02


 図書館で閉館まで自習して、さあ帰ろうと意気揚々と帰途についたら、大学の裏門を出たところで呼び止められた。いや、呼び止められたというか、肩を叩かれた。呼び止められもしたかもしれないけど、わたしにはその人が何を言っていたのか解らないのだ。耳慣れない音だったので、なにか方言かもしれない。
 がっしりとした体を黒いスーツに押し込めたその男の人は、何か長方形の紙とわたしを見較べる。暗くてよくわからないが、見た感じ写真らしい。辺りを見渡すと、同じような服装の人達が写真を持って辺りをうろついていた。警察か何か、だろうか。心中で首を傾げていると、ふいにわたしの目の前の黒服さんが辺りに声を投げた。短くてよくわからなかったけど、中国語とか韓国語とか、とにかくそういったニュアンスだ。警察、ではないのか。

「な、何なんですか」

 あっと言う間に、わたしは黒服さんたちに囲まれてしまう。ざっと7、8人。いくら都心部に程近い大学とはいえ、流石にこの時間、しかも裏門の辺りは人気がない。彼らはこんなところで何をしているんだ。怪しい。怪しい。いまさら怪しんだってもう遅いわけだが。
 最初に話しかけてきた男の人が、自分の後ろに向かって何か言う。少し間をおいて、わたしと同年代の青年が前に出てきた。黒い中国服で、ひょろりと長い。体格は平和島と同じような感じだ。

「あー、オ名前・教えてくだサい」

 と。彼は片言の日本語でわたしに言った。あ、日本語話せるのこの人だけなのかな。彼を仮に黒チャイナさんと呼ぼう。うん、みんな黒服で解りづらいし。

「…薫子ですけど」
「服部、薫子さン?」
「え?なんで苗字、」

 わたしは聞き返すが、黒チャイナさんは無視して周りに何か言う。途端、黒服さんたちが少しだけ色めき立った。な、何なんだろう。
 がっ、と。横合いから手が伸びてきて、戸惑うわたしのショルダーを掴んだ。黒服さんのひとりが、喚きながらショルダーの肩紐をわしづかみしている。

「な、何っ、やめてください!!」

 本格的にやばいんじゃないか、これ。この人数なら逃げられないこともないが、油断してショルダーを掴まれてしまった。置いて逃げることも出来るが、ショルダーの中には図書館で借りた書籍も入っているのだ。紛失の手続きだけは踏みたくない。そう思ってぐいぐい引っ張られる力に抗っていれば、黒チャイナさんが静かに諌めてくれたようで、ゆるりと黒服さんの手が離された。
 黒服さんが不快感をあらわにしている辺り、黒チャイナさんは地位の高い人ではないらしいが、この状況では誰だろうが仏に見える。離された肩紐は、おかしな形によれてしまっていた。

「すみまセン、バッグ・中身。私たチに、見せテ欲シイ」
「…え、」

 黒チャイナさんに掛けられた言葉に、わたしの思考は一瞬停止した。黒チャイナさん、仏じゃなかった。いや解っていたけど!この人も黒服さんたちの仲間だって解ってはいたけど!

「い、いやです!」

 必死に首を振る。黒チャイナさんが訳さなくても拒否の意思だけは伝わったらしく、黒服さんたちが一斉に喚き始める。わたしを怒鳴っているらしかった。え、だって、大事な書類とか、身嗜み用品とか、入ってるし。いくらわたしがずぼらだからって、生理用品とか見られたら恥ずかしい。
 びりっ、と。身体に電流が走ったように感じた。驚いて見れば、黒チャイナさんがわたしをじいっと見詰めている。彼は、他の人のように怒鳴ったりせず、ただ静かにわたしを見ていた。ああそういえば、この人最初から無表情だったな、とか。頭の隅がどうでもいいことを考え始める。
 目、が。目が、他の人と違う。例えるなら、粟楠会の赤林さん。あの人が誰かに銃を向けるとき、その時の目に、1番近い。これは、相手の命を、握り潰そうとしている目だ。


 ―――逃げなきゃ。


 そう思ったときには、わたしの身体は既に跳躍していた。黒服さんたちに囲まれた状態では助走もできなくて、少し高度が低い。でも、近くの住宅の屋根に上るには十分な高さだった。たん、と着地すると、わたしはがばりと黒服さんたちを見る。なんだか、黒チャイナさんからは出来るだけ目を離してはいけない気がした。黒服さんたちは呆然としている。黒チャイナさんは、まだわたしを見ていた。ふと、彼はまっすぐな姿勢で駆け出す。なに、え、なに。混乱するわたしが見ている前で、彼は、跳んだ。
 がたん!と派手な音をたてて、それでもわたしと同じ住宅の屋根に不恰好な着地を決めた黒チャイナさんは、体勢を立て直すとやっぱりまっすぐな姿勢でわたしに向かって走ってきた。やばい。わたしは急いで踵を返して逃げ出す。
 つか何その走り方!ター〇ネーターみたい!こわい!なんて叫ぶ余裕もない。ただ怖い。何でわたしが追い掛けられなきゃならないのか。あの黒チャイナは何者なのか(あんな奴にさん付けする筋合いなんかない!)。ただただ混乱する。
 今日のわたしは履き古した黒のパンプスにニーハイ、ホットパンツにぴったりとしたTシャツという出で立ちだ。スカートとかハイヒールとかじゃなくて本当に良かった。ちらりと後ろを窺うと、黒チャイナとわたしとの距離は一定で、相手は慣れない足場な分わたしの方が有利だろう。黒チャイナは屋根伝いの走り方を知らないようで、時折躓きそうになっている。これなら簡単に振り切れそうだ。忍者の末裔舐めんな。この時ばかりは実家の教育に感謝する。後にも先にもこれきりだろうけど。
 わたしは勢いをつけて屋根の上を跳んだ。


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