ごぼり、と咳が出た。するとそれを聞きとがめたジャーファルさんが、無言で私に水の入った吸い飲みを渡してくる。私はこれまた無言でそれを嚥下。冷たい水が、喉を伝い落ちていく。
 調子のよくない私に代わって、今日はジャーファルさんがマスルールくんの読み書きの先生をしていた。マスルールくんがどうしてもここがいいと聞かなかったらしいので、彼らは今寝台の傍の机に向い合せに座って授業を行っている。マスルールくんはジャーファルさんに叱りつけられていやいやながらに椅子に座ったのだが、ずっと足がぶらぶらと遊んでいた。ファナリスの脚力では、ただ振るっただけでも椅子の脚がぎしぎしとたわむ。これは足癖の躾も必要だろうかなどと考えながら、私は吸い飲みからもう一口水を飲んだ。

「ジャーファルさん、ここ…」
「……こんなことも分からないのか」

 マスルールくんが恐る恐る質問を向けると、ジャーファルさんがぴしりと言う。これは随分なスパルタである。しかししっかり教えてやっている辺り、彼も鬼ではないようだ。
 しかし質問のたびに「分からないのか」「今まで何を練習していたんだ」などと罵られて、マスルールくんの顔が目に見えてむっすりとしてきている。これはあまり上手くはないだろう、と考えて、私は「あの、」と2人に呼びかけた。ほとんど同時に私を見た彼らの視線に、私はひとつ瞬く。

「…マスルールくん、今日はもうおしまいにしましょう。今日は随分進んだようですし」
「っ、あんたはまたそうやって甘やかして…!」
「いいから。マスルールくん、シンドバッドの手伝いでもしてくるといいですよ」

 ぱぁっと顔を輝かせた彼は、椅子から飛び降りてジャーファルさんにぺこりと頭を下げる。そうして部屋を駆け出ていった彼の背中を見送ってから、ジャーファルさんが私を恨めしげに見た。

「まだ時間はあったのに、勝手に…!」
「ノルマは達成していましたから、もう構わないでしょう。シンドバッドに彼の教育を任されているのは私ですから、私の好きにしてもいいはずです」

 そうでしょう?と首を傾げて見せると、ジャーファルさんは舌を鳴らしてそっぽを向いた。

「…初めから叱りつけるような教え方は、どうかと思いますよ」

 ぽつり、私が言う。ジャーファルさんは、「そんなの分かってる」といじけたように返した。

「でも、これ以外に知らないんだ。出来ない」

 そう言って唇を尖らせたジャーファルさんは、先ほどのマスルールくんのように足をぶらぶらと揺らす。案外子供らしいところもあったのだなぁと、私は少し驚いた。

「教えられたことをきちんと出来なきゃぶたれるんだ。ぶたれるならまだいい、指を落とされたり、最悪殺される。俺は、そんな教え方しか知らない」

私はただ、「そうですか」と答える事しか出来なかった。一体彼に、こんな私が何を言えというのか。彼は私を見ると、「やっぱりあんたは嫌いだ」と再度確認するように言った。知っていますよ、と私が返す。

「俺をそんな目で見るから。シンと同じ、許すみたいな目で。そのくせ、シンみたいに分かりやすく許してはくれないんだ。嫌いだ、きらい」

 私は彼を眺めていた。そばかすの散る頬を、一筋の涙が流れていくのを、ただ眺めている。拭いはしない。彼の言うように、私はシンドバッドほど人格者ではない。彼はその涙を恥じるように乱暴に拭うと、ふるふると首を振った。

「こんなんじゃない、こんなの嫌だって思うんだ。俺はあいつらを憎んでいて、なのに俺の行動の端々はどんどん奴らに似ていって、…こんなの、ちがう」

 私は彼の言葉を聞いている。彼らのように辛い思いをしてきた人間の前では、私は単なる置物に過ぎない。聞くだけ。意見はしない。そんなもの、できない。シンドバッドとの付き合いで知識は大分広がったが、所詮知識なのだ。経験ではない。私はここで、弱い体と付き合いながら生きていく。世界に触れる事など出来ずに、私はここで、ずっと。
 ジャーファルさんはぐっと唇を噛んで、椅子から立ち上がった。シンの手伝いに行って来る、と言い残して、彼は部屋を出て行った。
 私はまた静かになった部屋の中で、窓の外を眺めた。ここから見る空は、あまり好きではない。窓枠で、四角く区切られているから。


頑張りましょう




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