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 月が夜を渡る。
 開け放したままの窓からのぞく夜空は冴えた藍色で、真珠色の輝きが良く映えた。漂う雲も銀色にかすんでいる。木々や花々の香気が夜風に満ちた、心地よい初夏の夜である。
 きっと明日も、同じように晴れるだろう。

「…………」

 そんなことを考えるでもなしに考えながら、セラは視線を窓の外の風景から、ふたたびおのれの目の前の光景に戻した。

「セラ……」

 幼い声が囁かれる。
 明かりは窓から差し込む月の光のみ、満月にはまだ幾らか足りない淡い光は、ごく至近距離にいる娘の顔も、ぼんやりとした浮かび上がらせてはくれない。――だが今は、かえってそれが有り難かった。

「……何をやっているんだ、お前は」

 セラは半眼になると、この上なく低い声で告げた。――おのれの身体に馬乗りになっている小さな娘に。

「…………」

 しかし、娘は答えない。軽い体重を精一杯にかけて男の動きを封じながら、思いつめたような瞳でセラを見下ろしている。

 なぜこんな事になっているのか、彼にもはっきりとは判っていなかった。――彼が覚えていることといえば、宿屋の風呂で湯浴みを終え、珍しくゆったりとした気分で寝台に横になり夜空をながめているうちに、つい眠ってしまったのだろうということだけである。

 というか、そもそも、目が覚めたら腹の上に旅の連れの娘が乗っかっているなど、一体誰が想像しようか。


 だいたい扉には鍵をかけていたはずだ――と思いつつ、窓を開けっ放しだったと思い至る。娘がいる隣の部屋とは露台でつながっているのだった。
 しかし、幾つになっても子供っぽさの抜けない娘ではあるが、さすがにこんな悪ふざけをするような歳でもない。そう言って押しのけようとしたが、逆にその手をつかまれて押さえつけられる。
 思わず見返した娘の顔は月光に染まって蒼白い。その中で、もの言いたげに軽くひらかれた唇だけが、赤かった。そのことに、セラは寒気にも似た戦慄をおぼえた。

「……セラ、」

 囁く声が、濡れていた。彼の脇腹を挟んで触れている柔らかい太腿が、せつなげに擦り合わされる。

「……っ!」

 はからずも心中に生まれた焦りを忌々しく思いながら、セラは急いで考えをめぐらせた。――そうしてすぐにひとつの可能性に思い当たる。

(まさか)

 疑念は一瞬で確かなものになった。
 セラはすっと目を細めると、断定的な口調で告げた。

「――アーギルシャイアか」
「なっ……」

 娘から一瞬にして甘い表情が消えた。
 大きな瞳と可憐な唇を真ん丸に開いた娘は、しばらくのあいだ声もない様子でただ口を開閉させていたが、じきに顔を真っ赤にして叫んだ。


「誰があんな露出魔人よーーー!?」

 叫ぶなり、どさくさに覆いかぶさってきた娘に上半身をがっちりと固められ、息が詰まる。しかし、そんな状態にもかかわらず、なぜかセラはかすかな安堵が胸中に広がるのを感じた。

(違ったのか……)

 いま娘が見せた、いつもの子供っぽい表情や言葉も、確かにあの女魔人のものではありえなかったが――それを彼に確信させたのは、駄々っ子のように覆いかぶさる娘の首筋から漂ってきた、ほのかな石鹸の香りだった。――あの女が、間違ってもこんな暖かな匂いをさせているはずがない。

 しかし、憑依されているのでなければなかったで、これは由々しき事態なのではないかとセラが思うより早く、顔を上げた娘の手が、彼の頬に触れていた。

「……もう、ずっと、ふたりでいるのに……」

 今にも泣き出しそうな顔でそんなことを言いながら、空いているほうの手で、着ているクロースの肩紐をほどきだした娘を、セラはあっけにとられて眺めたが――すぐ我に返ると、押さえつけられている腕を渾身の力で抜き出し、娘の手をつかんで止めた。

「待て、」
「待たない、」

 細い手首をつかまれ、男の目には毒でしかない真っ白な肩をはだけさせたまま、頑是ない子供のように首を振る娘の瞳に、涙の粒が浮かんだ。見る間にそれは大きくなり、赤くなった目縁からあふれてまるい頬を幾筋もすべり落ちる。その頬に、月光に透ける産毛を見て、セラの胸に小さな痛みが走った。

「……どこで吹き込まれた、こんなこと」

 彼は低く囁いた。ほとんど怒りをこめて。
 いまや娘は嗚咽を漏らして泣き始めていた。その小さな身体から力が抜けたのを見計らって、セラは上体を起こした。しかし娘は、それでも彼の膝の上から退こうとはしなかった。


「ふ、ふきこまれてなんか、ないもん……」

 握った拳で目許をこする様子が、いかにも子供っぽい。溜め息をつき、セラは少し語調をゆるめて問うた。

「ならば、なぜこんなことをした」

 言いつつ、やや強引に手を退けさせると、真っ赤になった瞳が正面からセラを見た。

「だ、だって……セラ、なん、にも、してくれない、」
「なんだと?」
「ううっ……」

 掠れた声は、すぐにまた熱い涙にのみこまれて濁った。怪訝そうに問い返すセラの胸に顔を伏せて、娘は消え入りそうな声音で、言った。

「セラは、あ、あたしのこと、すきじゃ、ない、の?」
「――!」

 服地を通してなお熱く湿った吐息が膚を灼く。音もなくはたりはたりと落ちる大きな雫は、彼の黒いシャツに染みをつくるたびに、心臓まで貫くかのような疼痛を生んだ。

「それは――」
「すきじゃ、ない、から……、セラ、さわって、くれないの?」


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