彼の決意




 みぃちゃんがいなくなった。
 僕の知らない間に天から降りてきたみぃちゃんは、僕の知らない間に天に帰っていったものらしい。
 ちょっとした寂寥感が胸に去来して、その空虚に僕は少しだけ眉根を寄せた。顔面の筋肉を動かしたことで、右目を覆う包帯が少しずれて微かな違和感を生む。一見にも邪魔くさいその包帯は、先日猪を狩るときに頭を強く打って右目がほとんど見えなくなってしまったための処置だ。左右の視力が違いすぎて頭がくらくらしてしまうから、いっそ全部覆って右目を封じてしまったのだ。

「少し寂しいね」

 狼たちが餌を喰らうのを左目だけで見ながら言う。僕の左隣で同じように狼たちを見ていた八左ヱ門が、ぱっとこちらを向いた。その顔は何処か青ざめているようにも見えて。

「どうかした?」
「…っあの、天女さまを追っかけてくなんてことは…ないです、よね!?」
「追いかける?みぃちゃんを?」
 くっ、と。今度は右の袖が引かれる感触に視線を下げると、そこにはおずおずと僕の装束を掴む孫次郎がいた。下級生は猛禽の檻に近づいちゃいけないって言ってあるのに。僕が戒めの意味を込めて常より強い力で頭を撫でてやると、孫次郎は顔の縦線を少し増やしてきゃあ、と小さく叫んだ。
 再度視線を上げると、八左ヱ門はいつになく真剣な目で僕を見ている。一体どうしたって言うんだろう。

「追いかけられないよ。だって空は飛べないし」

 みぃちゃんは天に帰ってしまったのに、飛べもしない僕がどうして追いかけていけるだろうか。みぃちゃんが帰っていってしまったのは寂しいけれど、それはきっと仕方のないことだ。漠然とではあるけれど覚悟もしていた。

「僕はこの世界で生きていくしかないなぁ」

 みぃちゃんはとても綺麗で、汚れなくて、そして無知で無力だった。だからこそ僕は彼女を守りたいと思った。でもきっと、途中で擦れ違ってしまったのだろう。みぃちゃんを守ることに躊躇は無かったけれど、そのことだけが少し悲しい。

「満足したんだよ、きっと」

 みぃちゃんは人間だった頃、僕の無力のせいで死んでしまった。神様がそのみぃちゃんを天女として遣わせて下さったのだ。そして僕はそれを守ったつもりになって、過去の精算をした気になっている。
 自分勝手なのだ、結局のところ。

「僕はね、とても自分本意な人間なんだよ」

 それは自分自身が一番よく知っていた。みぃちゃんが来る前と帰ったあとで、僕という人間の価値はちっとも変わっていやしない。変わったのは僕の内側の、それもいっとう深いところにある小さなところだけ。そこに蟠っていたどろどろした後悔が消えた、それだけ。

「だからこれからは、ほんのちょっとだけ」

 自分以外のために生きてみたい。
 そうして言葉を切ったあとで、僕は孫次郎を抱き上げた。ひゃあ、と小さな悲鳴があがって、それでも孫次郎は僕に抱かれたまま大人しくしている。
 その真ん丸い両目は、臆病をたたえて潤んでいたけれど。
 そこから涙が零れることは、果たしてもう無かった。





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