03
池袋駅の構内を駆け抜ける。幸いまだ日が出ていないので、浮浪者くらいしか人はいない。わたしはまだ、黒チャイナとの(多分)命懸けの追いかけっこを続けていた。黒チャイナはしつこい。振り切ったと思って足を止めれば、何処からかわたしの気配を察知してまた追いかけてくる。わんこかお前は。
どの出口から出たらいいんだろう。まあ、どの出口から出たって黒チャイナは追いかけてくるだろうから一緒なんだけど。
そろそろふくらはぎがぱんぱんに張っている。今足を止めたら確実に足がつる。休み休み3,4時間は逃げ回っている計算なので仕方ないだろう。息だってそろそろ苦しい。でもそれは黒チャイナも同じ、彼にとっては慣れないであろう足場も多かったので、ともすれば疲労度はわたしより上だ。わたしか黒チャイナ、どちらか一方がばてれば、良かれ悪しかれこの追いかけっこは終わる。
階段を3段飛ばしで駆け上がり、外に出たところで電話ボックスを足場に跳躍した。今時電話ボックスなんか必要ないだろうと思っていたけど、そんなことなかった。ありがとう東京都。ありがとう池袋。
街路樹の枝に足をかけて振り返ると、もう跳躍する体力は残っていないのか、黒チャイナは膝に手をついてこちらを見ていた。その肩は、小さくだが激しく上下している。ター〇ネーターみたいなイメージだったんだけど、そんなことはなかったようだ。
もう少し走って、完全に振り切ったら家に帰ろう。今日は大学休もう。そう思いながら前に向き直った瞬間だった。
ばしゅっ。
耳慣れない音と共に、わたしの右肩からどす黒い赤が飛び散った。なに。
――撃たれたのだと認識するより早く、がくんとくずおれる。どうやら足が限界に達していたようだった。細い枝が腕やら身体やらを引っ掻いていく。べちゃり。わたしは不様に地面に落下する。受け身はとったが不完全で、肺を揺らした衝撃のために一瞬息が止まる。
じわりじわりと、アスファルトに赤い水溜りが広がった。肩から流れる血は存外多いようだ。身体中が痛くて俯せて呻くしか出来ないでいると、ぐいっと無理矢理身体を起こされた。強制的に上半身だけ海老反りの体勢にさせられる。
「カード、渡して欲シイ。渡せバ痛くシナイ。病院・連れてク」
黒チャイナが息を整えながら囁いてくる。カード?カードってなんだ?テレホンカード?トレーディングカード?学生カード、とか?
「わかん、ない」
自分でも驚くほどか細い声が出た。黒チャイナに届いたかすらわからない。ただ彼は少し目を細めて、ぐり、と指で私の肩をえぐった。――激痛。あまりの痛みに声すらでない。じわり、涙で視界が滲んだ。
人通りは少ない。数少ない通行人も、黒チャイナの恰好とわたしの身のこなしのせいで映画の撮影か何かだと思っているらしい。時折写メを撮る音が聞こえてきた。見世もんじゃねえぞこんちくしょう。
黒チャイナの額には玉のような汗がびっしりで、それが卵形の顔のかたちをなぞるように顎に向かってだらだらと流れていった。わたしもそう変わらない状態なのだろうが、いかんせん身体の痛みが先立って汗が出ているかどうかなんてわからない。
「カード。服部薫子が持ってる・聞いタ。カード、渡す。イイ?」
だからカードって何だよ!叫びたかったが、黒チャイナの指は依然私の肩を万力じみた力で圧迫したままだ。
「知らなっ、い゙ッ!!?」
ぎぢり。聞いたこともないような嫌な音がして、さらに肩の痛みが増した。爪を、たてられている。身体が痛みから逃げようとして足が弱々しく地面を引っ掻くが、全く楽にはなれない。
「なに、なに、カードなん、か、知ら、ない…!」
「……」
黒チャイナが小さく息を吐いて、わたしの肩から手を離す。そのまま彼の手はわたしの服の襟ぐりを引っつかんで、わたしを引きずりはじめた。ずりずり。ひょろいとはいえ黒チャイナも一般成人男性くらいの力はあるようで、わたしはかなりの速度で引きずられていく。どこにいくんだろう、服が破けたらどうしよう、わたしは殺されるのかな。色んな考えが、ちらりと頭の隅を掠めては消えていく。思考全体に霞が掛かったように、全てがぼんやりしていた。ずり。ふいにわたしを引きずる力が緩んで、わたしはまた地面に俯せた。ねむ、い。3月の池袋でも、寝たら死ぬんだろうか。
意識が沼る寸前、わたしが見たのはぼろぼろに履き潰された見覚えのある革靴だった。
ロマンスが消える夜明け
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