それきりなにも、なかったもので


失恋をした。ずっと付き合っていた人に裏切られていた。それに気付かなかった私もバカなんだな、とやさぐれた気持ちでいた。
けど私よりも酷い顔をした男がいた。同じクラスだけど喋ったことはあまりない。ただその銀髪が、面倒くさそうに授業を聞く窓側でキラキラ光っていたのだけは覚えている。ああ、この人は髪色と同じで人生キラキラハッピーなんだろうか、なんて少しだけ思うことがあったことも思い出した。今の今まで忘れていたのだけど。そのくらいの存在だった。
黒田雪成という男は。
私は真っ赤な傘を差して雨を凌いでいたのに、黒田はその全身で雨を受けていた。幸せそうだと思った銀髪も今日は淀んでいる。
別に優しさじゃない。お節介でもない。ただなんとなく私は真っ赤な傘を頭上に差し出した。その赤を見上げた黒田の髪からは今まで染み込んだ水分が顔面を流れていく。それから首を戻して、前髪の隙間から半開きのような深い紺の瞳がじろりと私を捕らえた。

それからは衝動だったのだろう。傘を持つ腕ごと引かれ見知った寮まで連れてこられた。ノコノコ何ついてきてるんだって思うだろうけど、抵抗する気力も今の私にはなくて、もうなるようになれとでも言いたかった。
黒田の服がズブ濡れだとか、男子寮に女子を連れ込むなとかそんなことすら気にならないほど、もつれ合って絡み合ってベッドへと落ちた。
黒田は私に何があったかなんて訊いてこない。私も黒田に何があったかなんて気にならない。ただ今はここにいる確かな黒田雪成の熱だけが欲しかった。

先に目が覚めたのは私の方だった。隣には今日初めて見た制服の奥の黒田の身体が転がっている。あれだけ濡れていた黒田の髪はパサパサに乾いていた。眉間に眉が少しだけ寄っていたが、雨に打たれていたときよりは穏やかに眠っていた。
起こさないようにそっと身体をベッドから出すと腰がズキンと痛んだ。どれだけしたのか記憶にはない。ただ黒田に求められるまま全てを受け入れたんだと思う。ベッド下に散らばった私と黒田の服。そこから私の服だけを拾い上げて着込むと、真っ赤な傘を手に静かに部屋を出た。



それからただのクラスメイトとしてだけの認識だった黒田とは、時折目だけは合うことが多くなった。ただ私と目が合うとなんだか気まずそうに眉を寄せ、目を細めてからぐりんと窓の方を向く。
もしかして、あの日のことに罪悪感があるとか……かな?

「…ねぇ黒田」

「あ?…っ、はァ!?苗字!?んだよ、いきなり声かけんな!」

声で誰だかわかる、なんて間柄でもないからか黒田は椅子からひっくり返りそうになりながら立て直した。
そしてわかった。声をかけたのが私だと認識すると、そこからは私の方を見ることもしない。

「あの日のこと、後悔してるの?」

「…別にしてねーよ」

「あのこと忘れてもいいからさ、それやめてくれない?」

「…んだよそれって」

「気まずそうにするの。普通にしてよ」

「オレは至って普通だよ!」

黒田は机に立てた手の甲に顎を乗せてぷいっと窓の方を向いた。それに合わせてさらりと揺れる銀髪のせいで顔が見えなくなった。
結局黒田とはあの日のことを話すこともなく、ただのクラスメイトとして卒業した。どこの大学に行ったかとかすら知らないまま。




それから5年。
進学した大学すらも卒業し、めでたく社会人となった。仕事帰りにマンションの郵便受けを漁り、ピザ屋の広告やお寿司の出前のチラシを適当に手にしてエレベーターに乗り自分の部屋へ入った。
どうせ全部ゴミだろうと思いながらも、手にしていたものを一応確認する。その中にあった私宛の白い封筒は箱根学園の同窓会の案内だった。それ以外のものをゴミ箱に放ると、日時や場所、ご丁寧に小さな地図まで示された厚めの紙をぼーっと眺める。
別に会いたい人もいないしな……と頬杖をつきながら出席・欠席の選択に丸をつけようとしたときだ。
黒田雪成。
なぜかその名前が胸の奥にすとんと落ちてきた。
私は正直黒田雪成なんて名前を忘れかけていた。顔すらもぼんやりとして思い出せない。卒業アルバムを開けば思い出すんだろうけど、想い人でもなんでもないはずの黒田のことを今更見る気にもならなかった。
ただもしかしたらあのときのことを話せるんじゃないかと。今だから話せることもあるんじゃないかと。所詮過去のことだ、話してもどうこうなるわけではないが、私は黒田が来るかもわからない同窓会に丸をつけていた。


▼▼▼

大きな会場1つを貸し切っての立食パーティー型同窓会。重たい扉を開けて入るとすでに多くの元箱根学園の生徒がいた。みんなそれぞれ正装をし、あの頃とは別人みたいだ。そのくらいの時が経っているんだな、と卒業してからあっという間に過ぎていった5年間を思う。
丸テーブルが等間隔で並び、白いクロスがかけられている。会場の両端に飲み物と食べ物のカウンターがあって自由に取っていいらしい。私は飲み物のカウンターへ行き、シャンパングラスを手に取って口をつけた。
この会場が見渡せるようにそのまま端に寄る。私の目はこの会場に入ってからずっと忙しなく動いていた。
そして見つけた。あの頃と変わらない銀髪を。5年経って見る黒田は少し背が高くなったかな。背中も肩幅も広くなったみたい。相変わらず泉田と葦木場と仲が良いんだね。
目線だけ黒田に向けてチビチビとグラスを傾ける。当の黒田は何か喋りながら泉田、葦木場、と左右に目線を送っていた。
別に私の視線になんか気付かなくてもいい。なんて嘘かもしれない。どうしてこんなに気になるんだろう。まるであのときの恋心が再熱したような感覚。だけど私はあの頃、黒田に恋心なんて持っていなかったはずだ。やっぱりただあの一度だけの気の迷いのような出来事の話がしたいだけなのかもしれない。
シャンパンが半分以上なくなって、ピンク色のグロスがついたグラスに、何度目かの口をつけたときだった。
パチッと音が鳴りそうなくらいにはあの半目と目が合った。黒田は数秒間ぽかんとしたあと、眉を寄せて歪ませた。
私と関わりたくない、そう言われてるみたいだった。別にそれならそれでいいやって思ったのに、黒田の目配せとグラスを持ったままの手がこの会場の出口を示す方向に傾いていたから、その意味がわかってしまった。
泉田と葦木場に一言何か言った黒田はグラスをテーブルに置くと、真っ直ぐそちらに向かって歩いていく。
私も近くのテーブルに飲みかけのグラスを置いてその背中を追った。

「久しぶり……っつえばいいのか?」

「うん、久しぶり」

酔い覚まし、なんてほど宴会が始まってから時間も経ってなければ飲んでもいないんだけど、私は黒田と外にいた。まだ夏を感じさせる生温い風が街灯の真下にいる黒田の銀髪に光を当てながらなびいた。

「こんなとこじゃなんだし、飲み直さねぇ?」

私は黒田の誘いに乗った。
連れられてきたのは雰囲気のあるBARだった。てっきり居酒屋チェーン店に連れられると思っていた私は面食らった。黒田もこんなとこ知ってるんだ、なんて失礼ながら思う。
カウンターに横並びに座ると、黒田は首を伸ばしながらきっちり結んでいたネクタイを緩めた。
黒田の前には鮮やかな青のカクテルが、私の方にはオレンジ色のカクテルが差し出される。

「こんないいお店よく知ってたね」

「箱学んときの先輩に教えてもらったんだよ」

「……新開先輩?」

「…なんでわかんだよ」

「あの人こういうこと似合いそう。ついでに女の人口説いてそう」

「女の勘っつーのは恐ろしいな。新開さんはこっち帰ってきたとき、好きな女と来るんだってよ」

話がそこで途切れると、同じタイミングで目の前のカクテルグラスを指で摘んだ。
オレンジ色がゆらっと揺れる。口をつけると甘酸っぱさとアルコールが混ざっていた。
本当は話が途切れたんじゃなくて、黒田の言葉を勝手に深読みしそうだったから口を噤んだ。好きな人と来るのは新開先輩の話であって、黒田のことではない。
シンとした空気の中でジャズみたいな曲が大きく聞こえる。俯いて下から黒田を盗み見ると、目の前の青のカクテルが黒田の目に反射して深い紺色が少し明るく見えた。

「………なあ苗字、あんときの話……すっけどさ」

「あ……うん」

「なんでオレに黙って抱かれた?彼氏いたんじゃねぇの?」

「あーうん、そうなんだけどね。浮気、されてたんだよね」

黒田に彼氏がいることを宣言したわけでもないのに、どうして私に彼氏がいたことを知っているのかわからなかったが、色恋に目ざとい年頃なのできっとどこからかそういう情報が漏れ出したんだろう。
私も黒田もお互いの方を見ないで、まっすぐお酒のボトルが並ぶ正面の棚を見ていた。

「それがわかったのがちょうど黒田と会ったあの日だった」

「……おまえの彼氏、そんなクズ野郎だったのかよ」

「あはは…はっきり言うね。清々しいけどさ」

「はっ、バッカみてぇ……」

「なにさ、彼氏の浮気にも気付かないバカで悪かったね」

そうじゃねーよって言った黒田は、いきなりカウンターに頭を突っ伏して髪を掻きむしった。それで気が済んだのかその手を止めると首だけ動かして下から私を見上げてくる。

「…く、黒田はどうして私と…?」

「………苗字だったから」

「私だった……から?………あ、チョロそうだとか思ったの?」

「…おまえ男に裏切られたからってひねくれすぎだろ」

黒田が呆れるような長いため息を吐くと怠そうにゆっくりと身体を起こす。昔よりも少し鋭くなった目にじっと見られて、思わず太腿に置いた手でスカートをぎゅっと握る。なんとなく、あのときと……あの日私を抱いているときに見せた目とそっくりだったからだ。何か獲物を見つけたような、こっちが逃げられないくらいの重たい圧力。

「ったく、せっかくおまえのこと諦めてやったっつーのに…クズ男に捕まってたとかどこの昼ドラもどきだよ」

「……え?」

黒田の言った言葉が理解できない。思考が追い付かない。
私のことを諦めた?私の何を諦めたのこの人は。
答えを知ってるかのように動く心臓に知らない振りをする。

「く、黒田こそ何言ってんのー!もしかして酔った?あ、新開先輩みたいに口説くための練習とかぁ?それなら私じゃなくて、」

「酔ってねーし。つかそーだっつったら苗字どうすんの?それが練習じゃねぇっつったらどうすんだよ」

「れ、練習じゃないって……」

もうわけがわからない。わからないままスカートをしわくちゃになるほど握り締めていた手首をあっさり黒田に取られて引かれる。

「苗字…このままオレと来るか、帰るか……選べよ」




End



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