003
「ああ透子ちゃん、お疲れさま」
「お疲れ様ですタカ丸さん」
タカ丸の美容室に透子が出勤すると、もう閉店時間も遠くない時間だった。今日はもともとシフトが入っていない所を、他の従業員の代わりとして呼びつけられたのである。
「すみません、遅くなってしまって」
「んーん。僕が無理にお願いしたんだもの、むしろ来てくれてありがとうだよ!透子ちゃん他のバイトもあったでしょ、大丈夫だった?」
「はい、丁度あがりの時間だったので」
透子は、ロッカーに入れた鞄から取り出したボールペンを、ジーンズのポケットに刺した。受付の仕事はもう大体頭に入ってしまっているので、最近ではスタッフルームに常備してあるマニュアルをシフトの前にいちいち確認する癖も抜けた。
「透子ちゃん、今日20時に予約入ってるから受付よろしくね」
タカ丸が差し出したメモ用紙を見て、透子は首を傾げた。受付には予約客用の台帳があるはずなのだが、わざわざ紙に書いて渡すということは、そこには載っていないということだろうか。
そう聞いてみると、タカ丸は「僕の友達だから、口約束で済ませちゃったんだ」と言ってへらりと笑う。口約束だろうが台帳には記入しておくべきだと思うが、そこは経営者、多少の横暴はまかり通るようだった。タカ丸の場合、横暴というよりは単にずぼらなだけなのだろうが。
「えぇと、じゃあお見えになったらタカ丸さんに取り次げばいいんでしょうか」
「うん、お願い。じゃあ僕はカット続き行って来るね」
ひらひらと手を振って、タカ丸は小走りでスタッフルームから出て行った。どうやら客のカットをしている最中だったらしい。
透子は何の気なしにメモ用紙に目を落とし、――そして再度首を傾げた。
「……何て読むんだろ」
「ひさびさちへいすけ…。いや、ないな」
ひとりごちて、透子は予約客の台帳にメモの内容を書き写した。どうしても、名前らしき文字の並びが解読できない。走り書きらしいタカ丸の文字は、それでもはっきりと「久々知兵助」の5文字を書き記しているのだけれど。…読めない。何だこの難読漢字。透子は首を傾げながらも、読み方に試行錯誤を重ねてみる。
もしかしたら過去に予約を入れている人ではないかと思って台帳を遡ってもみたのだが、同じ名前は一つとして見つからなかった。初めての客なのか、それとも今までタカ丸が口頭で予約を済ませてしまっていたのか。多分後者だろうが。
結局台帳の指名ふりがなは空欄にしたまま、透子はボールペンを置いた。
「…仕方ない、聞きに行こう」
接客中の美容師には極力声を掛けないというのがこのサロンの密かな決まり事なのだが、予約時間も迫っているし、そうも言っていられないだろう。客の名前を間違えるという失礼があってはいけない。
ぱたりと台帳を閉じて、透子は受付用スペースを出ようとする。閉店時間も近いので、スタッフは透子と数名の美容師しかいなかった。あまり長く受付を空けてはおけない。自然と早足になりながら、透子がタカ丸から受け取ったメモを片手に受付を出ようとした、その時。
カラン、と軽い音をさせてサロンの扉が開いた。来客、である。透子は足を止めて、少しだけ歩調を遅くして受付用スペースに戻った。
「いらっしゃいませ」
「予約していたくく…………あ」
客の声が不自然に止まる。そのことを不審に思った透子が顔を上げると、ぱっちりとした大きな双眸と目があった。
「……あ」
そうして透子もまた、口を円の形に開けて固まってしまったのである。
…あの公園以外の場所で初めて会ったなぁと、何だか場違いなことを思いながら。透子はここ最近よく公園で遭遇するようになったその青年を見詰めた。