気付かないフリはもう終わり
箱根学園を卒業するときがきた。
それは新たな始まりの意味を示しているのだが、少しの楽しみと大半の憂鬱。
私の進学先は関西の大学で彼は静岡の大学。
毎日面と向かって喋っていた日々がいきなり逆転する生活が始まろうとしている。
所謂、遠距離恋愛というやつだ。
本当は彼と同じ道を選ぼうとした。
その大学に学びたい学部がないと知っていても無理矢理学びたいと思う学部を作ってついていくつもりだった。
そのくらい離れたくないという気持ちがあった。
でも人一倍勘が鋭い彼にあっさり見破られ、眉を吊り上げながらボケナスと怒られたことがある。
そして靖友くんと過ごす最後の夜が訪れた。
「ねぇ靖友くん。私と離れるの寂しい?」
「……ハァ?バッカじゃねぇの?今生の別れでもねェのに」
私なんかに目もくれず、手に持っていた雑誌に目を通している。
寂しい、なんて言葉を靖友くんからそう簡単に出てこないことはわかっていたが、そういう態度すら一切見られなかった。
ただその日、私を抱く靖友くんは自分を私に刻み込むようだった。
靖友くんにちゃんと愛されているという満足感が得られた。
▼▼▼
大学に通い始めてお互い別々の全く知らない土地で、全く違う生活をしていた。
靖友くんは部活が忙しいのかあまり連絡はくれない。
元々マメにくれるタイプじゃなかったけど。
電話越しも眠そうで、メッセージも途中で寝落ちしているときも少なくはない。
あのときの満足感はもうとっくに空っぽになっていた。
「会いたい」なんて、言えなくて。
言ってもすぐに叶わないことは言いたくなくて。
口に出したら取り返しのつかないほど靖友くんを求めてしまいそうで。
正直電話の奥の声ですら辛いものでしかなくなっていた。
だからやめた。
そしたら靖友くんからも電話をすることはなくなって、文字だけの会話がちょっとあるだけの関係になっていた。
寂しくない、大丈夫、靖友くんを困らせたくない、ワガママ言って嫌われたくない。
そうやって自分を偽ることに成功し始めた。
それから勝手に会いに行こうと決めたのは半年後。
靖友くんが会いに来てくれる嬉しいイベントなんかなくて、寂しいと思ってるのは私だけなんだと実感させられた。
数時間かけて静岡まで来て、スマホをフル活用して大学まで辿り着く。
中は広くて、もちろん知ってる人なんて誰もいなくて挙動不審ながら歩いていた。
そこで見つけた靖友くんと同じような自転車を引いて室内に入っていく、赤いサングラスをかけた人をこっそりつけてみる。
靖友くんを探す唯一の手がかりが自転車だと思ったからだ。
私があとをつけた人が足を止めたので、私もその少し後ろで隠れて足を止める。
その10メートルくらい先いたのは間違いなく靖友くんで、嬉しさのあまり目を見開いた。
靖友くんは猫背気味の背中を壁に預けて立っていた。
「っ、靖友く、」
「靖友」
私の声を掻き消す甘く綺麗な声。
その声が靖友と紡いだ。
私がずっと呼びたかった名前だ。
「靖友…やっぱり私、靖友が好き。どうしてもダメ?そんなにその子が大事なの?ずっと会ってないんでしょう?私は靖友といられるなら都合のいい女だっていい」
隠れた壁から身を捩ると、サングラスの人と被って女の人が見えた。
そしてその前の壁に寄りかかる靖友くん。
靖友くんはぐしゃりと前髪を掴んでため息をついた。
「あのさァ…」
嫌だ。
そんな声で靖友なんて呼ばないで。
気安く靖友なんて呼ばないで。
靖友くんの彼女は私なの。
嫌だ。
靖友くんに近づかないで。
私の中に渦巻く嫉妬が爆発した。
「やめて!」
気付いたら壁から飛び出していた。
靖友くんも女の人も私がつけてきた人も一斉に私を見る。
「ッ、ハァ!?なんっテメッ」
靖友くんが三白眼を大きく見開いている。
サプライズ成功だ。
でもそれよりも嫌悪感の方が強くて、さっき思ったことを全部そこでぶちまけた。
しまったと思って両手を口に当てるが、それは全て吐き出したあとだった。
物分かりのいい彼女でいたかったのに。
そう思ったら踵を返して走り去るしかなかった。
「アイツ!!」
「待って、靖友」
「離せボケナス!!」
「返事聞かせてよ」
「ア゛ァ!?オレァアイツさえいりゃそれでいいんだヨ!てめーの相手なんかするか、ボケナスが!!」
▼▼▼
最悪だ。
やってしまった。
とぼとぼと大学の正門を出る。
もう一度振り返って校舎を見つめ、洋南大学をあとにした。
帰ろう。
そう駅に向かった。
最寄りの駅が見えてきたときだ。
「オィ!」という声と共に肩を引かれ、自転車のブレーキ音が聞こえた。
「…や、すともくん」
靖友くんは息を切らしながらじっと私を見ていた。
さっきの光景がフラッシュバックしてきて、涙が頬を伝う。
「こンのバァカチャン」
靖友くんはそう言って、自転車に跨ったまま私を抱きしめる。
空っぽになっていた心が少しだけ埋まっていく。
「ずっと会いたかった、靖友くん」
「ワリ」
靖友くんは抱きしめながら私の頭を乱雑に掻き回したあと、ポンポンと優しく手を置いた。
「あの…さっきの女の人は?」
「あーアレ。ウザってェから突き放してきた」
酷っ、と思ったけど靖友くんがあの人を置いて追いかけてくれて嬉しいと思う私の方が酷いのかもしれない。
「もー帰んのかヨ。明日土曜日だろ。…オレんち来ねェ?」
靖友くんも口には直接出さないけど、私がいないと寂しいとか思ってくれるんだろうか。
家に誘ってくれるってことは、私ともっと一緒にいたいって思ってくれるんだろうか。
「やっぱさァ、名前がいねェと物足りねーんだわ」
靖友くんが唇を耳に寄せて呟いた。
それは私と同じ気持ちだったって不器用なりに伝えてくれていた。
私は靖友くんの背中にぎゅっと腕をまわす。
それから土日、私は靖友くんと過ごした。
部活もあったけど、終わったら自転車を飛ばして帰って来てくれて一緒にごはん食べたり同じベッドで眠ったり、幸せな2日間でまた満足感が得られた。
けど、それも終わり。
また関西に戻らなければならない。
もっと一緒にいたい。
「コラ、なんて顔してんだよ。ブサイクになんぞ、名前」
靖友くんが駅まで見送りに来てくれて、嬉しい反面また離れなければならない事実に寂しかった。
それがバレたんだろう、靖友くんに額を小突かれた。
電車のアナウンスが鳴る。
靖友くんが視線を逸らしながら「アー」と唸った。
「今度はオレがソッチ行くからァ。イイ子チャンで待ってろ」
少し恥ずかしそうに染まった頬を掻きながら言った。
そのすぐあと、電車がホームに入ってくる。
「…じゃあね」
繋いでいた手がするすると解かれていく。
指先が離れた瞬間、私は全開になった電車のドアを潜った。
そのドアが無情にも閉まり、私はその鉄を隔てて靖友くんを見ていた。
靖友くんもまた、私を見ている。
発車する瞬間、靖友くんの口が何か動いたと思うと歯茎を剥き出しにして少しだけ無邪気に笑ってくれた。
『好きだバァカ』
そう言われた気がした。
ううん、靖友くんはそう言った。
「私も…好きだよ」
私が電車のドアにしがみつきながら言ったその言葉は、既に発車したあとできっと靖友くんには届いてない。
けれど、また伝えられる。
また会えるから。
私は靖友くんが来るのを待ちながら、再び大学へ通うのだ。
End