恋心を溜めて
やっば!遅刻だ!
被るように制服を着て、適当に結んだ胸元の緑色の紐は歪んだリボンの形。
一目散に階段を駆け下り、ローファーに脚を突っ込んでつま先をトントンと玄関で叩く。
「名前朝ご飯はー?」とリビングからお母さんの声がしたけどご飯を食べてる余裕なんて毛頭なくて、いらないの一言で家を飛び出した。
外は涼しくも晴れているのに独特な雨上がりの匂いがした。そういえば夜中に窓を叩きつけるような強い雨が降っていた。明け方には止んだようだけど、まだ雨の形跡が強く残っている。雨水を吸ったような色のコンクリートを蹴りだして学校へと急いだ。
古い道路が続くためか、水たまりが多くて時折それを避けながら走る。少しばかりの時間のロス。
学校が見えてきたところでまた目の前に結構大きな水たまり。それを回避しようと脚を踏み出したときだった。
ビシャッとぬるま湯くらいの水が飛んできて制服を濡らした。台風が過ぎ去ったんじゃないかと思うくらい鋭い風と水しぶき。何これ。今日の私の運勢は最悪なんじゃない?と、寝過ごして見ることの出来なかった朝のニュース番組の終わりにやっている占いコーナーを思い出した。スカートから下を重点的に、上下制服が濡れている。靴下なんて一瞬でぐっしょりだ。靴の中が気持ち悪いし水分を吸った制服はやけに重たい。思ったよりもずっと深い水たまりだったってことか。
そこを車でも走ってきたのかと思ったらキュッと聞こえるブレーキ音。それは朝露に照らされた真っ白な自転車だった。その持ち主が降りて自転車を引きながら私の方へ向かってくる。
「あーすみませーん」
手を後頭部に当てながら悪びれもない笑顔で近付いてくるのは、今日の私みたいに平気で遅刻をするような人物だった。違うのは私は今日たまたま遅刻しそうなだけで、この人は常習犯だということ。
「…あれ?名前ちゃん…?」
「……真波くん」
「名前ちゃんも遅刻?」
「あはは…まあ……」
おそろいだね、なんて笑う真波くんのズボンも膝近くまで紺色が濃くなっていた。水たまりを通ったときに同じく跳ねたんだろう。身体や制服を拭くために、一応タオルハンカチは持ってるはずだからと鞄の中に手を入れる。でもいつも小さなポケットに入れてるはずのものがどれだけ探っても見当たらない。
あ……そういえば今日は急いでて入れた記憶がない。しょうがない、そのうち乾くだろうと諦めて学校に向かうと真波くんも自転車を引いて私の横の車道側を歩く。目的の場所が同じだから特に気にならなかった。
「ごめんねー。あ、そうだ、部室ならタオルあるから寄っていきなよ」
「部室って自転車部の?」
「うん、そのままじゃ風邪引いちゃうでしょ?」
「でもそんな時間ないよ、遅刻しちゃう」
「えーでもほら、」
真波くんがそう言った瞬間、形は見えている学校からチャイムがやまびこのように響くのが聞こえた。「もう遅いよ」と笑顔で言う真波くんの言葉に被って。
鐘の音が静かになるまで、校舎を眺めていると真波くんも同じ方向を向いていた。風が真波くんの頬を撫でるように通り、陽の光が青い髪を照らすと、所々光の加減なのか金色に見えた。それがとてもキラキラしていて雨上がりの空気にとても似合っていた。「ん?」と視線に気付いた笑顔が私に向けられる。でもなんて言ったらいいかわからなくて、むしろ見てただけで何も言うことなんてなくて、ただ首を横に振った。
再び吹いてきた風に乗った木々が揺れ、私の頭に最後の1滴と追い討ちをかけて葉についていた雫がぽたっと落ちてくる。
「ひゃっ!?冷たっ」
「部室行こうか」
「あ……うん。じゃあお邪魔します」
学校までのわずかな距離を、自転車を引く真波くんと歩く。すぐそこが学校のはずなのに長い長い距離に感じた。
真波くんとは特別親しいわけじゃない、少なくとも私はそう思ってる。だから弾む会話なんてできないし、ただただ横を同じペースで歩くだけ。それに合わせてゆっくりと進む自転車のタイヤのカラカラ回る音が、静かな箱根道を色付けていた。
学校に着くと真っ直ぐ自転車競技部の部室へ向かう。自転車を立てかけた真波くんが部室の中に招き入れてくれた。当然だがここに入ったのは初めてで、少しの汗の匂いとオイルの匂い、それから鉄っぽい匂いがした。部員数の多い部活なだけあって、広いそこはなんだかキョロキョロしてしまう。たくさんのロッカーが連なっていて、端の方には部活で使う自転車の部品のようなものが置いてある。棚の上には何かの缶なども並んでいた。
適当に座っててと言う真波くんの言葉に甘えて、ロッカーの前にある長椅子の1番端に座る。まだ涼しいこの気候に濡れた身体。さすがにぶるりと寒気による鳥肌が立ってくる。しっかりとした制服の生地は、吸った水分がなかなか乾かない。肌にべったりとつく感触も気持ち悪いし、いっそジャージに着替えて授業を受けようか。と、思ったのに今日に限って体育はないし持ってないんだった。
「はいこれ、タオル使って」
「あ、ありがとう真波く、っくしゅ!」
真波くんが差し出してきたタオルを受け取ろうと手を伸ばした瞬間に、とうとう冷えた身体が寒いと訴えた。ズッと鼻を啜って白いタオルを受け取る。
クチュッと水音が鳴るのと同時にすぽんと抜けたローファーを置く。それから脚にべったりと密着した靴下をずり下ろして脱ぐと、とりあえずローファーの上で乾かすように置いた。すると肩にふわっとかかる何か。そっちに目線を向けると何度も見たことのある青いチェックのもの。
「名前ちゃん寒いでしょ?被ってて」
「でもこれ濡れちゃ、」
「いいから、ね?」
濡れる前に肩から外そうと手をかけると、その上から背後で屈む真波くんの手が制服を押さえるように乗っかった。なんとなくずっしりと重い感じがするのは、男の子の手だからなのかな。自分の肩から伸びる指は思ったよりもゴツゴツとしていた。それから至近距離で重なり合う瞳。真波くんが肩口から私を見ていた。いつも柔らかなニコニコした瞳が、鋭く私を捕らえている。ドクッと胸の奥が熱いもので突っつかれた感覚。
何……これ………?
「オレのせいだからさー、気にしないでよ」
「……あ、うん…じゃあ…ありがとう」
さっきの一瞬の顔はすっかり消えて、いつもの笑顔で手を後頭部にまわしている。
今のは気のせいか……なんだ、そうだよね。
いつもの顔にほっとする。
ありがたく真波くんのジャケットを乗せたまま前屈みになって脚を拭く。やたら吸水性がいいタオルなのか、一瞬で水分はなくなった。見えない機能に感心してスカートにタオルを押し付けるを繰り返すと、少し軽くなったような気がした。
タオルを返すと代わりに置かれたのはまた白い何か。片手では落ちそうになって、慌てて立ち上がり両手で受け止める。
「真波くん?」
「それに着替えた方がいいよ」
腕の中を見ると、箱根学園と書かれた白いジャージ。ほんのり甘めな柔軟剤の匂いがした。
「オレの部活のジャージだけどねー」
「えっ、いや、それは悪いしいいよ!」
「言ったよね、オレのせいだって」
「いやいや、私も不注意だったっていうか…!」
寝坊したのは私だし。
あまりにも自分を責めているように見える真波くんに、さすがの私も罪悪感を覚えて擁護しようとする。なのにうまく説明できないというか……ああ!もう!このもどかしさをどう伝えればいいんだろう。頭が混乱する中、自分が何を言ってるかわからなくなるし、大袈裟なほど身振り手振りが大きくなる。真波くんはそれを楽しそうに見ているから余計にわからなくなってきた。
「っ、とにかく!そんなに謝らなくていいからっ」
そう、つまりは何が言いたいかって言うとこれだ。
「…へー……名前ちゃんって優しいねぇ」
「っ、ま…なみ……くん?」
笑顔で真波くんが一歩一歩私との距離を詰めてくる。だから自然に後ろにスライドさせながら私の脚は床を滑った。
「オレのこと許してくれるんだー?」
「真波、くん…!」
真波くんのジャケットがかかった私の背中がひんやりとした。もう脚を動かすことも出来ない。後ろに下がらない。連なる大量のロッカーという壁が邪魔をした。なのに真波くんは未だに歩みを止めない。前を向くことが出来なくて俯くと、真波くんの靴のつま先と私の裸足のつま先がくっつきそうになってようやく止まるのか見えた。このまま顔を上げたら今どんな状況かわかってるからこそ上げられない。
バクバクと訳のわからない心臓音が止まらない。速くなる。さっきまでの寒気はどこにいったのか。顔が熱い。身体も火照っているみたい。この火照りで制服が乾くんじゃないかと思うくらい。私の体温調節機能が壊れてしまったかのよう。
私はその全てから逸らすように目を瞑ってスカートを握りしめる。
視覚を失って敏感になるのは聴覚。トンと耳元から聞こえてうっすらと開けた視界の端には、真波くんの腕。ロッカーについた真波くんの腕だった。
えっ!?と顔を上げてしまえば最後、再びあの目と合った。真剣で突き刺さりそうな真っ青な瞳。
「あ……の………」
「名前ちゃんに…教えてあげるね」
「え……な、に?」
「わざとだよ」
「わ、……ざと?」
真波くんの前髪が私の前髪と触れる。頬に真波くんの髪が落ちてくる。真波くんの体温がじわりと感じる距離。
近い。近いよ。どうして、真波くん…?
そんなことするの………?
「そう、わざとなんだ。ごめんね」
それだけ言うと真波くんは身体を離した。すると一気に冷気が身体を駆け巡り、思わず真波くんのジャージをキュッ抱きしめた。甘めだけどさっき香ってきた柔軟剤の匂いとは明らかに違うものが混ざる。
「ロードレースは道との戦いでもあるから」
「………え?」
真波くんが胸元のリボンを掴んだ。おさまりかけてた心臓が私の意に反してまた動き出す。
真波くんの言ってる意味が何ひとつわからないまま、ピッとそのリボンが引き抜かれた。それははらはらとS字を書いて地に落ちる。
「早く着替えなきゃね。オレ、外で待ってるから着替え終わったら呼んで?」
「えっ真波くん待って!」
部室から出て行こうとする真波くんの背中に声をかけるとニッコリと振り返った。
もうどっちの真波くんが本当の真波くんなのかわからない。夢を見てるみたいだよ。
でも確かにここにいるのは真波くんで。どっちの真波くんでもいいから訊かなきゃ。
「どういう…意味?」
「あーさっきの?うんとねー、自転車乗りはコース取りっていうのをするんだけど、それは荒れた道とか道路まで生えてる草木を避けるものなんだよ。もちろん、水たまりも……ね」
じゃあ真波くんはあの水たまりを避けられたはずなんだ。それをわざとするってことは、そこにはどんな意味を持ってるの?
「じゃあ、なんで?」
私の質問に、初めて真波くんが目を細めほんの少しだけ眉を下げて、困ったような顔をした。
「……名前ちゃんと2人きりになりたかった。…それだけかなぁ」
バタンと無機質な音が私1人を部室に残した。
止まらない心臓。
腕の中の真波くんのジャージ。
去り際の少し照れたような笑顔。
その場にへたりこんだ私は、どのくらいの時間が経てばこのジャージに着替えてここを出られるんだろう。
このドアの向こうにいる真波くんは、どんな顔して待ってるんだろう。
鍵のかかっていない部屋に監禁された気分。
それでもここを開けたときには、ただのクラスメイトだと思っていた真波くんとの関係が変わるような気がしていた。
End