「……」
「……」
「……なぁシルディア」
「はい」
「何故俺の執務室にいるんだ?しかも椅子まで引き摺ってきて居座る気満々で…」

少しばかり顔色が悪いシンドバッド様の顔をちらりと見て、私は手元の紙の束に目を移した。シンドバッドの冒険書、その新作草稿だ。多数の難民を抱えるシンドリア財政の足しとして、王自らが執筆したもの。毎回添削要員として、その最初の読者となれることは喜ばしいことだった。

「今日は非番ですので、貴方が仕事をサボらないよう見張りに来たのですよ」
「…シルディアといいジャーファルといい、どうしてそう仕事仕事かなぁ」

シンドバッド様が盛大に溜め息をつく。
ジャーファルさんは半分仕事が趣味のような所があるが、私は単に存在意義を求めて仕事に関わっている部分が多い。別に仕事が好きだからやっているわけでもないのだ。

「貴方の冒険書も読みたかったですから、丁度良いのです」

私が頁を捲りながら言うと、シンドバッドが快活に笑った。

「シルディアは冒険譚が好きだな。昔から旅の土産話を聞きたがっていたし」
「そうですね。憧れです」

シンドバッド様が私を見る。静かに顔を上げると、こちらを見る悪戯っぽい目と視線がぶつかった。少しまずい受け答えだったかと思う。何しろ、冒険の話となると止まらないのだ、我が王は。
私はうきうきと口を開こうとする彼に、仕事、と一言だけ言った。途端に、彼の目に退屈そうな影が差して唇が子供っぽく尖る。

「なぁ、この間のバルバットでの話を聞かせてやるから仕事を手伝ってくれないか?」
「私は所詮政務官秘書ですから、貴方に変わって仕事をすることは出来ませんよ」
「そこを何とか!」
「無理です」

私がにべもなく断ると、彼は諦めたのかうだうだと言いながらもペンをとって仕事に向かう。
やる気になれば出来る男なのだ、彼は。本気を出せば、一日の仕事を正午の次の鐘が鳴るまでに終わらせることが出来るくらいに。何故さっさとやってしまわないのかと思わないでもない。しかし、それでこそ彼なのだと感じる部分もないではなかった。
ぺらり、頁を捲る。八人将の皆さんは、巻を追うごとに人間から離れて行ってしまってる気がしなくもない。15巻くらいには既に迷宮生物の域だった。人を引き込む文章は流石の一言だが、シンドバッド様は少し脚色が大袈裟に過ぎる。

「……大人になったら、冒険をするのが夢だったのです」

響いていたペンの音が止まった。仕事の邪魔をしてはいけない。そのしわ寄せが自分たち文官に来るのだ。そう思いながらも、口は止まらなかった。

「大きくなれば、人並みくらいに動けるようになると信じていました。そうしたら…貴方や、ジャーファルさんやマスルールくんと世界を渡りたいと」
「……」

シンドバッド様は黙って私の言葉を聞いている。呆れているのだろうか。走るどころか、歩くことにすら事欠いている私だ。それも仕方あるまい。

「自分の目で世界を見て回りたいと思っていたのです。貴方たちと一緒なら、きっと楽しいだろうから」
「…………行こうじゃないか」

たっぷりとした沈黙の後、彼は微かに笑って言った。私の方は見ない。手元を見詰めたまま、彼は言葉を継ぐ。いつの間にか、シンドバッド様はペンの動きを再開させていた。

「アル・サーメンとの戦いが終わって、国が落ち着いて。そうしたら、俺や八人将と七海を渡ろう。悪くないだろう?皆で行けばきっと退屈もない」

私は彼の言葉に、そっと目を細めた。甘い誘いだ。本当に楽しそうで、夢のようだったから。
しかし、夢は夢のまま終わらせておくべきだった。きっとそう。特に、私に関して言うならば。

「守れない約束はしない事です」

私はそれだけ言って、また冒険書に目を戻した。シンドバッド様の返事はない。
紙の上で、勇敢な彼と、人間離れした旅の仲間たちが生き生きと飛び回る。私には、この小さな世界で十分だった。
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