立花仙蔵の憎悪
柊がいなくなった。
実習から帰ったその日、入門表を書いていたら保健委員から報告を受けたのだ。あれは、2年の川西だったろうか。柊は先日頭に蹴りを受けて昏倒したばかりなのだ、出歩くなど以ての外であるというのに。
先生方が探して回られているということだったが、失踪した相手が学園一の死にたがりで有名な柊である。そこに流れていたのは緊張そのものであって。
こうしたわけで不安が限界点を突破した私は、柊を探しに行こうとしたところで文次郎に取り押さえられたわけで、結果このように長屋の空き部屋の中に放りこまれている次第である。どこにいるかもわからない柊を、生徒に探しに行かせるわけにはいかないという理由で。
猿ぐつわに、手足の完全な緊縛。自殺未遂を咎められた柊のような扱いに、どうにも据わりの悪い気分になった。
柊のように目隠しや耳栓こそされないが、これは存外に辛い。退屈に殺されそうだ。柊は音も光もない闇の中でこの退屈を、長い間。柊。嗚呼、柊に会いたい。顔が見たい。
「いいか仙蔵、口はずすから噛みついてくれるなよ」
溜息交じりに言う文次郎を見る。奴の傍らには湯気のたつ盆。今日も私の食事当番か、ご苦労なことだ。
「厠は?」
「今朝伊作に付き添われて行った。しばらくは問題ない」
痺れる舌で文次郎の質問に答える。常の柊とは違って食事を許される私は、排泄まで誰かに付き添われなければならない。6年も寝食を共にしてきて今更と言う感もなくはないが、やはりそう良い気分ではない。それを理解しているのか、文次郎もそうかと言っただけで締めくくった。
「柊は見つかったのか」
「大体の場所は探したがまだだ。おまえらの郷里にも人を遣ったらしいが居なかったとか」
文次郎が箸で差し出した飯を食らう。全く、これが柊であったならどんなに良かったか。
「……文次郎、頼みがある」
「緊縛は解かねぇぞ。少なくとも柊が帰るまでそのままだ」
「ちっ、恥を知れ文次郎」
「その罵倒おかしいって気付いてるか?」
苛立ちのままに舌を鳴らす私に、文次郎が冷静に突っ込んでくる。全く苛立たしい。だから貴様はいつまで経っても文次郎なのだ愚物め。
私の考えが伝わったわけでもないだろうが、文次郎が苦々しげに私を見た。
「何だ」
「……いや、これは噂なんだが」
そう言ったきり黙りこくる文次郎を睨み付けた。生来私は気の長い方ではない。
「何だと聞いているだろうが」
「飽くまで噂だからな。真に受けるなよ」
「くどい。早く言え」
「……柊がいなくなる前、最後に医務室を訪れたのはあの天女らしい」
ああ、またか。またあの女。
自然と眉根が寄る。偽物にも満たない雌のくせに、どうしてこうも私と柊の間に入り込んでくるのか。鬱陶しいにもほどがある。
「鬱陶しい」
静かに響いた私の声は、自分でも驚くほど冷め切っていた。なろうと思えばいくらでも冷徹になれる質だと自覚してはいたが、自分の喉からこうも硬質な声が出るものだったとは。
柊の笑顔が頭の隅をちらつく。あの笑顔は一体誰に向けられるべきものだ?妹か、天女か。
――せんぞう。
否。私だ。
私の全ては柊のものだ。同時に、柊の全ては私のものなのだ。
(私のものに、手を出すな)
心中だけで呟いた言葉は、底冷えするような冷気を孕んで。
こうして私は、育ち始めていた憎悪の芽に自ら水を与える。
[
back]