彼の夢想





 夢を見た。

 白い世界にいる。周りには何もない。ただ、広い広い空間があるだけだった。
 僕の隣にはまだ幼い時分の仙蔵がいた。僕が15の姿なのに仙蔵がまだ10にも満たない年頃だなんて、おかしな話だけれど。仙蔵は微笑んだまま僕を見ている。
 僕の筋ばった腕の中には、麻布にくるまれた乳飲み子が、すやすやと眠っていた。胸の前で握られた右手、その甲には大きな黒子がある。
 あぁ、この子はみぃちゃんなのか。顔の上半分は麻布に隠れて見えなかったけれど、僕の腕の中の赤子は明らかにみぃちゃんだった。僕の、かわいい妹。

『みぃちゃん、』

 僕の声は狭い洞窟の中のように反響して響いた。まるで、自分の声ではないみたいだ。
 みぃちゃんの林檎のような頬っぺたに指先で触れる。途端、起きてしまったみぃちゃんはけたたましい声で泣き始めた。
 ああ、泣かないで、泣かないで。
 ほとんど祈るように、腕の中の柔らかなかたまりを揺すった。でも、あやしてもあやしてもみぃちゃんが泣き止む気配はない。

――この子が泣くのはあんたの責任なんだからね。あんまり五月蝿いとひどいよ。

 聞きなれた声が背中にぶつかって、驚いた僕は勢いよく振り返った。何もない、白い世界だったはずのそこには、継ぎ接ぎだらけの汚ならしい襖が立ち塞がっている。
 ああ、ああ。この向こうで、母さんが知らないお客と。
 駄目だ、駄目だ、五月蝿くしては駄目。五月蝿くすると母さんが来る。ぶたれてしまう。

『お願い、静かにして』

 ぎゃあぎゃあと泣くみぃちゃんに掛けた僕の声こそ、今にも泣きそうに震えているというのに。
 どうしてみぃちゃんが泣くの。みぃちゃんは怒られることなどないくせに。みぃちゃんは全てのものから僕に守られているくせに。
 泣かないで、泣かないで。泣かないで泣かないで泣かないで泣かないで。

『どうしよう、』

 すがるように仙蔵を見た。幼かった仙蔵は、いつの間にか15の姿になって。
 ……泣いて、いた。
 真っ白な頬に涙をはらはらと伝わせて。

『どうして、泣くの』

 泣かないで。痛いよ。こころが、痛い。
 その涙が僕を切りつけて汚していくんだって、どうして誰も気付かないの。
 どうして。










 がたんっ、という音に、僕の意識は完全に覚醒した。目の前には、布団と仙蔵。仙蔵のつり上がり気味の目は、驚いたように僕を見ている。

「どうしたんだ、柊」

 仙蔵の目はそのままふっと垂れ下がって、優しげに僕に笑いかける。
 どうやら僕は、眠りから醒めるなり仙蔵を組強いてしまったらしいのだ。

「柊」

 仙蔵の薄い唇が、僕の名前をなぞる。仙蔵は、泣いてはいなかった。

「…仙蔵」

 男にしては薄い仙蔵の肩口に額を付ける。細い指が、僕の頭をそっと撫でていった。何度も、何度も。

「どうしたんだ柊。怖い夢でも見たのか?可哀想に」

 春霞を思わせて柔らかな仙蔵の声は、優しく僕の耳朶を叩く。
 せんぞう、せんぞう。
 ばかみたいにそう繰り返す僕の下で、仙蔵はゆるゆると僕を甘やかした。まるで、砂糖を溶かし込んだぬるま湯のような優しさで。

「泣いていない?仙蔵、大丈夫?」

 仙蔵から一旦離れて、彼の整った顔を見る。氷のような美貌は、少し驚いたあとで破顔した。

「何故私が泣くんだ?柊がいるだけでこんなにも幸せなのに」

 ああ。その蕩けるような甘ったるさが、僕はどうしようもなく愛しいのだ。
 僕は仙蔵の笑みに頬が緩むのを感じながら、またその胸元に顔を埋めた。髪の間を抜けていく仙蔵の指の感触が、何とも言えず心地いい。

「大丈夫だ、柊。私にはお前さえ居ればいいのだから」

 優しく響く仙蔵の声を聞きながら、僕はそっと息を吐いた。
 仙蔵が、剣呑に目を細めていたことなど全く知らずに。



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