マンモーニども | ナノ


▼ illuso

 仕事の話をするときに泳ぐ視線だとか、自分の指先を弄る手つきだとか。無意識下の行動は、イタリア男のよく回る口よりも余程正直で雄弁である。
 別に嫌われることだとか、苦手意識を持たれることに寂寥を覚えているわけではない。そんな青臭い時期はとうに過ぎてしまっている。ただ、感想として。渇いた認識として。私は彼に距離を置かれているのだと、そう感じていた。

「イルーゾォはきっと、私の事が苦手ね」

 ぽつりと零した言葉を過たず拾い上げて、私の隣に座っていた目つきの鋭い男がこちらを見る。その視線が自分の頬に突き刺さるのを掌で軽く払うようにして、私はソファーに深く身を沈めた。物件備え付けのソファーは、女1人の体重でもぎしりと大袈裟に軋むくらいには古びている。
 隣のジェラートは切れ長の双眸を微かに見開いて私を見ていたかと思うと、徐に目の前のテーブルに手を伸ばしてリモコンを取り上げた。そうしてそれを少し操作して、するとテレビの音量が見る間に下がっていく。昨今の麻薬問題について唾を飛ばしながら熱く語るコメンテーターの声は、すぐに蚊の鳴くような大きさになった。

「よく聞こえなかった」

 そう短く言ったジェラートを、私はちらりと見やる。別に、話し掛けようとして漏らした言葉ではないと言うのに。「大したことじゃあないわ」と言って彼の持つリモコンに手を伸ばすが、「もう一度言ってくれよ」という悪戯っぽい声と共に、リモコンは私から遠ざけられた。

「……イルーゾォは私のこと苦手でしょうね、って」

 私が渋々言い直すと、ジェラートは目を更に見開いて「聞き間違いじゃなかった」と呟いた。

「まさかぁ、タルトゥフォはうちのチームでは一番親しみやすい奴だって思うけれどね、俺は」

 そう、ジェラートが相好を崩した。「確かにイルーゾォの人見知りは酷いけれどね」と付け加えることも忘れない。仲間のことをよく見て知っているくせに、どこか酷薄で冷静な、ジェラートらしい分析だった。
 珍しいことに、彼がいつも纏わりつかせているソルベはいない。聞いてみれば、今日は仕事でローマだと返ってきた。彼が単独で仕事につくなんて珍しいこと。

「だって彼、私を見るとお腹を壊したような顔をするのよ。もう大人のくせして、本心を押し隠すことも知らないのよ」

 言葉にすると、口の端から苦笑が漏れた。
 ジェラートがリモコンを操作して、再びテレビの音量が大きくなる。戻って来たコメンテーターの声はもはや、麻薬事件など最初からなかったもののように明るかった。


**


 アジトの談話室に立て掛けてあるアンティークものの姿見は、確かメローネが買ってきたものであったように思う。彼は存外目利きであって、掘り出し物であるらしいこの鏡は、朴念仁のリゾットをして「…………いいな」と言わしめた逸品である。
 明かりのない談話室で私は1人、ホットワインを傾けながらその鏡を眺めていた。いや、正しくは、その鏡の中にいる男を、であろうか。
 鏡の中の談話室は、本物のそれと同じく薄暗い。しかし、鏡に私が写っていないのは暗さのせいではなかった。鏡面の中に佇む男の姿が、鏡像の私を遮っているのだ。

「そう何時間も粘ることはないじゃない。ただベッドに潜り込んで眠るだけよ」
「許可しない」

 寝酒を傾けながらの私の言葉は、硬質な声に切って捨てられてしまった。時間をかけても何処にも帰着できない辺り、いよいよ痴話喧嘩じみてきている。或いは、拗ねて部屋に閉じ籠った子供を宥めすかす母親の気分。
 イルーゾォの、その落ち窪んだ眼窩を見遣った。浮いている色濃い隈は、一体何日の不眠故なのか。そう、イルーゾォは不眠症であるのだ。
 確か前に寝かしつけたのが先週の事であったから、それからまたほとんど寝ていないのだろう。案外頑ななイルーゾォは、毎回怒鳴り付けて催眠剤を口に押し込まないと眠らない。そんな手間を掛けてまで成人した野郎の睡眠を気にかけるお節介は、このチームにおいて私くらいのものである。つまるところ、私が寝かしつけなければイルーゾォは睡眠をとらないのだ。全くもって厄介なこと。
 鏡の中から出て来ようとしないイルーゾォと睨みあって、もう30分が経ちそうだった。マグカップに並々と注いだはずのホットワインは、既に少し傾けるだけで底が見えるところまで来ている。
 こういう風に無為に時間を食い潰すのは嫌いではなかったけれど、温かなアルコールに浮かされた脳は既に眠気を訴えていた。早く鏡の住人を引き摺り出して眠るべきだ。夜更かしは肌に悪い。別段自分の美醜を気にしている訳ではないけれど、こと私に関して肌荒れは仕事の遂行に関わる大事だ。

「何も怖いこと無いわ。みんなしている事じゃない、シーツにくるまって目を閉じるだけ」
「……タルトゥフォは知らないんだろう、それがどんなに恐ろしいことか」

 苦しげに歪められた風貌が、少し好ましかった。恐怖だの感傷だの、自分が既に棄てたものを見るのは嫌いではない。懐かしさと、ほんの少しの妬ましさかない交ぜになった感覚。湿疹を掻き毟るような、後ろ暗い快楽がそこにはある。

「眠っている間に自分が脅かされるかもしれないなんて、思ったこと無いんだろう。だからあんなに無防備に寝られるんだ」

 がりり、イルーゾォが親指の爪を噛む。大変分かりやすい情緒不安定ぶりだ。心の状態が体にさせるパフォーマンスとは、何故これほどに自壊的であるのか。私はゆっくりと瞬いた。
 彼が私の寝姿を知っているのは、おそらく想像などではないのだろう。実際に見ているのだ。鏡さえあれば、彼はどこにでも現れることができる。「女の寝室に無断で入るのはいけないことよ」と諌める気もなく投げ掛ければ、沈黙が帰ってきた。鬱陶しげに軽く首を振ったあたり、従う気は毛頭ないのだろう。他者が自分を脅かさない状態であると確認しなければ、安心できないのだ。病的なほどの人間不信だった。

「あんたのそういうところが嫌いだ」

 イルーゾォの言葉に、私は薄く笑って答えた。

「そういうことは鏡から出て言うもんよ」

 嫌悪を向けられたことを意にも介さぬ返答は、案外するりと唇からこぼれ出た。嫌われて傷付くような青臭さなんて、とうに捨ててしまっている。鏡の中の世界の、メルヘンやファンタジーに生きる男と好き嫌いを論じるには、些か歳をとりすぎていた。
 私の態度が気に入らなかったのか、イルーゾォが眉を潜める。

「そういう、割りきったみたいに笑うところが嫌いだ」

 重ねて投げ付けられた文句は、ほんの少しの失笑を呼んだ。何でも割り切れるほど老いてもいないのだもの。案外この男、私という女に夢を見ているようだった。映画やドラマの役柄のような、余裕のある女であることが求められている。童貞みてぇに理想を押し付けているんじゃあねぇよ。潔癖そうな外見のイルーゾォは、あるいは本当に童貞なのかもしれなかった。
 私はつるりとした鏡の表面を撫でる。指先に返ってくるのはただ冷たく無機質な感触ばかりだ。であるというのに、イルーゾォときたらまるで脇腹を撫でられた時のように居心地悪げに身動ぐのだから、まったく神経質なこと。

「さっさと出てきなさい、何時間粘っているつもりなの」

 軽く叱りつけるような口調で言うと、イルーゾォは案外大きなひとみで私を見た。その視線に含まれるのはねっとりとした批難の色である。私はそれを受けて笑った。
 私の笑声を聞いて、イルーゾォはゆるりと私から目を逸らす。熱帯魚が水槽の中で身を翻すみたいに、その動作は酷く緩慢で、どろりとした印象。見るからに生っ白くて不健康なこの男は、動作までどこか泥濘を孕んでいるようだった。

「…………ねえ。あんたに守ってもらわなくたって、私達は死にはしないのよ」

 鏡の冷たさを指先で感じながら、私は胸像の世界にそう投げ掛けた。鏡面の向こうの男が、ひたりとその動きを止める。手の中のカップに、もう酒は残っていなかった。アルコールに浮かされた頭を軽く振って、イルーゾォを見る。彼の陰鬱な視線は、緩やかに鏡の中をさまよっていた。
 私の酷く下卑た勘繰りは、しかしあながち間違ってはいなかったようだった。「馬鹿ねぇ」と漏らした言葉が、ばらばらと夜気に消えていく。

「あんたが思うほど私達は平和ボケしていないし、世の中は物騒でもないということよ」
「……」

 イルーゾォは答えない。沈黙は果たして肯定であった。
 人見知りで人間不信のこの男が、スタンド能力を使ってまで人の寝姿を確認するのは、性癖などではなかったと言うことだ。それは恐らく、仲間を思うがゆえの行動であり。
 自らが恐れる「夜」というものから、彼は守ろうとしているのである。個人的な見解を言わせてもらえば、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。そのための睡眠不足をどうにかするために私が睡眠を削っている現状を考えれば、いっそ迷惑と言っていいアジト警備であった。

「だから、意味のない自宅警備なんてやめてしまえば良いのよ」

 私は笑う。一笑に付すことが、彼を長い夜から引きずり出す最も良い方法であるように思えた。
 笑い飛ばしてやるから出てこいよ、その独り善がりな鏡の国から。
 ああ、だかうう、だかと呻いて項垂れるイルーゾォをただ眺める。これだから私は彼に苦手意識を持たれるのだ。嫌われてしかるべきである。必死の思いを笑い飛ばし、あの手この手で彼の方向違いの善意を無に帰そうとする、私のような女は。

「ねえイルーゾォ。私はあんたに嫌われたって、一向に構わないと思っているわ」

 どろり。イルーゾォの視線が、私に向けられる。そのひとみは、迷いを如実に表して揺れていた。まったく、仕方のないこと。

「あんたが独りで怖がっていることに比べれば、嫌悪を向けられることなんて些末なことだもの」
「…………ちがう」

 ちがうんだ、ちがう。ただひたすらに首を左右に振って、否定の言葉を垂れ流すイルーゾォに、私は手を伸ばす。その否定が一体何に対してのものなのか、まったくもって分からなかった。彼が独りで恐れていることに対してなのか、私を嫌っていることに対してなのか。そんなことはどうだっていいのだ。

「仲間なんだから、あんただけが恐がる必要なんてないのよ」

 私の笑声が漏れる。イルーゾォの指先が、何かを掴もうとするかのように忙しなく震えた。
 ああ、これだから。
 これだから私は、彼に苦手意識を持たれてしまうのだ。
 そんなことはとうに知っていた。そんな胸の痛みなどとうに、意識の外に追いやって久しい。

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