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 生温い水の中を回遊する熱帯魚は、やっぱり夢みたいに綺麗だ。透子はいつもその優美さに感動する。彼女はそう頻繁に心動かされる質ではなかったけれど、昔から熱帯魚ばかりはその限りでないのだった。
 バケツに溜めた水に中和剤を混ぜ込んで、そっと水槽に流し込んだ。優雅に鰭を翻して泳いでいた魚たちは、急に降ってきた空気の泡に驚いて水槽の中を逃げまどった。それでもすぐにまたゆったりとした速度を取り戻す危機感の無さが、何とはなしに羨ましい。
 ガラスの壁に沿って泳いでいたベタの輪郭を、ガラス越しにそっとなぞる。蛍光灯の白い光が満ちる楽園で、一体何を考えて泳いでいるのか。感傷的になっている自分が何だかこそばゆくなって、透子は水槽から離れた。指先がどこか名残惜しげに水槽の表面から離れる。

「透子ちゃん、お疲れさま。もう閉めちゃうけど大丈夫?」

 背中に掛けられた声に振り向くと、綺麗に染められた金髪が目に入る。タカ丸さん、と呟いた小さな声は恐らく届かなかっただろうと思われるが、このヘアサロンのオーナーはまるで応えるように笑みを深くした。

「すみません、これ片付けたらすぐに出ますから」
「いいよいいよ、急がないで」

 慌てて怪我でもしちゃったら大変だし、と続けたタカ丸は、透子が持つバケツをやんわりと取り上げる。そのそつのなさが、このサロンが人気である理由のひとつであるらしい。実際に客からの指名率は断トツ、雑誌やテレビ番組でも彼についての特集が組まれているのをよく見かける。カリスマ美容師斉藤タカ丸といえば、世間ではもはや芸能人並みの扱いなのである。
 そんな人の店で働いているというのは、たとえアルバイトであるとはいえ誇らしいような気になる。透子は中和剤のボトルを棚に仕舞いこんで、首の後ろをそろりと撫でた。まぁ雇ってもらうにも紆余曲折があったわけだが、それはここでは割愛しても構わないだろう。

「じゃあ帰ろうか、透子ちゃん」

 事務室のロッカーを閉めたタカ丸に頷いて答えると、透子は自分の鞄を肩に掛けた。チョコレートブラウンの合成皮革の柔らかさが指先で凝る。
 もう随分暑くなったねぇ、とタカ丸が言う。そうですねとぼんやり返して、透子は彼が胸のポケットから鍵を取り出す様子を見ていた。この店は結構手狭になってきている感があるが、タカ丸に店舗移転や新店舗設営の予定はないらしい。
 タカ丸に導かれて店の外に出ると、むわりとした熱気が肌を覆う。冷房を切った後の店舗は暑い暑いと思っていたのだが、それよりも外の夜気の方がよほど不快指数が高い。腕時計を見ると、針はもう23時を指していた。21時に閉店だから、帳簿を纏めて水槽の水を替えただけで2時間が経ってしまったことになる。

「もうこんなに遅いのにまだ暑いですね」
「そうだねぇ、今晩は熱帯夜だ。最近はホントに寝苦しくって」

 鍵穴に鍵の先端が吸い込まれるのを見届けて、透子は道路に視線を投げた。途切れ途切れに車のヘッドライトが過ぎ去っていく。店が面しているのはそう大きな通りでもないから、こんなものなのかもしれない。
 お疲れさま、とタカ丸に肩を軽く叩かれて、透子は振り向いた。

「遅くまでありがとね」
「いえ、私が仕事遅いのがいけないんで…なんかすみません」
「えー、そんなことないよ?透子ちゃんうちの店で一番働いてくれてるしさ。僕もね、カット練習早く切り上げればよかったなって反省中」

 あは、と照れくさそうに笑うタカ丸が何だか可笑しくて、透子はついくすくすと笑ってしまう。

「透子ちゃんお家帰るんでしょ?送ってこうか」
「え?いいですよ、タカ丸さん逆方向じゃないですか。もう遅いし、タカ丸さん早く帰った方が良いです」
「早く帰った方が…ってそれ僕の台詞だからね!?透子ちゃん女の子!僕男の子!」

 透子ちゃんのそういう男らしいとこが時々心配だよ!と慌てるタカ丸に、透子は首を傾げた。夜遅いと危ないということは、男女関係なく言えると思うのだが。男だから安心、ということも無いだろう。世の中には男狙いの暴漢というのも存在するだろうし。

「そんなことないですよ。タカ丸さん結構線細いし、危ないと思います」
「なんで真顔なのこの子…超こわい…」
「それは冗談としても本当に大丈夫ですよ。大通り歩いていきますし」
「そう?何かあったら大声あげなね?気を付けてね?」

 まったく心配性だと内心苦笑しながら、透子はタカ丸と別れた。透子のアパートがある地域はそんなに治安が悪いわけではないし、警察署も近いからそこまで心配することも無いのに。
 足を進めるごとに、パンプスのかかとがアスファルトを叩く音が小気味よく響いた。



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