わたしのねがいは

もうすぐ家着くよ、というメッセージを受け取って準備していた食事を温める。毎日できるわけではない豪華な食事の並んだ食卓を見てよし、と微笑んだ。基本的に家事は時間のある方がやる、と決めているので掃除も炊事も当番があるわけではない。どちらの予定も詰まっている時期などはハウスキーパーに入ってもらったりもしているし、外食や、宅配サービスを利用することもある。お互いの手料理を揃って食べることはそもそも珍しい。少し季節柄を意識してみたラインナップと装飾に、喜んでくれるかなあ、と期待で胸が膨らむ。そうこうしていると玄関のキーが解錠される音が聞こえてガチャリと玄関に続く扉を開けた。


「悟、おかえり」
「…うん、ただいま」


ニコリ、と微笑む表情はいつも通りに見えたけど、少しひりつく空気を纏った悟の様子に思わず前世の姿が重なって、顔を顰めそうになるのを必死で耐えて微笑みをたやさないように気をつけた。
…今日誰かの命日だったっけ。─以前、結婚してから初めて迎えた自分の命日だった日と同じような雰囲気の悟に頭の中で必死に考えたけれど、ピンとくるものがなかった。
おいしそーな匂いするね、とくんくん鼻を動かす悟にハッとして「今日はごちそう作ってみたよ」と言えばひりついた空気はどこへやら、やった、と嬉しそうにする悟に内心ほっとした。


「今日はねー、僕ダメダメだったからへこんでたんだよねー」
「ダメダメ?」
「ん、収録もなんかうまくいかなくてすべっちゃったし、傑と次の漫才のネタ合わせしても上の空だから怒られた」
「……そっか、ちょっと疲れちゃったのかな?私もたまにあるよー。NG連発しちゃったり。今日はアロマも焚いてゆっくりお風呂入ろ」
「ふふ、僕なまえのそういうとこ好きー」


玄関でぎゅう、と抱きついてきた悟の体は少しだけ震えている気がして、広い背中をゆっくりさすった。


「カボチャのスープ、あったかいうちに食べよ」
「えー美味しそう」
「グラタンもあるよ。あとね、ローストビーフ」
「あはは、なにー、ホントにご馳走じゃん」


それは早く食べなくちゃ、と微笑む悟は額に触れるだけのキスを落としてなんでもないふりをして離れていく。感情を読み取らせないような貼りつけた微笑みは前世でよくみた表情で、…傑がいなくなったときの悟の雰囲気に似ていた。がちゃ、とリビングの扉を開けた悟は食卓に並ぶ食事と部屋の飾り付けを見るなりその貼りつけた微笑みさえ硬直させて石のようにピクリとも動かなくなった。─もしかして私、地雷踏んだかもしれない。



「…ごめん、良かれと思って飾ったんだけど、片付けるね」
「ごめん、待って、なまえ。…お風呂、先入りたい。─ごめん」
「─いいよ。お風呂ね、もう沸かしてあるよ。入ろっか」


ただただ足元を見つめる棒立ちになった悟の手を引いて、脱衣所へ連れて行く。しょぼんとした悟はごめん、と事あるごとに謝ってくるので悪いことしちゃったな、と軽率な自分にため息をつきたくなった。きっと私が死んだ後の今日に何かあったのだろうな、と察して綺麗な瞳を覆い隠すサングラスを外せば足元に一点集中した瞳に睫毛の帳が下りて深い影ができていた。スーツのジャケットを受け取って、ハンガーにかける。あとは自分で脱げる?と聞けばこくんと頷いて緩慢に動き始めた悟を見届けて、キャンドルの入ったラックを開け吟味する。



「なんの匂いがいいかな。ピオニーにする?悟はミモザの方が好きかなあ」
「なまえ」
「うん?」
「なまえの匂いがいい」
「……うん、ちゃんといるよ。ちゃんと健康診断も受けてるし、まだ死ぬつもりないから」
「一緒に入って」
「うん、わかってる。ゆっくり浸かってあったまろうね」


結局アロマキャンドルを選ぶ間も無く悟がシャワージェルをぶちこんで作った泡風呂に腕を引っ張られて入れられた。後ろからお腹にまわった腕と肩口に乗せられた白い頭は微動だにせず、十数分動く事なく力が緩むこともなく私を拘束する悟の様子にこれは重症だなあとぽんぽんと頭を撫でれば、ようやく悟の頭がピクリと動いた。いつも一緒にお風呂に入ろうものなら余計なおさわりをしてくるはずの悟の殊勝な態度に少し心配になってくる。


「─今日、何かあったんだね」
「─うん」


躊躇いがちに頷いた悟はぽつぽつと言葉を漏らし始めた。前世の今日─2018年10月31日の出来事を。

「多分僕の人生で一番、人の命を取りこぼした」
「傑…の体を乗っ取った奴が目の前に現れて一瞬、我を失った」
「そのせいで術師も人間も山ほど死んだ」

同じ温度の温かいお湯に浸かっているはずなのに、触れている悟の体がやけに冷たく感じる。相槌を打つことしかできない私の体が、お湯の温度が外気に触れてどんどん冷めていくのにつれてどんどん冷えていくような気がした。─軽率だった。2018年の10月31日という日が悟にとってこんなに脳に刻みつけられているような一日だとは思ってもみなかった。そんな日を想起させるようなことをして、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「─ごめんね。食事、嫌な気持ちにさせたね」
「なまえは悪くない」
「…悟も悪くないよ。人が大勢死んだのは悟のせいじゃない。呪いのせいだよ。…辛いときに、そばにいれなくてごめんね」
「………なまえ」
「うん」
「……僕、普通の人になっちゃった」
「……うん」
「最強じゃないんだ」
「私にとっては、昔も今も、悟は悟だよ。昔の悟も、今の悟も、変わらず愛してる」
「……すき、あいしてる、」
「うん、私もだよ」
「これからは、ずっといっしょにいて」
「いるよ。ずっといっしょ」


お腹に回った腕にそっと手を乗せれば、ぎゅっと手を握ってきた悟の手を優しく握り返した。ごぽぽ、と給湯口から温かいお湯が注がれる音がして冷え始めていたお湯が再び温かくなり、体温と同じくらいの温度に感じられたそれがじんわりと身体を温めてくれる。肩口に乗せられていた悟の頭はいつの間にか私の頸に唇を寄せ始め、ちゅ、ちゅ、と小さく口付けてきた。


「お風呂の時髪纏めてるのすごいセクシーだよね」
「…元気になったならよかったよ」
「…今日はずっと裸でくっついてたい」
「いいよ。ずっとぎゅっとしてあげる」
「やったあ。なまえがやさしい」
「私の今世のミッションはね頑張り屋さんだった悟を死ぬまで甘やかしてあげることだから」
「うそ。何それ聞いてない。最高だね」
「ふふ、そろそろあがろっか。…ごはんたべる?やめとく?」
「食べるよ。なまえがせっかく作ってくれたんだもん、全部食べる」
「無理しなくていいよ」
「無理してないよ」


こっち向いて、なまえ。と呼ばれるがまま振り返れば優しく微笑む悟に顎を掬われて温かい水温と一緒に溶け合うような境界線のなくなるようなキスを交わした。
ゆっくり噛み締めるように穏やかに食事をしたあとはゆっくりゆっくりお互いの存在を確かめ合うように名前を呼び合って、感触を確かめて、愛を伝え合った。
譫言のように愛してると言いながら私の存在を確かめるように触れていないところがないくらい密着して、きっと満たされることのない前世の寂しさややるせなさを埋めるように私の身体を揺さぶる悟にここにいるよ、大丈夫だよ、と教え込むように大きな体を強く引き寄せると、頭上の綺麗な空から雨が降ってきて愛おしさでたまらなくなった。
過去はどうすることもできないから、せめてこの先の未来だけは、この人が一秒でも永く幸せに、平穏に生きられますようにと願う。



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