平滝夜叉丸の恐怖
「随分遅くなってしまったな」
ひとりごちて、私は溜息を吐いた。委員会後、はぐれた三之助を探して3年長屋に放り込んだ帰り道は、高い位置に上った満月の明かりで妙に明るい。委員長である七松先輩は、明日の大猪狩りに参加するとかおっしゃっていたので早々に帰っていただいた。
泥まみれの頬を擦って、そのじゃりっとした感触に思わず顔を顰める。今から風呂に入っても冷めて汚れた湯にしか入れないのは目に見えているし、今日はいっそ行水だけで済ませてしまった方がいいだろうか。くたくたの体で釣瓶を引き上げるのは気が重いが、汚れたまま床に就くわけにもいくまい。
私は再度溜息を零して、井戸の方へと足を向けた。
「……?」
視界に現れた黒く巨大な影に、私は足を止めた。ぴくりとも動かないところを見ると獣の類ではないようだが、その丸みはおよそ無機物のそれではない。
(……何だ、あれは)
心中の問いに答える者は勿論いなかった。緊張に、こめかみの脈がうるさく鳴る。
懐の苦無を握りしめて近付くが、影が動く様子はない。月の明かりは、影の全容を判別するにはあまりに心許ないものであった。
ふと、影の一部から突起が伸びているのに気付く。ぐわりと湾曲したそれは、影の下部から天を目指して伸びて。たらりと頬を撫でた冷や汗が、首元に溜まった頭巾に吸われるのを感じた。
「……いの、しし」
私の身の丈以上はあろうかと言う巨躯をぐったりとさせて横たわるその影は、噂に聞く大猪の外見に驚くほど一致する。
混乱する思考は、懐の苦無を握る力をさらに強くさせた。
「…これは、」
おそるおそる触れてみると、ごわごわした感触が指先に返ってくる。それでも動かない猪を見て、私はほんの少し安心する。死んで、いるのだ。
――かつん。
不意に爪の先に当たった硬い感触に、自分でも情けないくらい肩が跳ね上がった。思わず自身の方に引いてしまった手をもう一度伸ばして、私はまた影の表面を探る。また指先に触れたそれをそろそろと確認すると、細長い鉄板が何枚も重なっているものだということが確認できた。そう、ちょうど、鉄扇のような。
思い切って掴んで引いてみると、ずるりという嫌な感触とともにそれは影から離れた。同時に、思いがけないその重さに驚く。思わず取り落としてしまったその重みのシルエットは、明らかに扇のものだった。
……鉄扇。そういえば、今行方が知れなくなっている6年は組の柊先輩も、鉄扇術を得意としていたのではなかっただろうか。
急に冷える頭の芯とともに、不吉な予感が胸のうちを占める。
近辺に出現するようになった大猪、狩猟の計画が噂されるとともに姿を消した先輩、その先輩の得意武器が刺さった猪の死体。まさか、まさか。
「っ!!」
気付けば私は走り出していた。急いで辺りを見回して、誰かいないかを探す。いや、誰かではない。恐らくは、死にたがりの社会不適応者として有名なあの先輩の姿を探していたのだ。
「柊先輩!!」
時刻も考えずに絞り出した声は震えていた。一度合同実習で組んだきりだが、その容貌は記憶している。影だけでも見れば解るはずだった。
ふっと目を向けた建物の影に、蹲る影を見とめる。見慣れた松葉色。毎日暗くなるまで同じ色をまとった背中を追いかけているのだ、いくら月光の中とて、間違えられるものではない。
「っ先輩!」
駆け寄って触れた体はまだ温かい。揺すれば呻くような声も返ってきた。良かった、生きておられる。
先ほどの私の声に反応してか、近くの部屋の明かりがぽつぽつと灯る。
蹲ったままの柊先輩が、呼吸音のような声を吐き出した。
(みぃ、ちゃん)
そのままゆっくりと弱まるその息がどんなに恐ろしいものであったか。私はそれを形容する言葉を持たない。
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