抗鬱剤 | ナノ


▼ black and gray


「あのこ、ともだちだったんです。わたしの、いちばんの」

 一瞬、彼女が言っていることを飲み込めなくて。ノボリははぁ、と彼にしては珍しく気の抜けた返事を返してしまったのであった。
 否、一瞬と言っては語弊があるだろう。だって一瞬どころか数秒かかっても、ノボリには分からなかったのだ。彼女が言う「あのこ」とはいったい誰のことなのか。ごおお。目の前を過ぎ去っていくシルバーグレイの車体はこのギアステーションでは止まらない。ノボリと彼女の立つホームに風を巻き起こして、そして何事もなかったように去って行った。
 ノボリと彼女の脇に、風にあおられた新聞紙がぱさりと落ちる。書いてあるのは他愛もないことだ。強盗がダゲキに取り押さえられただとか、どこだかの水族館にイッシュ地方には生息しないタマザラシがやって来ただとか。どうでもいいことだった。知らなくても何の影響もない、ただの読み物のような記事だった。
彼女はと言えば、くたりと力なく横たわる新聞紙を見ている。
 拾わなくてはならない、そう思う。駅舎にごみが落ちていれば、拾って所定の場所に捨てなくてはならない。清掃係ももちろんいるが、だからといって他の職員が駅を綺麗に保つという責務を怠っていい理由にはならないのだ。
 拾わなくては。しかしその思考に反して、ノボリの身体は微動だに出来ずにいた。ノボリはただ、ばかみたいに突っ立って新聞紙を眺めているだけなのである。どうでもいい記事の乗った、ごみでしかない1枚の新聞紙を。



***



 ヘマタイトというのは、新しくギアステーションに配属された、新人整備士の少女である。年齢から言えば少女という認識には誤りがあるのかもしれないが、しかしそのあどけないかんばせに、女性と言う名称をあてがうのは何とはなしに躊躇われた。
 ノボリはヘマタイトと特別親交があったわけではない。サブウェイマスターたる彼にとって、ヘマタイトは数多くいるギアステーションの職員の1人に過ぎないのだ。顔を知っていたのはバトルサブウェイの整備が他の車両と比べて桁違いに多いからであり、名前を知っているのは上に立つ者の責任感がそうさせたところが大きい。もしかすれば、声を聴いたのでさえ今日が初めてなのかもしれなかった。
 だからヘマタイトの突然の、それも訳のわからない告白は酷くノボリを驚かせた。

「……何を仰っているのでございますか」

 ノボリの表情は乏しい。いつも仏頂面であって、しかし存外に積極的なその内面に驚く者も多い。対してヘマタイトは、仏頂面とも行かないまでも無表情である。そういえばノボリはヘマタイトが何らかの感情を表に出しているところを見たことがなかったのだった。そこまで親しくないからだと言われてしまえばそれまでなのだが、ノボリの中のヘマタイトはどこか機械的で、無機質な印象を持っていた。
 ヘマタイトは新聞紙から目を逸らさない。ノボリもまた、俯き加減のヘマタイトの顔から目が離せずにいた。

「別に意味なんてなかったんです。彼女の恋愛が感動の実話として出版されて大ベストセラーになったなんてことも無かったし、彼女の灰が世界の中心と称したシロガネ山にばらまかれるなんてこともなかった」

 新聞の小さな、4センチ四方くらいの場所が、彼女に与えられたスペースでした。
 そう言ってヘマタイトは唇を閉ざした。そうして、ヘマタイトは初めてノボリの目を見る。その鳶色の虹彩からは何も読み取れなかった。ただ眺めているだけだった。彼女にとってノボリは風景のひとつに過ぎないのだと、ノボリはそう思う。

「貴方様は一体誰のことを、」

 仰っているのですか。
 ノボリがそう続けようとした瞬間、ふっとヘマタイトが微笑んだ。…いや、或いはただ口を引き結んだだけなのかもしれない。それほどに微細な表情の変化であり、しかしノボリはそれを笑みと認識した。それだけのことである。
 そう、ただ、それだけの。

「ほんの少しのひとが悲しみました。でも、大多数の人は何も思いませんでした、知ろうともしませんでした。それだけです。世界は狂いなく進みます」

 わからなかった。ヘマタイトが何を伝えようとしているのか、ノボリには皆目分からない。或いは、伝えるべきことなど彼女は持っていないのか。無為に時間を食いつぶしているだけの、それだけの。
 言葉の羅列だ。意味など無いのだ。

「だから私は愛おしいんです。唯一あのこの為に狂った貴方たちが。ただ、愛おしい」

 彼女の唇が柔らかに弧を描いた。目が暖かさを伴って細まる。ああ、やはり笑みだ。その柔らかさはさながら慈母だ。
 ごおお。列車が来る。ノボリとヘマタイトは白線の内側に立っている。アナウンスが響く。れっしゃがまいりますはくせんのうちがわにおさがりくださいただいまはいりますれっしゃはとうえきにはとまりませんごちゅういください――列車が来る。列車が。ごおお。

「内側って、どっちでしょうね」

 彼女がふらりと動いた。白線の、外側に。
 ホームを抜ける風、鼓膜を突き破るような音でブレーキを掛ける列車。
 ――ノボリの腕の中の、ヘマタイト。
 咄嗟に彼女の腕を掴んで引き寄せたノボリの反射神経がなければ、彼女は肉塊となっていただろう。ヘマタイトの一連の行動に、迷いなど一切見られなかったのだ。

「……あのこ、ともだちだったんです」

 ヘマタイトはもう一度繰り返した。ノボリの卵型の顔の輪郭を、冷や汗がなぞる。
 飛び散る肉と血、体液。赤く染まったホーム。列車の窓ガラスを伝う、桃色がかったクリーム色のような、脳が。

「ありがとう」

 彼女が微笑んだ。一体何に対しての礼であったのか、ノボリには分からない。
 胃が引っくり返るような嘔吐感に襲われたノボリは、そのままくずおれてホームのコンクリートに黄色い胃液を吐いた。
慌てた様子の駅員が走ってくる足音を聞く。コート越しに背を擦るヘマタイトの手の感触に、ノボリはまた吐いた。






2011.10.03.


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