レーム帝国の郊外、恐ろしく険しい山の上に、私の屋敷は建っている。もともとは祖父の屋敷だったのだが、祖父が亡くなると同時に、唯一の血縁にして同居者だった私に利権が譲渡された、らしかった。細々とした権利のことは、私にはよくわからない。
 場所が場所だけに、祖父の生前の友人だったとかいう冒険家の男と、たまに私に生活必需品を届けに来る怪鳥以外に訪れる者はない。私も私で、生来の虚弱さ故に山を降りることなど叶わなかったし、このまま一人で朽ち果てていくのだろうと思っている。祖父と同じように。そもそも寝台から起き上がることも難しいのだと、枕に背を預けて寝台に座っている自分を嘲笑った。
ふと、傍らで寝台を机代わりに文字を練習しているマスルールくんに視線を向けた。シンドバッドに持ってこさせた机があるのだからそれを使えばいいのに、彼はいつも頑なに床に座る。こちらの方が落ち着くらしい。私も彼が良いならと特に強制もしなかった。シンドバッドから詳しい事は聞いていないが、彼の脚に残る枷の痕の意味が分からないほど、私もものを知らない訳ではない。私には奴隷の暮らしぶりはよく分からないが、イメージとして椅子などに座ることは少なかったのだろうと予測している。
 私は彼がペンを走らせている紙の一点を指差す。間違えてはいなかったが、文法が少しおかしい。

「マスルールくん。ここはこれで良いのか、もう一度考えてみましょう」
「…ッス」

 私が言うと、彼は素直に頷いて、私の指差した部分を睨む。しばらく黙りこくって考えていたが分からなかったらしく、恐る恐る、と言った様子で私を見る。私はすいと指を動かして、その文章を最初から追っていった。

「声に出して読んでみましょう。『本を、わたしは、ここで、読みます』。少し、違和感を感じませんか?」
「……あっ」

 ぱあっと顔を輝かせたマスルールくんは、紙に齧りつくようにして文章を直した。私はそれを目で追いながら、「そうです」と頷く。

「主語…つまり、『誰が』行為を行っているのかを文の最初に持ってくるのが基本ですね。通じない訳ではありませんが、避けるのが良いでしょう。特殊な例として、主語が最初に来ない文もありますが…今は基本を覚える方が大事でしょうね」

 こくこくと頷いて私の言葉に耳を傾けるマスルールくんの頭を、そっと撫でた。見た目より柔らかなその赤い髪が、私の掌の下でふわりと弛む。それが何だか楽しくて、何度か掌を往復させる。マスルールくんが不思議そうに私を見たので、「良く出来ました」と誤魔化して手を離した。
 目を伏せたマスルールくんが、また紙に向かう。柔らかな寝台の上では書きづらいだろうに、そんな中で彼は何時間も熱心に私の指導を受けている。ふと気になって、「読み書きの練習はそんなに楽しいですか?」と尋ねてみる。マスルールくんはその言葉に反応して私を見て、首を傾げた。練習が好きなわけではないらしい。

「よくそんなに集中が続くものですね」

 そう言って、私は素直に彼を尊敬した。私であれば、そう長くはもたないだろうなと思ったのだ。興味のない事に集中できるような質ではないし、そのための体力もない。彼はファナリスだから体力は有り余っているのだろうけど、それにしても。
 私の問いに、マスルールくんはしばし沈黙したあと、静かに言った。

「……シルディアさんと一緒にいるのは、好きです」

 そうして、自分の言葉に納得したようにうんとひとつ頷く。そんなに懐かれるようなことを何かしただろうか、と私は首を傾げながら、もう一度彼の頭を撫でておいた。



練習しましょう




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