※マスルール視点





政務官執務室の扉を開ける。紙とインクの匂い。どこに行っても潮と花の匂いのするシンドリアでは、ここでしか嗅ぐことがない匂いだ。何人かの文官が俺を見て頭を下げ、また目の前の書類に注意を戻す。
部屋には大きな机がいくつも置いてある。ジャーファルさんの机が部屋の一番奥で、その少し手前に置いてある3つの机のうち、向かって一番右がシルディアさんの机だ。
俺はぐるりと視線を巡らせて部屋を見渡すが、そこにシルディアさんの折れそうな痩身はない。
自分の机で何かを書いていたジャーファルさんが、俺に気が付いてふっと笑った。

「おやマスルール。どうしました?」
「シルディアさん知りませんか。昼飯一緒に食う約束してたんスけど、来なくて」
「シルディア?もうとっくに昼休みに入って……まさか」
「…あれスか」
「ええ、あれですね」

探してきてくれますか、マスルール。
ジャーファルさんがそう言って、俺の後ろにある扉を手にしたペンで指し示した。俺はひとつ頷いて、シルディアさんを探しに出ることにする。
シルディアさんはいつも痛み止めの香の匂いを強く纏っているから、探すのは楽なのだ。




紫獅塔の近く、背の低い木の下に、シルディアさんはうつ伏せに倒れていた。昼間は人通りの少ない場所だから、誰にも見つからずに行き倒れたのだろうと思う。
シルディアさんは具合が悪いのに働いたりするから、よくどこかで行き倒れる。大抵は通りかかった誰かに介抱されているのだが、今日はたまたま誰の目にも触れずにいたらしい。石畳にぺったりと左頬をつけて、金色の睫毛が青白い顔に影を落としていた。

「シルディアさん」

俺はシルディアさんのそばに寄って、その薄い肩を出来るだけ柔く叩く。反応がなかったので、今度はそっと揺すってみた。
シルディアさんは脆い。その辺の乳飲み子の方が余程頑丈ではないかと思うほどに。だから、シルディアさんに触れるのはいつも恐ろしかった。
ずっと昔に一度だけ、俺の不注意でシルディアさんに怪我をさせてしまったことがある。それを思い出すと今でも恐ろしくて指先から血が引いていくのが分かるのだ。
俺はきっと、この人を壊してしまうのが何よりも恐ろしい。

「シルディアさん」

俺はもう一度、シルディアさんの名前を呼ぶ。ふるりと、彼女の長いまつげがふるえて、ゆっくりと持ち上がる。

「…マスルールくん、」

意識を取り戻したシルディアさんが、ころりと寝返りを打って仰向けになる。静かな目が俺を捉えて、とろけるように穏やかに細まった。
また倒れていましたか、と訪ねられたので、ひとつ頷く。シルディアさんはそうですか、とだけ言って、ゆうらりと身を起こした。起き上がったことで目眩がしたのか、ふらりとシルディアさんの上半身が傾いで、俺はとっさにその体を引き寄せた。やはり、軽い。

「ありがとう、また探させてしまいましたね」
「いえ。それより体、大丈夫すか。俺、ジャーファルさんに午後休みにしてもらえるように頼んできます」
「そんなことしなくても心配ありません。いつものことですから」

シルディアさんはそう言って、俺の体に縋りながらゆっくりと立ち上がった。
今日は暑いのでちょっと意識が遠くなってしまって。シルディアさんが言う。その青白い頬が、太陽の光を浴びていっそう儚げだ。

「シルディアさん、」

俺は自分より頭幾つ分も低いシルディアさんの目を見て、ただその名前を呼んだ。それ以上は、何を言ったらいいのか分からなかった。
シルディアさんが笑う。それは岩場にぽつりと咲く花のような、不安定で切なくなる美しさだった。
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