「雪蘭じゃねぇか」
「あ、ジュダルさま」

紅明さまに頼まれた書簡を持って宮中の廊下を渡っているとき、すぐそこの角から曲がってきた神官のジュダルさまと鉢合わせした。
この煌帝国の宮中にはおよそふさわしくない服装で、手には案外可愛らしい杖が握られている。わたしは魔術師のことにそう詳しくはないが、魔法を使う時には必須のものなのだろう。魔術師が多い神官団は、どいつもこいつも大小様々な杖を携えている。

「お前まだ紅明の小間使いしてんのかよ?さっさと迷宮行って新しいジンと契約し直せばいいのに」
「ジュダルさまもしつっこいお方ですねぇ。今のわたしは紅明さまの眷属だからやだっつってんのに」
「関係ねぇだろ。眷属との契約よりジンとの契約の方が優先だ。お前強ぇんだからよ、もっとでかい力使いこなしたいと思わねぇ?」
「思わないですね」

ジュダルさまをあしらいながらすたすたと廊下を渡る。この書簡を李将軍に渡せば帰れるのだ、頑張れ私。ジュダルさまの妨害に負けてはならない。
なあなあ、と懲りずにわたしについてくるジュダルさまに、どうやら諦めようと言う気は微塵もないらしい。

「なあそんな邪険にすんなって。俺だって悪かったと思ってるさ、お前をシンドバッドにけしかけたことは」

口先だけはすまなそうに、しかしその瞳は爛々と輝いて、ジュダルさまがわたしの顔をのぞき込む。
悪びれないその様子より、むしろ嫌悪する男の名前が出てきたことに、わたしの鼻頭に皺が寄る。

「昔のことですからもう忘れました」
「はッ、んな訳ねぇだろ」

忘れられるわけねぇよ。ジュダルさまが言う。それは楽しそうに、猫のように喉を鳴らしながら、大帝国の黒いマギは笑った。

「忘れました」
「忘れたと思いてぇだけだろ」
「忘れましたって」
「忘れたい、の間違いだろ」
「…忘れたッつってんだろ!!!!」

ばさばさ、と。わたしの足下に、投げ出した書簡が落下した。息が荒くなり動悸がして、視界が狭まる。ああ、良くない。これは良くない。
冷静になれ、ここは宮中だ、冷静になれ。わたしがここで暴れれば、紅明さまの責任問題になりかねない。落ち着け。
わたしが頭のどこか冷静なところで懸命に落ち着きを取り戻そうとしているのを、ジュダルさまがは楽しそうに見ていた。質の悪い男だ。つり上がった唇が弦月のようで、そのにやけ顔を殴り飛ばしたくなる。

「なあ、俺はお前を買ってるんだぜ雪蘭。お前は強い。だからお前にもっと大きな力を与えたいんだ。そして俺はマギで、簡単にそれが出来る」

神経を逆なでするような柔らかな声が耳朶を緩く叩く。わたしはきつく唇を噛んで、足下の書簡を拾い上げた。汚れていないことを確認し、また両手で抱え直す。

「何度言われても、わたしは紅明さまの眷属です。それ以上でもそれ以下でもありません」

わたしにとっての王の器は紅明さまお一人だ。だからもう、紅明さまに出会ったわたしはもう、王の器となるべきではない。わたしがこれから迷宮に入るのは、紅明さまがそう望まれたときだけだ。

「わたしは今後一切、貴方の玩具に戻るつもりはございません」

そう、言い切る。それは舌先の刃で目の前の黒いマギを貫くような強さで。

「残念だな、雪蘭。でもさ、俺はいつだってお前を迷宮に導いてやれる。力が欲しけりゃすぐに与えてやれるってことを覚えといてくれよな」

ジュダルさまが笑う。忍び笑いする様がまるで猫のようだと、わたしは冷え冷えとしたこころでそう思った。
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