今日はシルディアの調子が良くないから、部屋へ行くのはやめなさい。
 シンドバッドにそう言われて、マスルールは今日、シルディアの所へ行くのを我慢していた。読み書きの練習がないのは嬉しかったけれど、シルディアに会えないのは少し寂しい。
 マスルールはシルディアが好きだった。シルディアは少し薬草の匂いがきつかったので、最初は少し苦手だったけれど。でも、読み書きを教える指とか手が、とても優しい。たまに頭を撫でてくれる薄い掌が、とても気持ちいい。だから、マスルールはシルディアが好きだった。
 だから、ごぼごぼとシルディアが咳き込む音をマスルールの耳が捉えた時、マスルールは心配ながらもとてもうれしかったのだ。屋敷の中庭で伸び放題だった雑草をちぎっていたマスルールは、それを中断して地を蹴った。換気のために開けてあった廊下の窓枠に着地して中を覗くと、ちょうど角を曲がっていくシルディアの後ろ姿が見えた。
 マスルールは「シルディアさん!」と声をかけるが、彼女は気が付かなかったのか廊下の角の向こうに消えてしまう。マスルールはすぐにその背を追いかけて、角を曲がった。前かがみ気味になって歩いていくシルディアの背中にすぐに追いつく。それでもシルディアは気付いていないようで、もう一度ごぼりと咳をした。

「シルディアさん!」

 マスルールは今日初めてシルディアに会えたことが嬉しくて、彼女の右腕を掴んだ。その時に、少し違和感を感じたが、もう止まらない。ぐいっとその腕を引いて、そして。
 ごぐりと。嫌な音がするのを、マスルールの鋭い聴覚は捉えたのである。


**


「優しくしてくださいね、絶対ですよ絶対です」
「うんうん分かったから、ちょっと枕噛んでようなー」
「それ痛いっていう予告じゃないですかお前という人間は本当にっ……――――っ!!!」

 ははは、とシンドバッドの笑い声が響いて、続くシルディアの絶叫。
 シルディアの部屋の前で座り込んでいたマスルールは、ぎゅうっと目を閉じて、その叫びを聞いていた。

「ただの脱臼だろ、そんなに落ち込むなって」

 マスルールの隣に座ったジャーファルがマスルールに言う。こくりと頷いて、しかし明らかに落ち込んでいる様子の赤い頭に、ジャーファルは溜息をついた。
 シルディアの右腕をマスルールが変な感じに引っ張ったせいで、彼女の右肩の関節が抜けてしまったのだという。別に誰も気にしてはいない。ただ、シルディアの筋力が平均より大分下で、対するマスルールはファナリスだったという、不幸な偶然が重なっただけだ。シルディアもシンドバッドも彼を責めてはいなかったし、ジャーファルもまたマスルールを責める気はない。大体、マスルールはシルディアに異常に懐いているのだから、他の責めがなくても彼は大いに反省しているはずなのだ。

「心配しなくてもシンが直してくれるし、別に誰が悪かったわけでもない」

 こくり。ジャーファルの言葉に、マスルールがまた頷く。ジャーファルは舌打ちをして、閉まったままのシルディアの部屋の扉に目を向けた。落ち込んでる人間を慰めるのはもともと性分ではないのだ。怒りっぽい性格なのは自覚しているし、正直マスルールほどシルディアに心酔している訳でもないので共感もしづらい。シルディアのことは良い奴だと思うし好きだけれど、多分マスルールの好きとは違うのだ。
 やがて扉が開いて、楽しそうな顔のシンドバッドと涙目のシルディアが出てきた。シンドバッドの嵌め直しが余程痛かったらしく、彼女はシンドバッドに向かって「このばか」「お前が脱臼しなさい」などと恨み言を言っている。しかし、その恨み言が発される度にマスルールが自分のことだと思ってびくびくと肩を跳ねさせているフォローはしておいてくれ、などと思いながら、ジャーファルは座り込んでいた床から立ち上がった。

「もういいのか?」
「ああ、綺麗に嵌め直してやったぞ!」

 などと言って快活に笑ったシンドバッドの背中を、恨めしげなシルディアが左拳で殴っていた。全くダメージがないのが悔しかったらしく、さらに数発殴る。しかしやはりノーダメージである。
 やがて諦めたのか、シルディアはゆるりと視線を巡らせてマスルールを見る。薄い唇が開いて、一言。

「マスルールくん」

 と呼んだ。その一言にさえ、マスルールの体が大きく跳ねる。恐る恐る、といった様子で自分を見たマスルールを、シルディアはいつもの調子で「おいでなさい」と手招く。マスルールはのろのろと立ち上がって、シルディアに歩み寄る。その動きがあまりに躊躇うように揺れていて、見ていたシンドバッドが眉尻を下げた。
 シルディアはじっとマスルールを見ていて、マスルールはその視線に怯えるように俯いている。やがてシルディアはマスルールに手を伸ばして、頭に触れようとした。ゆっくりと骨ばった指がマスルールに近付いて、触れようとした、瞬間。

「っ、!」

 マスルールは脱兎の如く駆け出し、すぐにシルディアの前から消えてしまう。彼が走るときに巻き起こった風で舞い上がったシルディアの服の裾が元の位置に戻る頃には、彼の姿は既に視認できる位置には無かった。

「……」

 ぱちくりと、シルディアが瞬き、ゆっくりとシンドバッドとジャーファルの方を見た。その目には、明らかな懐疑。

「…………私、何かしました?」

 こてん、と首を傾げて尋ねられた問いにシンドバッドは苦笑し、ジャーファルは黙って視線を逸らすしか出来なかった。




わかりません




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