▼ black
どんという鈍い音、けたたましい音をたてて止まる列車、慣性にしたがって前につんのめる体。どこかでグシャリという音がした気もするが、そんなことはノボリもクダリも認めたくはなかった。
しかし、目の前の現実はそれを許さない。
恐る恐る目を開けた2人の前には、真っ赤に染まったガラスがある。つうう、と雨のように伝い落ちる、赤と透明の雫。地下鉄に雨は降らない。
表情を無くして震えるクダリを置いて、ノボリは運転席の扉を開けて列車から降りた。既に他の駅員が何人か駆けつけている。新人研修の時ノボリについた先輩が、お前は見るなとノボリを止めた。
列車はホームの半ばで止まっていて、心ない野次馬が人だかりを作っている。
――その、只中で。
呆然としたように立ち尽くす少女を、ノボリは見た。
あれは。あれは――……
***
はっと目が覚める。ノボリは、自分がダイニングテーブルに俯せて眠っていたのだと気付いた。
リビングでは、クダリが何やらバラエティ番組を見ている。クダリはいつも笑っているが、その実本当に笑うことは少ない。
笑顔である、だけなのだ。本当は自分より無表情なのだろうと、ノボリはそのように思っている。
寝起き特有の、上手く開かない瞼をふせた。うずうずと右手の指が左手首に伸びる。ざらりと、瘡蓋だらけの腕の感触が指先に触れた。
(……切りたい)
自分がリストカットに依存していることは分かっていた。しかし、分かっているからといってどうにか出来るものではないのである。簡単には抜け出せない故の依存であり、そうであるノボリにとって、左手首の痛みは酷く優しい。
カッターは何処だったろうか。書斎の引き出し、あるいはペンスタンド。寝起きではっきりしない思考は、どろどろと記憶を垂れ流す。ああ、吐きそうだ。
***
洗面台の排水口に流れる血を見て落ち着くだなんて、どうかしているのだとノボリは思う。でろりと、何か汚いものが流れていく、そんな気がしている。気がする、だけなのだけれど。
本当のところは、ノボリが自身を傷付けたところで何も解決しないのだ。
(……いや、)
解決は、しているのか。
とうの昔に終ったことを、ノボリはずるずるずるずる、引き摺っているのだ。
(何年も、毎日毎日)
数年前、まだノボリもクダリも新米の運転士だった頃。少女を、轢いたのだ。駅のホームで。自殺だった。
もとより停車駅ではなかった。止まることなど出来なかった。
フロントガラスにこびりついた赤を、そこら中に飛び散った肉塊を、ノボリはまだ忘れることが出来ずにいる。
――ともだちだったんです。
ふと、ヘマタイトの声が脳裏を掠めた。友達、それも特別親しい間柄だったのだと言った、あの少女。
あの事故の時、ホームから呆然と立ち尽くしていた少女は、ヘマタイトだったのだろうか。ノボリにはわからない。わかったところでどうしようもないのだ。
(……ああ、)
どうしようもない。自分には何もできない。この自慰行為にも似たリストカットをするしかないのだ。否、それすらまた自己満足にすぎない。これは罰ではない。手首の無数の傷は、ノボリの逃避の証だった。自分は、何一つ償ってなどいない。
……ああ、嗚呼。吐きそうだ。
2011.10.04.
prev / next