002





 大通りを歩いて帰る、……とは言ったけれども。

「こっちのが近いんだよなぁ…」

 コンビニから漏れる光が網膜に刺さる。透子は道路の向こうの小路を見ながらそっと溜息を吐いた。時計を見ると23時10分を回っている。出来ることなら早く帰りたい。今なら車の通りは絶えているから、走って渡ってしまおうか。このまま真っ直ぐ行けば大通りを辿って帰宅できるのだが、道路を渡って小路を行った方が5分ほど時間を短縮できる。
 明日も早いし、きっと仕方ない。タカ丸さんも許してくれるだろう、多分。
 透子は意を決して足早に道路を渡った。かつかつという足音が焦ったように道路に響く。焦燥で如実に彩られた音は、やがて走ってきた軽自動車の走行音に掻き消された。透子は道路を渡りきった先の歩道で小路の暗がりをじっと見て、すぐにまた歩き始めた。向かう先の小路には街灯が少ない。それでも透子は暗がりに恐怖を感じるような性質ではなかったし、既に数えきれないほど通った道だったので迷わず歩を進めていく。
 小路から少し大きな道路に向かう途中に、小さな公園がある。昨今の遊具撤去の波に従わざるを得なかったもの寂しいところだ。公園の面影を残しているのなんて、砂場とベンチと、小さなジャングルジムくらいしかない。公園というよりはもはや空地だ。休日の昼間であったって、ぼさぼさの毛並みの秋田犬を連れた老人がたまにベンチで休憩する姿しか見たことがない。ただ、公園の真ん中にはレトロなデザインの街灯が一本ぽつんと立っていて、透子はその情景が存外気に入っていた。そういえば昔から、幻想的で綺麗なものが好きだったのだ。
 街灯の寂しげなオレンジの光を思い描いて、透子の足取りはほんの少しだけ弾んだ。アスファルトを叩く靴音がどこか楽しげなことに気付いて少しだけ後ろめたくなったが、別に誰に迷惑をかけているわけでもないと思い直した。だって今は一人きりなのだから、どんなに態度に出したって構わないはずだ。
 件の公園に差し掛かって、透子は見慣れた街灯に視線を投げる。記憶と寸分違わない橙の光。どこかべったりと重いようなそれに照らされた狭い公園。

「……?」

 ふと、違和感を覚えた。それは指先に少しだけ油が付いてしまったときのような。微かな、それでいて無視しようのない違和感。
 透子は眉をひそめて、じっと公園を見る。少し歩調を緩めるだけにとどめるつもりだった足は、既に止まってしまっていた。

(……あ、)

 そうか、ベンチが違うんだ。透子は違和感の正体に気がついて、少しだけ目を剥いた。
 ベンチに、黒い影が腰掛けていたのである。まぁ影というのは勿論比喩であって、実際は蹲るように座っている人であったのだが。
 影はどうやら透子に気がついていないらしく、ベンチに腰掛けたまま動こうとしない。その影は、公園の淡い光の中で項垂れているように見えた。距離の長さと光の小ささが、なんだか心もとない。
 透子は暫く影を眺めたあと、歩くのを再開した。……ただしもと来た方向に、だ。
 気がつけば彼女は、車の通りがない道路をまた渡って、コンビニに入ったあとだった。そのまま真っ直ぐに店の奥に向かって、飲料コーナーで少しだけ迷ったあと、小さな紙パックの豆乳をひとつ取る。それを選んだ理由はなんのことはない、ただ少しだけ安くなっていた、それだけだった。
 そのままそれをレジに出して、日本語が怪しい中東系のアルバイトから釣り銭とレシートを受けとる。アリガトゴザマス、と手を握るような仕種で釣り銭を渡されて、透子は微笑んでどういたしまして、と返した。今から自分がするつもりのお節介に比べれば、こんな小さなことで外面を取り繕うくらい何でもないように思えたのだ。
 もう一度小路を行って、また件の公園に差し掛かった。影はまだベンチで項垂れている。透子は少しだけ足を止めると、公園に足を踏み入れた。公園の土がパンプスの足音を吸い取る。乾いた地面は想像していたよりも固かった。
 足を進めるごとに、影の細部が露になる。男性だ。白いTシャツにぴったりとしたジーパンという格好で、前屈みになって伏せた顔を片手で支えるように覆っていた。柔らかそうな黒髪。Tシャツの袖口から伸びた腕は太くも細くもなかったが、ただ酷く白い印象を受けた。橙の光の下でも白く見えるなんてよっぽどだ。そう考える透子の頭は、自分でも呆れるほど冷静である。

「……あの、」

 透子が声を掛けると、男性はパッと驚いたように顔をあげた。まるで、透子が近付いてきていたことに今気付いたとでも言うようだった。
 ぽかんと透子を見上げる顔は微かに赤らんでいるようで、頬の水滴が、街灯の光を反射しながら流れ落ちた。
 ああ、泣いていたのか。そんな場違いな事を思った。思ってから、透子は少しだけ狼狽する。掛ける言葉を考えていないことに、今さら気付いた。
 透子はただ、幻想的な風景の中に入り込んでいる彼が羨ましかった、それだけだったのだ。気のきいた一言でも言えれば良かったが、それほど透子のボキャブラリは広くはない。

「……豆乳、好きですか」

 脳みそを逆さにするほど考えた結果透子が言ったのは、そんなバカみたいな台詞だった。透子は心中で頭を抱える。変質者じゃないか、これじゃあ。











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