野獣と接吻
「うわー…ダメだ!もうできない!助けて!」
「るっせェぞ!コッチまでダメになるわボケナス!」
「フッ」
私はノートパソコンを抱きかかえるようにテーブルの上に上半身を投げ出し、その前にいた黒髪の男も同じく自分のノートパソコンを前に頭をガリガリと掻き、坊主の眼鏡男は私たちのそんな様子を見ながら余裕そうな笑みを浮かべて1人難しそうな本を読んでいた。
これはまだ暖房を効かせながら、1月下旬に迫ったテストやレポート提出期限前のお話。
洋南大学自転車競技部のマネージャーである私は、学部は違うが同じ講義を取っている荒北と金城くんと私で荒北の部屋に来ていた。
荒北の部屋は綺麗とは言えないけどもっと汚いかと思ってた。
まぁでも本人はきっと私たちが来る前に片付けてたんだろう。
クローゼットからはちょっと挟まって飛び出た洋服の袖部分が見えるし、本棚には乱雑に突っ込んだであろう雑誌の表紙が折れていた。
「なァ金城、走りに行かねェ?息抜きに」
ぐっと伸びをした荒北が言った。
「あっずるいよ2人でなんて!そんなことしたら荒北の部屋漁ってやる!エッチなものとか見つけちゃうんだからね」
「ねェよ!」
「オレは構わないがもう暗いぞ?それに提出期限は明日なんだ、終わるのか?」
荒北は金城くんの言葉にチッと舌打ちをして渋々パソコンに向き直った。
まだ夕方、という時刻なのに季節柄、すでに外は暗くなっていてこの部屋にも電気がつけられていた。
夕飯時になり、レポートもそろそろ終わりそうという頃だった。
ぶつん。
「え?」
「あ?」
「……停電、か?」
天井の電気は切れ、辺りが真っ暗になる。ヒュウゥと変な息を吐いたような音がして暖房が止まる。
「この辺り一帯停電しているな。しかも雪が降っている」
窓側に近かった金城くんが、何かに登ってカーテンを開けたらしい。
唯一この真っ暗の中に入ってくるのは、景色とは真逆の真っ白なもの。
確かに雪が降るかもなんて、朝のニュースの天気予報で言ってたような気がするが、あまりその天気予報を信用してなかった。
「荒北、懐中電灯とかないの?」
「ねェな。んなもん買わねェよ」
「ロウソクとかは?」
「ハァ?もっとねェだろ」
真っ暗で何も見えないが荒北がいるであろう、テーブルを挟んだ前に声をかけるとちゃんと返ってきてほっとした。
すると窓の方から小さいながらも鋭い光が見える。
金城くんだ。荒北のベッドの上でスマホのライトを起動させていた。
「おお、その手があったね。さすが金城くん」
私も自分のスマホのライトをつけると、荒北も同じくライトをつけたスマホをテーブルに置いた。
細々とした光で照らす範囲は小さいが、ないよりはマシ。
「雪での停電だと復旧には時間がかかるかもな」
金城くんが不安になるようなことを言うが、たぶん正論だ。
「私明かりになるもの買ってくるよ。ちょっと遠いけど向こうの方は電気ついてるっぽい」
鞄を手探りで掴んで両膝を立てると、いつの間にか目の前にいた金城くんが私の両肩を押してきて再びその場に座ることになった。
「オレが行く」
「えっじゃあ私も一緒に…」
「この天気ではぐれたら大変だろう。…何、心配ない。何かあったら連絡する」
金城くんはライトのついたスマホを私にかざした。
「でも……」
「バァカ。女にこんな天気の中行かせられるわけねェだろ。めんどくせーけどオレが行ってやンよ」
「いや、荒北は名前といてやってくれ。1人じゃ心細いだろ」
私からは暗がりで見えなかったけど、ぽんぽんと服の擦れるような音がした。
「荒北、傘を借りるぞ。何か食べる物も適当に買ってくる」
金城くんは自分のスマホのライトを頼りに玄関へ向かうと、おそらく靴を履く音がした。
「金城くんありがとう。気を付けてね。何かあったら連絡して?」
私が玄関の方に向かって言うと、ああ、と金城くんの低い声が返ってきたあとガチャンとドアの閉まる音がした。
「チッ、余計な気ィまわしやがって」
なんのことを言ってるのかわからなかったが、荒北がそう呟いた。
「…金城くん、大丈夫かな…?」
私は縮こまるようにして立てた膝を抱え、そこに顔を埋めた。
「心配しすぎだろ。なんかあったら連絡するっつってたんだしなァ」
「うん…そうだよね…」
私は少し顔を上げてテーブルに置かれた2つのスマホを見ると、その奥の荒北が私を見ていた。
「あら…きた?」
そう呼びかけると荒北は片膝を立ててそこにだらりと腕を乗せ、そっぽを向いた。
こんな状況で1人じゃなくてよかったと思う。今ばかりは恨めしいレポートに感謝した。
荒北と喋ることも特になかったけど、いないよりは全然いい。
無音が続く中、身体がぶるっと震えた。
そっか、電気止まったから暖房も止まったんだっけ。
暖かかった部屋がどんどん冷やされていくのを感じた。
ゴソゴソと鞄の近くにあったコートを探って羽織る。…が、それでも寒いものは寒い。手で両腕を擦るようにすると、普段ならなんともない服が擦れる音が無音の中に響いた。
金城くんはこんな中外にいるんだ、私なんてマシだと思いながら止まらない身体の震えを押さえつけるように両手を動かす。
「……寒ィのか?」
少し低めのハスキーボイスが聞こえたと思うと、そっぽを向いていたはずの荒北が再び私を見ていた。
荒北の姿がさっきよりもはっきり見えて、目がこの暗闇に慣れてきたことがわかった。
「…え?あ、うん…まあ…。でもだいじょ、」
私が言い終わる前に荒北はすっと立ち上がった。
荒北を目で追うとベッドから布団を引きずり、ばふっという音と共に私の頭からそれを被せた。
「わっ」
私の視界は停電直後のように真っ暗になる。モゾモゾと布団から顔を出すと荒北が私を見下ろしていた。
「被ってろ。なんもねェよりはマシだろ」
「あ、ありがと」
布団をぎゅっと握りしめると、当たり前だけど自分の布団とは違う匂いがした。
それはきっと荒北の匂いで。
そう思ったら途端に恥ずかしくなってきた。全身からする荒北の匂い。
ドキドキと鳴る心臓がうるさい。
懸命に鎮めようとさらに布団を強い力で握りしめると、匂いが強くなって逆効果だとわかり力を緩めた。
真っ暗の中荒北と2人で荒北の布団を被って、そうだ、吊り橋効果だ。
頭の中でそう説得させると、段々落ち着いてきた。
なのに、荒北は私の横にどさっと座る。
布団を被せるまでテーブルを挟んで前に座っていた荒北が私の横に座ってきたのだ。
せっかく落ち着きを取り戻した心臓が再び動き出す。
「あ、でも金城くんの言う通り、レポートのデータこまめに保存しておいてよかったよねー!」
「というか停電だったんだからレポートの提出期限延ばしてくれないのかな?」
私が懸命に話しているのに、荒北はオゥとかそうだなとか相槌みたいな返事ばかりだった。
もう、こっちがこんなにいろいろ喋ってるのに…なんでこういうときに限って大人しいのよ。
荒北の様子を伺うように少しだけ首を動かす。
……あれ、荒北…寒くないかな?
私布団取っちゃって。この気温じゃ寒くないわけないよね。
でも…あーっ。こういうときは助け合いだよね。ていうか元々は荒北のだし。
荒北は大丈夫。変なことしたりしない。私と荒北はそんなんじゃないんだから。
「あ、あーの…荒北?」
荒北の黒目が私の方を向いた。
それがわかるくらいには荒北が近くにいる。
「荒北も…入る?」
私は荒北のいる右側の布団を掴んで広げた。
荒北の三白眼が大きく開く。
「あっ、いや、ほら荒北も寒いでしょ?私ばっかり荒北の布団取ってちゃ悪いしマネージャーが選手に風邪引かせるとかどうかなって思うしそれにっ」
「名前」
荒北の呼びかけにベラベラと動いていた口が止まる。正直自分が何を言ったかもわかってないくらい。
「意味わかって言ってんのォ?」
荒北が床に手をついて体重を前に乗せ、さらに私との距離を縮めてきた。
意味……?意味って何?
ただ荒北も寒いだろうなって、悪いなって思って……。
なのにあまりにも荒北が真剣な目をして真っ直ぐ私を見てくるもんだから、言い訳がましい言葉を考えていたのに、いざとなったら何も言えなかった。
「……っ、わかっ、てる」
わかってるって何?何もわかってないよ。なんでそんなこと言った、私。
あ、待って、荒北が…。
自分に突っ込んでる間に、荒北が私のくるまっている布団に入ってきた。
荒北の筋肉質の二の腕が私の腕に触れた。
身体を動かしたら肩や腕以外も触れてしまいそうな距離。
止まらない心臓。
荒北のことなんか意識したことあった?
ないよ………。なんなの、これ………。
荒北の手がゴソゴソと動き出して無意識に肩がビクついた。
けど荒北の方を向いてはいけない気がしてテーブルで光るスマホのライトを見つめた。
その瞬間、床に置いていた冷たい私の手の甲に、私よりちょっとだけ温かいものが乗った。
それは手の甲から指の間を通り、上からぎゅっと握られる。
「あ、あらっ……きた?」
それが荒北の手だっていうのはすぐわかった。それ以外考えられない。
細めだけど長くて少しゴツゴツした指が私の指の間で掌に向かって曲げられている。
「あ?意味わかるっつったのはオメェだろ」
「えっあ、いや…ごめん、やっぱりわかんない…」
「ハァ!?」
耳元で大きな声がして思わず目を瞑った。それでも私の手を離そうとはしなくて、反対の手で頭をガシガシ掻いている。
「ったく、ここまでしたらわかんだろォ」
荒北は大きなため息混じりに言った。
もしかして、もしかしてなんて予感が頭から離れない。
「……名前が好きだ、っつーことだろーがァ」
その言葉を聞いたとき、今日1番の悲鳴を上げた心臓。
好き……?荒北、が?私を?
私、は?荒北のこの手を振りほどく?
恥ずかしいけど嫌じゃないって思ってる。この手も、この距離感も。
そう思ったら私は掌を上にして、荒北の指の間に自分のを通すと荒北の掌と合わさった。
荒北がどんな顔して言ったのかわからないけど、私の手を握る荒北の手に少し力が入ったのはわかった。
「ハッ、もう遠慮しねェ」
荒北が嬉しそうに口角を上げていた。
私の頬にもう片方の手が触れる。何をされるのかくらいわかった。
でも嫌じゃないって思うくらいには荒北のことを好きになってるみたいだ。
細い目をさらに細めたいつもより和らいだ荒北の顔が近付いてきて、初めて見る表情に吸い込まれるように目を閉じた。
バカみたいに強くしてくるのかと思ったら、薄い唇が優しく触れた。
それが一度離れると今度は少し強引なキス、そのあとは噛み付くようなキス。
けどどれも荒北の感情がこもったものだった。
▼▼▼
目を開けたら朝だった。
カーテンを開けっ放しにした窓からは光が差し込んでいる。
外は雪が積もってるんだろうかとか金城くんのことが頭を巡る。
「はよォ」
寝ぼけた視界を遮ってきたのは荒北だ。
その瞬間昨日のことがフラッシュバックしてきてきて熱が集まった。
「あ、あらっ」
しかも私、荒北の肩に頭を乗せて寝ていたらしい。急いで頭を上げると、荒北が肩を回すように動かした。
「ごめん!重かったよね」
「あーあー重てェよ」
口ではそう言うのに、荒北の手は私の髪を梳くように頭に乗った。
昨日のこと、嘘じゃないんだ。
私の右手は荒北の左手とずっと繋がれたまま今に至る。
テーブルにはコンビニの袋。
金城くんだ。
けど金城くんはこの部屋にいなかった。帰ったのかもしれない。
というか金城くんに荒北とくっついて寝てるところを見られたのかと思うと恥ずかしい。
「なァ昨日のもっかいしよーぜェ?」
私の頭に乗った荒北の手に力が入って荒北の方に引き寄せられる。
私はそれに逆らわずキスをした。
唇が合わさる前に荒北から「よろしくなァ、カノジョサン」と寝起きの低い声がした。
End