抗鬱剤 | ナノ


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 ヘマタイトを見るたびに吐き気を堪えなければいけないのはかなり辛いものがある。ノボリは書類仕事の手を休めて溜め息をついた。隣り合わせに誂えられたデスクのもう一方では、クダリが書類で紙飛行機を作って飛ばしていた。叱る気にもならない。
 いっそサブウェイマスターの権限でギアステーションから移動させようかとすら思う。それくらいの権限ならばあるのだ。しかし自分の苦手意識で配属を変えるのは、あまりに身勝手なように思えた。サブウェイマスターのノボリは、至極真面目な男である。

(…せめて顔をあわせないように出来ればいいのですが)

 傍らに置いてあった紙コップの、冷めた珈琲を啜る。すでに生ぬるくなった苦い水は、ノボリの喉を伝って胃に落ち込んでいく。何も入っていない胃の壁を珈琲が流れる様を想像して、ノボリはそっと息をついた。先ほどもヘマタイトと鉢合わせして胃の内容物を戻してしまったので、ノボリの胃には今胃液くらいしか残っていないのだろうと思う。
 車両整備士のヘマタイトは、機能目的上念入りな整備が必要なバトルサブウェイと関わることが多い。そしてノボリは、バトルサブウェイで最も本数の多いシングルトレインの車掌だった。顔をあわせるな、という方が無理な話である。

 こんにちは、ノボリさん。

 抑揚のないヘマタイトの声が脳裏を掠める。ノボリは再び気分が悪くなるのを感じた。胸の辺りに凝る吐き気を、口許に手を当てて堪える。
 ヘマタイトを見る度に、あの記憶が蘇る。ぐしゃりという音、世界を裂くようなブレーキ音、目の前を伝う赤い滴。
 わかっている筈なのだ。ヘマタイトは彼女ではない。あの時列車の前に飛び降りたあの少女では、ない。

(…なのに)

 なのに何故、自分はこうもヘマタイトに負い目を感じているのか。

「ノボリ。今日ボク、ヘマタイトとランチの日」

 隣で楽しげに言ったクダリを見やる。覚えていないことは、時によって幸福となりうるのだ。

「……羨ましいことです」

 満足げに笑うクダリを見ている。羨ましい、限りである。
 そう、自分は弟を羨んでいるのだ。ノボリは珈琲を飲み下した。苦い水が、身体の中を流れていく。




 2011.10.16.


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