抗鬱剤 | ナノ


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「ヘマタイト、ボクのお嫁さんになればいいのに」

 クダリが言う。事務室にいる誰もが、その零れ落ちる言葉を無視した。ばらばらと散らばった言葉は空気に溶けて消える。メルトダウン。クダリはひっそりと目を細めた。世界を吸って吐いて生きている森羅万象万物はとても優しいけれど、やはりヘマタイトほどは優しくないのだ。
 ボクがお嫁さんになるのでもいいなぁ。そう思いながら、クダリは手袋を外して壁に掛けたコートのポケットに捻じ込んだ。手袋をしていてはペンが上手く使えない。ノボリはたとえ夏だってコートも手袋も外さない。変だ。おかしなノボリ。いつかヤミラミに目玉をくり抜かれてしまいそうだった。
今日のクダリの仕事は、執務机に乗っている紙束にマダツボミを書くことだった。ノボリはクダリの書いた書類を見て、いつも「ミミズがのたくったようなサインですね、もっと丁寧にお書きなさいな」という。でも、クダリはいつもマダツボミを書いているのだ。不正解。
 クダリはカズマサが淹れてくれたカフェオレを、ひとくち飲んだ。砂糖がたっぷり入っているので、割合甘い。本当ならクダリはホットミルクが飲みたいのだが、駅職員ともあろうものがトリプトファンを摂取するなど言語道断、とみんなに言われてしまったのだ。トリプトファンとは何なのか、クダリは知らない。何となく空を飛びそうな名前だなぁと思うので、それには翼が生えているのだろう。今度ヘマタイトに教えてもらうことにする。

「白ボスー、黒ボスが帰って来る前にそれ終わらせちゃってくださいよ?」
「そうそう、ヘマタイトへのプロポーズは直接言ってくれって話ですよ」
「ヘマタイトって誰だっけ?」
「ほら、バトルサブウェイのあの、若い整備士」
「ああ、あのおっそろしく素早さ低いエンペルト連れてる子?」

 事務室の虚空を飛び交う言葉たち。ぼろぼろこぼれているのに、誰も気にする素振りはない。みんな会話をしながら手元の書類を片付けるのに一生懸命なのだ、とクダリは思った。頭の片隅で、あのエンペルトはとても毛並みがいいんだよ、と教えてあげる。伝わっているだろうか。クダリは特性がシンクロじゃないからきっと誰にも分からない。天井に開いた目玉を見た。

「ヘマタイト、今日は何時に終わるのかな?」

 クダリの言葉は、今度は零れ落ちることなくクラウドに拾われた。零さないなんてクラウドすごい。名人だ。クダリは思った。言ってはやらない。ヘマタイトに会えていないので、クダリは今日少し意地悪だった。

「そら整備班に聞かんことには。白ボスが早く仕事終わらして、ヘマタイト待っとったらええんとちゃいます?」

 クラウドの言葉に、クダリの目からハートのうろこが落ちた。ぽろり。すると床に沢山目が開いて、うろこの取り合いを始める。しかしクダリはそんなことに構っていられなかった。

「すごい!クラウド、あたまいい!ボクそうする!!」

 クダリは急いでペンスタンドから万年筆を取って、紙の束にアーボックを書きはじめた。途中でここにはマダツボミではなかったっけ?と思ったが、クダリにはどうでもいいことだった。頬をベッタリと机につけて、齧りつくように書く。ノボリはいつもクダリの事を姿勢が悪いと叱るけれど、この書き方はとても捗るのだ。まるで疾走するテッカニンのようだ。テッカニンは地べたを走らない。
 やがて戻ってきたノボリが、「クダリ、貴方間違えてわたくしの名前でサインしております」と苛々しながら言っていたが、クダリは知らんぷりをした。


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