「待ちなさい、マスルールくん!」

 かつかつと、屋敷の廊下を私が歩く。走ると息が苦しくなってまた寝込んでしまうので、出来る限りの早足だ。
 私の前方にいる彼は、朝から私と一定の距離を保ちながら逃げ回っている。私が疲れて一休みをしていると、心配そうにこそこそと様子を見に来るのだから、相当舐められている。舐められるような体力の無さは否定できないが、それにしてもっとやり方というものがあるだろう。
 もう日は高くなって、正午も近い。長い間私が寝台を離れていたので、シンドバッドやジャーファルさんまでもが一定の時間をおいて私の様子を確認してくるようになっていた。どれだけ私の健康状態に信用がないのだろうと思ったが、よく考えたら私自身がちっとも信用していないのだから、彼らに信用しろというのも無理な相談なのかもしれない。

「マスルールくんっ!」

 久々に声を張り上げて彼を呼んでいたので、いささか喉が痛む。しかし、やはり諦めるわけにはいかなかった。何故そこまで、と理由を問われれば困ってしまうのだが、私はどうやら彼と仲良くしたいらしい。
 前方をちらちらと逃げるマスルールくんを追っていたが、息が上がってきてしまったので、壁に体を預けて息を整える。どうにも息苦しかったので、傍にあった窓も開けた。二階の廊下の窓からは、清涼な空気がどっと流れ込む。それを肺に押し込んで、私は窓枠に背を凭れさせた。額を拭うと、汗が滲んでいることが感じられた。しかし、健康的な汗ではない。これは脂汗とか、そういった類のものだ。
 私は深く息を吐くと、眼下の中庭を眺めた。数日をかけてシンドバッドたちが整えてくれた庭だ。少し経てば雑草が伸び放題の酷い状態になるのだが、今はやはり整然として美しい。
 しばらくそれを眺めていると、中庭の隅に、ちら、と赤いものが覗いた。よく見れば、それはここ最近で見慣れたマスルールくんの髪の色である。マスルールくん、と呟けば、彼は弾かれたようにこちらを見た。聞こえているのだ。
 私はつとめてゆっくりと息をしながら、中庭にいるマスルールくんを眺めていた。彼は恐る恐ると言った様子で中庭に出ると、私のいる窓の下辺りで私を見上げる。逃げる者と追う者がこのように見つめ合っているなどとは奇妙な話だが、彼と私の身体能力差を鑑みれば不思議でも何でもない事だ。それをするりと認めてしまえる慣れも、少し悲しい話ではある。
 私は彼の赤い髪が風に揺れるのを見ながら、ゆったりと思案した。正攻法では彼を捕まえられるはずもない。ではどうするか。策を練るのが常套ではある。しかしその策を為すための体力が私にあるかと言えば、それははなはだ疑問でもあるのだ。
 息を吐く。吸う。段々と息は整ってきて、額の汗もひきつつある。そろそろ再開しようと窓枠から離れようとして、私はふと思い至った。
 私から彼に近付くのが無理ならば、彼から私に近付いてきて貰えばいいのではないかと。
 これはなかなかに妙案である。ならば善は急げだ。私は窓枠から背中を離して、身を乗り出して階下のマスルールくんを見た。彼は、不思議そうな目で私を見ている。私は彼に微笑みかけて、そうして静かに言った。同時に、重心を上半身にずらす。

「ちゃんと受け止めてくださいね」

 ぐらり。私の脚が宙に浮き、身体は窓の外に投げ出された。



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