホラ!伏黒さん!早く離乳食!」
「おまえの人使いの荒さすげーよな」
「私はこのかわいい恵くんカメラに収めるのに忙しいので!!!」


ぷくぷくなほっぺを膨らますように歯固めをがしがしとしがんでいる恵くんの小さなお口から涎が大量に分泌されていて、キッチンに向かった伏黒さんを早く早くー!と急かす。「うるせえなあ」と頭をガシガシ掻くもんだから「ちゃんと手洗ってよ!」と文句を垂れればぎろりと鋭い眼光が飛んできた。─が、全く怖くはない。初対面のあの恐怖はどこへ行ってしまったのか、それとも伏黒さんの私に対する警戒が薄れているのかいくら怖い顔で凄んできても本気じゃない感じが伝わってきて最近はじゃれあいのようなものだった。


「……恵くんって、本当に顔がいいですよね」
「…ああ?んだよ急に」
「─将来モテるんだろうなあって」
「十年後こいつの方が色気あったりしてな」
「?!十歳児に色気で負ける三十路ってやばくないですか?!まって、まって!大丈夫、あと十年あるもん、私だってそれなりの経験したら、きっと…!」


慎ましやかな自分の胸を見てぶんぶんと首を振る。ピーピーとオーブンレンジがあたため終了の音を奏でて、ガチャンと伏黒さんが扉を開ける音が聞こえる。
…もう胸の発育は期待できないかもしれないが、こう、醸し出す雰囲気とか、そういうので、…だい、大丈夫!だって三十路だよ?!十歳児だよ?さすがに負けないって…!ふと恵くんをちら、と見やればきょとんとした様子でこちらを上目がちに見上げていた。私の戸惑いの表情が伝わったのか、心配しないでとでも言いたげに微笑んだ恵くんの表情で心臓が貫かれる。…だ、だめだ…!!!0歳児の恵くんにさえ勝てる気がしない。伏黒さんの遺伝子こっっっっわ…!!!



「この貧相な乳、俺が育ててやろうか?」


むにゅ、といつのまにか差し込まれていた大きな手のひらが私の慎ましい胸に触れた─は?なに?意味がわからなくて自分の胸に伸びる手の元を辿るとふっとい腕の先に逞しい体が私の背後に迫っていて、もう片手は恵くんの離乳食の入った器を手にしていた。
状況が理解できなくてあんぐりと口を開けて伏黒さんを見つめる。…意味がわからなさすぎて伏黒さんの顔面をマジマジと観察して脳が勝手に分析し始めた。造形やパーツが恵くんとほとんど同じそれが均等に小さな顔の中に収まっていて、ああきっと恵くんは伏黒さんにそっくりな男性に育つんだろうな、なんて思った。


「?今日は拒否しねーの?一発ヤっとくか?」


だんだん近づいてくる整った顔に瞬間湯沸かし器のようにパニックになった頭がようやく現状を理解して、悲鳴をあげようとした瞬間だった。


「ま゛ん゛ま゛ぁ゛ッッ!!!」

聞いたこともないような叫び声と伏黒さんの持つ離乳食の入った器を睨みつける恵くんに近づく顔がぴたりと静止した。その隙にひょいと恵くんを回収して離乳食を口に運ぶ。


「もお〜恵くんナイスタイミングあまりの顔の良さで判断能力が鈍っちゃった!」
「あう〜!」
「…こいつ絶対わかってやってるだろ」
「……伏黒さんしばらくパチンコ禁止ね。私に半径一メートル以内に近づかないで」
「別に好き好んで近づかねーよ。おまえが男日照りで困ってそうだったから声かけてやっただけだっつの。報酬もらうからな」
「は、はァ〜〜〜?!何言ってんの?!なんで私が伏黒さんにえ、え、えっちなことされてお金払わなきゃなんないの?!」
「おまえ相手だと仕事だとでも思わなきゃ勃たねー」
「〜〜〜ッ!ひどすぎる!!見てなさいよ!いつかヤりて〜〜って思わせる女になるんだから!ヤらせないけどね!指咥えてチクショーって思わせてやる!」
「ばーか。言ってろ、ちんちくりん」


フッと笑った伏黒さんの長い前髪から覗く目が優しそうに緩んだ。ムカつくこと言われてるはずなのに、胸のあたりがムズムズして、その優しげな視線から逃げるように目を逸らす。私のスプーンを待つ恵くんにハッとして少しずつ離乳食を口に運んでなんとか動悸を起こしている心臓を宥めた。



「なまえ」



あまり呼ばれない名前を紡がれてびくりと肩を跳ねさせる。ようやく落ち着きかけていた鼓動がまた加速していく。


「な、なに…」
「変な男に引っかかるんじゃねーぞ」


おまえこのままだと騙されて金とられた挙句捨てられそうだからな、と頭を撫でてきた伏黒さんはまた悪戯そうに笑っていた。─思わず頬が引き攣った。



「アンタに言われたくないわーっ!!!!!」


ソファに置かれたクッションをむんずと掴んで投げればケラケラと笑いながら痛くも痒くもなさそうにキャッチした伏黒さんと、デビルの服を着ながらもぐもぐと口を動かす恵くんに見つめられ、数ヶ月前まででは考えられなかった自分の家の騒々しさと、無縁だったはずの世間のイベントに積極的に参加している自分に笑えてくる─でもまあ、こんな人生も悪くはないかもしれない。




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