マンモーニども | ナノ


▼ prosciutto

 気付いた時には、もう家族のようなものだった。
 そのように記憶している。少なくとも今となっては彼との出会いなど思い出せないし、私の幼少期は常に彼と共にあった。
 閉じた瞼の裏に、まるで宗教画に描かれる天使のような少年がよみがえる。私より幾らか年嵩の彼は、昔から大変に美しい容姿をしていた。美しく積極的で自信に満ち溢れた彼の傍にあっては、世界の何もかもがそのある種獰猛な美しさを引き立てるための舞台装置に過ぎなかった。無論私自身も、彼の傍にある限りにおいては彼という生の強さを引き立てるマネキンでしかなかったのである。恐らくは、今も。


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 プロシュートが金細工のような睫毛を伏せる。その視線の先で、パスタがフォークに巻き取られていった。アジトの古びたダイニングにはまるで不似合いな、妙に洗練された仕草であった。
 この国では、まるでそれが何かの義務であるかのようにパスタを食らう。それでなければピッツァだ。いっそ清々しいほどの思考停止だった。パスタにもピッツァにも飽きたことはいまだ無いけれど、もし飽きが来たとしても私たちはこれらを食べ続けるのだろう。もはや惰性だ。
 20代も後半の男女が向かい合って食うのが毎回同じパスタであるなんて、まるで胸のやける冗談だ。この代わり映えの無さが倦怠期みたいだと頭の隅で考える。

「パスタの味や食感に飽きることは無いけれど、調理には飽きるわ。時間を無駄にしてる感じがすごくするのだもの」

 かちり、私のフォークの先端が皿を叩く。そのまま陶器の皿の表面を引っ掻くと、高い音が軋るように響いた。半分ほど残るパスタは、私がフォークを弄ぶたびに縺れては解ける。

「湯を沸かして塩とパスタをぶち込んで、……10分もしねぇだろ」

 パスタを口に運ぶだけで無駄に美しい所作を中断して、プロシュートは言った。薄い唇の下から覗く歯列の間からは、煙草の煙に焼かれた掠れ声が零れる。彼が吸う煙草は確実に彼の寿命を蝕んでいたけれど、もともと長生きのできる職業ではない。もし彼がもっとまともな――例えば真面目なホテルマンなどであったならば、私は彼に禁煙を勧めただろうか。そんなことを考える。
 最近、そうであったかもしれない人生に思いを馳せることが増えてきた。脇目をふらずに今を生きるには、些か歳を重ね過ぎたのだと、如実に感じている。

「無駄な時間だわ。私たちの人生はきっと短いもの」

 寸暇を惜しまなくてはならない。人より短い生しか望めない、人殺しの犬であるのだから。少しの暇も惜しむべきだ。パスタが茹で上がるのを待つ時間なんて、これ以上ない無駄だった。

「怒る時間も悲しむ時間も無駄だと思うのに、パスタが柔らかくなるまで鍋の中を掻き回す作業を、一体どうして慈しむことができるかしら」

 そう考えているにも関わらず、毎日素直にキッチンでパスタを茹でている私は、我ながら可愛らしい屈服を強いられている。
 そんなことを言う私を見て、プロシュートは一度瞬いた。その唇が意地悪く弧を描いていることに気付く。嫌な予感がするくらいには、不本意ながらこの男のことを心得ていた。腐れ縁の幼馴染みというこの立場は、案外居心地が悪い。

「へえ、それで?無駄を省いて作ったその時間で、オメーは何がしてぇんだ?」

 予感通りの意地が悪い問いかけに、私は「何かしらね」とだけ答えて水を一口嚥下した。唇から離れていったグラスに口紅は付かない。パスタと一緒に少しずつ飲み込んでしまったのだろう。だから人前で食事をするのは好きではない。口紅が薄れていく様子は、想像するに大変世俗的で厭らしい。

「多分、人と関わりたいのよ。私はきっと遠くない未来に死んでしまうのだから、生きているうちに多くと繋がりを持ちたいと思うのは自然なことでしょう」

 多分、と頭に置いた言葉は予防線だ。いつからこんなに狡い言葉回しを覚えたのかしらと、思考の一部が自嘲的に働く。

「……でも駄目ね。どうしても怒ってしまうし泣いてしまうし、パスタだって茹でてしまうの」

 かちゃり。パスタを巻き取るフォークの先が、皿を引っ掻く。いつしか私もプロシュートも、食事を再開していた。今さら話を聞くのに食事を中断してやるほど、私たちは互いを重要視していない。
 口内のパスタを咀嚼しながら、私はプロシュートを見る。瞬きのたびにしゃらりと音をたてそうな金の睫毛を見て、何だか途方もない心地がした。警戒するべきであると感じたのだ。何を警戒していいのかは分からなかったけれど。
 その金の睫毛に雫が滴る様子は、この世のものとは思えない美しさだろうな、と思った。子供の頃、蜘蛛の巣に雨の雫が付いているのを見るのが好きだったのを思い出す。しかし残念ながら、私はプロシュートが泣くところを見たことがない。特に見たいとも思わなかった。その睫毛が涙に濡れるところは大層美しいだろうとは思うが、プロシュート自身の泣き顔は上手く想像できなかったのだ。想像の翼の外にまで足を踏み入れたいとは思わない。だってもう大人なのだもの。

「プロシュート、あんたって泣いたことある?」

 それでもそう尋ねてしまったのは、きっとパスタを食べるのも躊躇してしまうほど途方にくれていたからだ。プロシュートの金の睫毛が、私は大層好きであったけれど、それは同時に私を思考の海で漂流させるに十分な理由であったのだ。冷静に考えれば本当に馬鹿馬鹿しいことであるのだけれど。
 彼はフォークの先を眺めていた視線を上げて、私を訝しげな目で見た。

「何を言ってんだオメーは」

 片眉を跳ね上げたその表情は、その彫像的な美しさを台無しにしそうなくらい俗っぽい。しかし彼の美貌はなお損なわれないあたり、驚くほど緻密なバランスで彼という存在は保たれているらしかった。例えばミロのビーナスのセックスに遭遇した気分。清廉であるべき偶像の失墜。堕ちてなお美しくあるのは一種の才能であるように思えた。

「俺はオメーよりも歳上なんだから、俺が泣くわけねぇだろ」

 くつりとプロシュートが笑う。私はゆっくりと瞬いた。その理論は些かおかしい。そう指摘したかったが、プロシュートの目が有無を言わせぬ光できらめいていたのを見て、開きかけた唇を閉じてしまった。昔からどうにも、この男の自信に満ちた態度に弱い。
 プロシュートがフォークを皿の上に置いて、私は思考の海から引き戻される。いつしか彼の前にある皿は空になっていた。真っ白な表面を晒すそれが光を反射している。プロシュートは完璧に上品な食べ方であるくせに、恐ろしいくらい早食いだ。彼のそういうところは苦手だった。同行者の食事だけが終わって、私一人がマナーから咀嚼から嚥下までを晒しているという事態に、いっそ首を括りたくなる。野良犬のような人生の中に身を置いているとしても、恥じらいだけは持たなければ。

「あんたの睫毛が涙に濡れるのって、とても美しいだろうと思うわ」

 彼の指先を見詰めながら吐いた言葉は、大変に分かりやすい照れ隠しである。彼の注意を私の食事風景から逸らそうという、ただそれだけの意図だった。
 プロシュートは眉をそれぞれ器用な角度で持ち上げた。大変に表情豊かな男である。それでも泣き顔だけが一向に想像できないあたり、そのバランスはいよいよ神掛かっている。

「オメーのその、訳が分からねぇところは子供の頃から変わらねーな」

 そう言われて、私は「そうかしら」と首を傾げた。自分が子供の頃どうだったかなんて、思い出せるものではない。私の幼少期の記憶は、ほとんどが幼馴染みの美少年のことなのだから。

「子供の頃自分がどうだったかなんて覚えていないわ。自分のことを記憶する暇もないくらい、幼馴染みといるのが楽しかったのね、きっと」

 私が言うと、プロシュートは一瞬虚をつかれたような顔をしたあとで、シニカルに笑んだ。

「俺も自分のことは覚えてねぇよ。幼馴染みのガキがあんまり俺にくっついて来たんでな」

 笑いを含んだ言葉に、私はつい顔をしかめる。まったくもって一言多い男なのである、私のたった一人の幼馴染みは。

「ねぇ、あんたが泣くときは私の胸を貸してあげてもいいわよ。その代わり、泣き顔ちゃんと見せてね」
「馬鹿か。天地がひっくり返っても泣かねぇよ、オメーより兄貴なんだからな」

 プロシュートが懐から煙草を出してくわえる。彼の興味が私から煙草に移ったことに少しだけ安堵して、私は再びフォークで皿の上のパスタを持ち上げた。来る日も来る日も飽きもせずに茹で続けるパスタは、今日も変わらず美味であるのだ。

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