「シンを見なかったか」

 そう言ってジャーファルさんが私の部屋に入ってきたのは、私が昼食を摂っている時だった。私よりも一つ二つ年嵩な彼は、いつだったかシンドバッドの命を狙ってきた元暗殺者なのだと聞いている。だから私は、彼が入ってきたのが3階に位置する私の部屋の窓だったからと言って、そう無闇に驚いたりはしなかった。精々が、少し羨ましいな、と思ったくらいである。
 私が見ていません、と首を左右に振ると、彼は大きな舌打ちをひとつして、私の寝台に腰を下ろした。寝台の上のマットが少し沈んだが、一連の動作は全くの無音だった。

「…それで足りるのか?」

 ジャーファルさんはそう言って、その細い指で私の持つ昼食の器を指差す。それは、白湯の入った小さな茶器だった。私の昼食はいつも白湯が一杯、それだけである。
 彼らがこの屋敷に滞在している間、私の食事はジャーファルさんが用意してくれているのだが、彼はいつも私の食事の少なさが気になっていたのだという。

「お前は痩せてるんだから、もっと食べたらいいんだ。腰なんか、折れそうじゃないか」

 そう言って、ジャーファルさんは顔を顰めた。私はそれには答えず、ただ白湯を啜る。清浄な水に、喉がからからした。不思議な感覚だ。水分を摂っているのに、渇いている感覚。私はあまりこの感覚が好きではなかった。
 何で食べないんだ、と彼はいじけたように呟いた。

「俺の居たところじゃ、食べたくたって食べられなかった。そんなのこの世界じゃ珍しい事でもなんでもないけど、食べたくて、食べるものもなくて、皆死んでいったよ」

草の根だって木の皮だって食べたのだと、そう彼は言った。私は答えない。答えてはいけない気がしていた。私ごときが彼のような、苦しみを啜った人間に何かを言うのは、凄くお門違いな気がしたのだ。
 そのままじゃ死んじゃうじゃないか、と。消え入りそうな声でジャーファルさんは言う。私はついと視線を巡らせて彼を見た。彼はいつの間にか寝台の隅で膝を抱えて、泣きそうな目で私を見ていた。私は目を細める。

「ジャーファルさんは、優しい人なのですね」

 茶器の中の湯を飲み干して、私はそれを寝台の傍にあった棚に置いた。ことりと、軽い音がする。私は指を組んで、そっとそれを膝の上に落とした。
 胡乱げな彼の視線に、私は微笑む。

「私を死なせまいと言ってくれたのでしょう」

 私の言葉に、彼の眉根が寄った。「何を言ってるんだ」と、硬い声音が私の耳朶を叩く。

「俺はお前がずるいって言っているんだ。不公平だろ、こんなの」

 生きたいやつが死んで、生きる努力をしないお前が生きてて。おかしいだろう。そんなのはおかしい。
 そう彼は言う。私はそっと頷いた。確かにおかしい。この世界はおかしいのだ。生きているのか死んでいるのかもわからないような私がいて、こんなにいい暮らしをして、認めたくはないが、シンドバッドと言うお人好しの庇護者にも恵まれて。

「おかしいですよね、こんな世界は」

 ふっ、と。私は笑って、彼を見た。ジャーファルさんは、とても理解できない、という目で私を見ている。私はこほん、とひとつ咳をすると、疲れましたと一言言って、布団に潜り込んだ。
 ジャーファルさんはまた音もさせずに寝台から降りて、枕元に置いていた茶器を手に取る。顔に散ったそばかすの上で、冷たい目が私を見ていた。

「…俺はやっぱり、お前が嫌いだよ」

 そう言って、ジャーファルさんは部屋を出て行った。今度はきちんと、廊下に繋がる扉から。私は彼の言葉を何度か反芻して、そっと目を閉じた。



不思議ですね




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