▼ gray
「こらっ、大人しく、してったらっ」
ばしゃばしゃ。盥の中で暴れるチョロネコを押さえつけて、その体についた泡を落としていく。風呂場で奮闘するヘマタイトの隣では、邪魔だからと浴槽に放り込まれたエンペルトが、所在なさげに佇んでいた。王冠のような嘴にハンドタオルを掛けられて、どこか不満げにも見える。
「ほら、もう拭くだけだから」
バスタブの中のエンペルトからタオルをとって、ヘマタイトはチョロネコの体を拭く。ふと鏡を見ると、びしょ濡れになった自分と目があった。
もう風呂に入って寝てしまおう。チョロネコをタオルでがしがし擦りながら、ヘマタイトはそう決めた。
***
ぴちょん。髪から垂れた雫が、湯船に落ちた。広がる波紋。雨みたいだった。
風呂場の外では、チョロネコがエンペルトに追い掛けられている音がひっきりなしにしている。しかしヘマタイトのエンペルトは鈍重で、チョロネコを捕まえられた試しがない。レベルはそれなりに高いのに、何故だか素早さだけが一向に上がらなかったのだ。
(…大違いだ)
ちがう。いつも先制をとって、相手の技を軽々と避けていた、あのこのレパルダスとは大違いだった。別に劣等感など更々ないが、チョロネコを見ていると、あのレパルダスの美しさが脳裏を掠める。
ぴちょん。また雫が落ちた。
(あのチョロネコもいつか、)
いつか、あのレパルダスのようになるのだろうか。なるだろう。だって、あのレパルダスの子供だもの。
ヘマタイトの親友はとうに死んだ。あのレパルダスも死んでしまった。あのこは自殺で、レパルダスは寿命だったのだけれど。
ヘマタイトにとっては、あのこが全てだったのだ。明るくて、楽しくて、強くて、可愛くて。憧れだった。彼女になりたかった。
(……でも、死んだ)
そう、死んだのだ。ヘマタイトにレパルダスを託して、ヘマタイトの目の前で、列車に。
あのこは死んでしまった。死んでしまって、それだけだった。
何も起こらなかった。死んだだけだったのだ。あんなに明るくて、楽しくて、強くて。ヘマタイトの世界そのものだった彼女が死んだのに、世界はずっとそのままだった。美しかった。それは、憎らしいほどに。
変わったのは、もう死んでしまったレパルダスと。あのこを跳ねた列車を運転していた一組の双子、それだけだった。
片割れは自分を罰する錯覚を得るために自身を傷つけて。もう片方は自分を守るためにすべてのことを忘れて。
ヘマタイトはといえば、何も変わらなかった。そう、何も。自分の世界が、失われたというのに。
(ああ、)
生きていたくないな。少しだけ、ほんの少しだけ、そう思う。
ぴちょん。雫が落ちた。泣きたいな、そう思った。
2011.10.07.
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